リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

音楽の父と母(3)

2023年01月28日 15時18分59秒 | 音楽系
コンサートで声楽曲の通奏低音をするときは、歌詞の日本語訳にいつも時間をとられてしまいます。まぁ日本語訳は歌の方に任せておけばいいのですが、ついつい・・・今回のコンサートはバロック時代の曲なので、歌詞の量があまり多くないのでそれほどは負担にはなりませんが。

でもちょっとでも楽をしようと出版されている訳本を見てみるのですが、どうも間違っている訳ではないのでしょうけど、センスに欠ける訳が目に付きます。

バッハの声楽作品を全て訳したとうたっている出版本を見て見ましたが、演奏予定のBWV82の歌詞の日本語訳を見ますと、「私はもう十分だ」とありました。まぁ確かに原題にある genug は英語で言う enough ですので「十分」ということですが、「私はもう沢山だ」というような否定的なニュアンスが感じられます。訳としてはあまりに粗雑です。ここはやはり「われは満ち足れり」(角倉一朗著バッハ作品総目録による)ですね。これはいい訳です。

ダウランドのリュートソングも、
Flow my tears fall from your springsを、

「流れよ我が涙、滝のように流れ落ちよ」

というような訳を見たことがありましたけど、これは以前当ブログの連載で次のように訳してみました。

「流れよ私の涙、汝の泉より溢れ落ちよ!」

ダウランドの時代のバラッドに、Go from my window という曲がありますが、これも訳出に苦労します。「私の窓から行け」ではあまりにセンスというかデリカシーがなさすぎます。my windowを「私の窓」と訳したのでは、家人のそれぞれが自分の窓もっとんのかい!という突っ込みが入りそうですし、go もどういうときの go なのか考えてみる必要があります。そもそもこのバラッドの歌詞の全貌が知りたいし。私自身まだ適切訳は持っていません。

話が逸れてしまいましたが、歌詞の訳出には苦労するということです。