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満蒙開拓平和祈念館建設促進議員連盟主催により、「満蒙開拓の歴史から平和について考える」と題して、泰阜村の中島多鶴さんのお話を聞く。
昭和13年当時の泰阜村の人口は5844人。家は養蚕家で昭和の初めころ養蚕で47%の収入があったが、繭価が10円から2円に暴落、冷害もあり、満州へ行けば20町歩の地主になって子どもたちに腹いっぱいご飯を食べさせることができると、277戸1174人が昭和14年2月発入植して3次にわたり満州へ渡った。冬は零下30度~40度の厳しい寒さで生活に慣れない。最初の宣伝とはまったく違っていた。アミーバ赤痢が流行り子どもたちが沢山亡くなった。脚気、肺結核、トラホームが流行した。一緒に渡った妹たちも3人が亡くなった。流産・死産も多かった。家屋はペチカやオンンドルがあったが、とにかく壁が薄くて寒かった。
行った時は、家屋が無く、朝鮮人満州人にどいてもらって共同経営で最初は暮らしていた。米は食べれたが蔬菜類は冬はジャガイモくらい。満人を使って(満人なんて言っちゃいけないが)農業を展開し、個人経営になってからも現地の人と一緒に仕事をした。水田8町歩、畑4町歩、最初は既耕地を取り上げていたので、後では分けた。
5年6カ月たって、突如として8月9日国境をソ連軍が超えてきた。私は義勇軍の看護師の資格をハルピンで2年間勉強してとり、戻って病院で働いていたが、皆が「ここにいれば殺される」と口々に言っていた。8月10日17歳から45歳の男に召集がかかり、父は43歳で応召した。8月11日県からの命令で10日分の食料をもって駅へ集結しろと電話で命令が下った。みんな混乱して判断もつかず、男は倉沢団長ともう一人だけ。満人から「日本は戦争に負けた」と言われたが信じられなかったが、ソ連のビラがまかれて、戦争に負けたと思った。