マクロビオティックな歯医者さんの食と暮らし                   食養塾 無何有庵の日々

無(む)と空(くう)の癒しの時間の中で、心食動息の一つ一つを共に考えていきたいマクロビオティックなスペース。

何だかのせたくなった、いい話

2007年09月23日 12時39分17秒 | スタッフのブログ
『人に何かをしてあげること』

私は比較的やさしい、思いやりのある人間だと自負していた。

長女で、忙しい両親に代わって妹や弟の面倒を見てきたことが習い性となったのか、頼まれごとをされれば、何でも引き受けてしまうし、少しばかり自分の時間や労力を費やすことになっても、それを惜しむ気持ちいはあまりならない。

だから他人からは、面倒見がいいとか、気配りがあるとか、やさしいとか言われ、そう言われればもちろん悪い気はしないから、自分でも何となくそんな気になっていた。

そんなある日のことである。
食事中に私は、友人から意外なことを言われた。

共通の友人の窮地を見かねて、私が一肌脱いだ経緯を話し終わった時、彼は小さく溜息をついて言ったのだ。

「君のやさしさってさ、自己満足的なところがあるよね」

私はカチンときた。

「どういうことよ、それ」

「いや、だからさぁ、君は確かに相手のために何かをしてあげているんだろうけど、結局それは、自分の美学をまっとうするためって感じが、ときどきするんだよね。」

彼は言いにくそうに、けれどもきっぱりと私に言ってのける。

私は猛然と反論しはじめた。

「何かしてあげて、それで少しばかりこちらの気分がよくなったら自己満足なの?やさしくしてあげよう、と心掛けていることをしたのに、それは自分の美学を遂行したにすぎないって言葉で片づけるの?
それって、あんまりじゃない。
もちろん私は神でも仏でも聖人でもないんだから、そりゃあ無垢な心でやっている訳ではないけど、相手のことを思いやってやっているのは事実よ。」

黙ってしまって彼の前で、私はひたすら言葉を続けた。

「百歩譲って偽善でもいいじゃないの。
偽善でやさしくできる方が、何もしないより少しはましでしょ?
能書きばかり言って、あなたみたいに何もしない人っていうのが一番始末が悪いのよ」

こちらもついつい興奮して、刃の鋭い言葉を投げつけてしまう。彼は苦笑して私を見た。

「ごめんごめん。べつに君を批判しているわけじゃない。
人に何かをしてもらいたいってことばかり求めている人が多い中で、君みたいにしてあげることを喜べる人は、偉いと思っているよ。
ただ……。そこで立ち止まっているのは君らしくないと思ってるだけ。」

話はそこで終わり、気まずいまま私たちは店を出て、ほとんど会話することなく駅まで歩き、そしてそのまま別々の電車に乗った。
下り電車はまだ混んでいて、私は吊り革にぶら下がりながら、さっきの友人の言葉を思い返した。
腹は立つのだが、何となく気になる。
残念だが心の奥底が、どこかで彼の言葉を認めているような気もしはじめていた。

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ふと昔聞いた仏教説話を思い出す。

それは地獄を釈迦が歩いている時のことだった。
地獄に落ちた人々が、釈迦に向かって口々に「食べ物をくれ!」と叫ぶ。

釈迦はその言葉を聞き、大皿に食べ物を山のように盛り、人々の前に置いた。

そしてこう言ったという。

「食べても良いが、手掴みではいけない。この箸を使って食べるように」

差し出された箸が、重くて長い箸だった。
人々は釈迦が歩み去るのを待ちかねて、箸に手を伸ばし、食べ物を口に入れようとした。

ところが箸は長いので、食べ物を箸の先が掴んでも、遠くてそれを口に入れることができない。

ならば箸の下のほうを持って……と試みても、箸は重いので、今度は満足に操ることもできない。

結局、目の前に山のようなご馳走があるのに、それらを口に入れることができないのである。

人々が泣き叫んでいると、ある一人の老人が何事かを思いついた。

箸で食べ物を掴んだら、自分ではなく、目の前の人の口に入れるのである。
食べさせてもらった人は、もっと食べたいから、その人も箸で食べ物を掴み、自分の口ではなく、目の前の他人の口に入れる。

自分ばかりが食べようとしている時には口に入らなかった食べ物が、人に食べさせることによって自分の口に入る。

《人を思いやることが、結局は自分に戻ってくることにつながるのだ…》

というような話だった。

この戒めはキリスト教にもある。
聖書には「自分がしてほしいと思うことは、人にもそのとおりにせよ」という言葉がある。

ことごとく基本的な「思いやり」の教えなのであろう。

けれども、あの仏教説話を聞いた時、確かその話をした人は、こんなことを付け加えていたのではなかったか。

「これは、思いやりは大切だという教えではありますが、もう一つ大切なことが隠されています。

それは多くの人が誰かのために何かをするという行為は、
所詮自分への見返りを期待してのこと。

仏の慈悲と同じだと思い上がってはいけない……ということです」

友人はこのことを言っていたのだろうか。
自分の行為を仏と同等に扱ってはいけない。
それは思い上がりであるといいたかったのであろうか。

私は決して、何かを人にしてあげる時、具体的な見返りを期待しているわけではないと思っているが、でも心の底には、そうする自分を見て満足するとか、人の評価を聞いて満足するというような、精神的見返りを待っているところが皆無とは言いがたい。

