彼らは秀吉の御前演奏で楽器を演奏し歌ったわけですが、彼らが演奏した楽器はクラヴォ(鍵盤楽器=多分小型のオルガン)、アルパ(ハープ)、ラウデ(リュート)、ラヴェキーニャ(レベック=ヴァイオリンが登場する前に使われていた弓奏楽器。ヴァイオリンの祖先ではない)でした。(完訳フロイス日本史12による)
4人の少年たちはヨーロッパで楽器や歌唱を学んできて、その腕前を秀吉に披露した、みたいな記事を読んだことがありますが、それは明らかに間違いです。じっくり滞在したのがローマの3ケ月にすぎないわけですから、そんな短期間で楽器が弾けるようになるわけがありません。特にリュートなんかは3ケ月くらいだと、調弦はおろかまだ楽器をホールドできないでいるかも知れません。
彼らは間違いなく出発前日本にいる間にセミナリオかどこかで楽器や歌唱をマスターしていたに違いありません。
さてそこでいよいよ本題、彼らがどこで、どういう音楽家に会い、どんな音楽を聴いて、またそれらを書き留めてきたかです。いろんなところに滞在したわけですから、沢山の音楽家に会いいろんな音楽を聴いてきたでしょうが、それらを全て挙げるとまたファンタジーの世界に入ってしまうので、一番現実性が高いところを探っていきます。
まず「どこで」はローマ一択でしょう。3ケ月滞在ですから。ミラノやヴェネツィアも通って帰途についていますので、そこで優れた音楽家に会っている可能性もありますが、多分滞在期間が短かったので、今回の議論からははずしましょう。
ではローマでそのころ活躍していたあるいは名が知られていた音楽家といえば:
パレストリーナ、アルカデルトあたりでしょうか。
パレストリーナは1571年から1594年に生涯を終えるまで、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の楽長を勤めていました。
サン・ピエトロ大聖堂(サンピエトロだいせいどう、イタリア語:Basilica di San Pietro in Vaticano)は、バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。(Wiki)
ここで1585年に教皇グレゴリオ13世に謁見したわけですから、もうパレストリーナ、ドンピシャです。間違いなく彼に会っているでしょうし、彼の作品にも触れたはずです。
4人の少年たちはヨーロッパで楽器や歌唱を学んできて、その腕前を秀吉に披露した、みたいな記事を読んだことがありますが、それは明らかに間違いです。じっくり滞在したのがローマの3ケ月にすぎないわけですから、そんな短期間で楽器が弾けるようになるわけがありません。特にリュートなんかは3ケ月くらいだと、調弦はおろかまだ楽器をホールドできないでいるかも知れません。
彼らは間違いなく出発前日本にいる間にセミナリオかどこかで楽器や歌唱をマスターしていたに違いありません。
さてそこでいよいよ本題、彼らがどこで、どういう音楽家に会い、どんな音楽を聴いて、またそれらを書き留めてきたかです。いろんなところに滞在したわけですから、沢山の音楽家に会いいろんな音楽を聴いてきたでしょうが、それらを全て挙げるとまたファンタジーの世界に入ってしまうので、一番現実性が高いところを探っていきます。
まず「どこで」はローマ一択でしょう。3ケ月滞在ですから。ミラノやヴェネツィアも通って帰途についていますので、そこで優れた音楽家に会っている可能性もありますが、多分滞在期間が短かったので、今回の議論からははずしましょう。
ではローマでそのころ活躍していたあるいは名が知られていた音楽家といえば:
パレストリーナ、アルカデルトあたりでしょうか。
パレストリーナは1571年から1594年に生涯を終えるまで、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の楽長を勤めていました。
サン・ピエトロ大聖堂(サンピエトロだいせいどう、イタリア語:Basilica di San Pietro in Vaticano)は、バチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山。(Wiki)
ここで1585年に教皇グレゴリオ13世に謁見したわけですから、もうパレストリーナ、ドンピシャです。間違いなく彼に会っているでしょうし、彼の作品にも触れたはずです。