私がささやかにしている行為など、愛の足元にも及ばないのかもしれない。

私は胸が苦しくなった。

してもらうことを望むより、してあげることの喜びを感じられる方がいい。
偽善でも見返りを求めるような気持ちがあっても、やさしさを表さぬよりは、表したほうがいい。

けれども、そこは第一のステップにすぎない。
その上に、階段はずっと続いているのである。
私はその階段があることに気づいていなかった。

…いや、気づいていたかもしれないが、面倒で、見ないようにしていたのかもしれない。

友人はたぶん、そういうことを言いたかったのだろう。
けれども、だとしたらいったい私はどうしたらいいのだろう。

どんなふうにすれば、せめてもう一段、階段を上がれるのだろう。

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帰宅後、私は思い余ってさきほど別れた友人に電話をした。
電車の中で気づいたことを素直に告げた後、どうすればいいのだろうと尋ねたら、彼は笑いながら言った。

「感謝感謝」

「え?」

「神や仏の愛はもちろんだろうけれど、たとえば……
植物はさ、あなたのために無償で空気を提供してくれてるんだし、太陽はさ、何の見返りもなくあなたを暖めてくれてる。
人は誰もみんな、気づいていないかもしれないけど、
ものすごい『やさしさ』を与えられながら生きているわけよ。

それを思えば、君は誰かに何かをしてあげた時、きっと自己満足なんかしないと思う。

むしろ、あたりまえだと思っていた街路樹やこもれびにサンキューって言いたい気分になると思う。
偉そうなこと、俺も言えないけどね」

私は体中が温められたような気分だった。

その友人は2年後に亡くなった。

周囲の人の殆どは知らなかったが、彼はずいぶん以前から思い病を抱えていたという。

もちろん私もそんなことは全く知らなかった。
郷里に住む高齢のご両親にかわって、友人たちが彼のアパートの整理をした。
そのうちの一人が、後日私に電話をしてきた。

「彼の部屋は貼り紙だらけだった。
※テレビには『笑いに感謝』、
※流しの水道には『水に感謝』、
※トイレには『排泄に感謝』、
※ベッドには『眠りに感謝』、
それに……薬の入った箱にまで貼ってあるの。
何て書いてあったと思う?





※『病気に感謝』って書いてあったのよ」

彼女はそういうと電話口で泣き出した。

人に何かをしてあげること。

それはもしかしたら、自分が目に見えぬ多くのものに守られ愛され支えられていることを素直に感謝する瞬間なのかもしれない。

次のステップはまだ遠い。
でも私はあの友人のおかげで、ほんの少し心の階段を上がることができたかもしれないと思っている。

(By こうづ かんな)


「幸せは得るものではなく、気づくもの」
「幸せだから感謝するのではなく、感謝しているから幸せなのだ」
と教えてくれるエピソードですね。

人は悲しみを知るから、本当の喜びを感じられる。
孤独を知るから、本当の繋がりを感じられる。
貧しさを知るから、本当の豊かさが分かります。

「闇」があるから、「光」がある。
そういう2極性の世界を私達は生きています。

他人という鏡を通して、自分を知っていく。
「他人」がいるからこそ、「自分」が存在する。

そう考えると、

「自分がしてほしいと思うことは、人にもそのとおりにせよ」
という言葉の本当の意味がわかってきます。

他人に与えるということは、結局、自分に与えること…
に繋がっているのだと僕は感じています。

なぜなら…元々すべてはひとつだから


私の知り合いの方の文章をそのまま使わせていただきました。
何度か読み返してみたのですが、深いです。

まだ、理解できていないところもたくさんあると思います。
これからも何度も読み返して行きたい文章の一つです。
長々と書いてしまいましたが、読んでいただいてありがとうございました

ごはん

2007年09月23日 10時37分46秒 | マクロビランチCafe ゆるりまんま
はん'ずのみほこです。

今日朝ごはんを炊いていましたが、火加減失敗

黒こげにはなりませんでしたが、
ナベ底一面おこげ。しかも、頑丈

ようやくはがして食べてみると、

こうばしくておいしい



を通り越して、まるで、あごぢから養成ごはん

しょうがないので、おこげは息子ちゃんのおやつに。

ごま油で香ばしく焼いておしょうゆ味だ