リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

内山永久寺を訪ねて(上)

2023年06月20日 16時20分05秒 | 日々のこと
奈良を通る機会がたまたまありましたので、かねてから一度訪れてみたいと思っていた内山永久寺の訪ねました。

といってもそのお寺はもうすでになく正確には内山永久寺跡です。同寺は創立900年になる寺院でなんでも東大寺、興福寺、法隆寺に次ぐ大寺院らしいです。それが明治時代の廃仏毀釈で消えてしまったということですが、そんなことが実際にあったんですねぇ。

以前いつかはいくときに備えてグーグルマップでシミュレーションをしていたので、西名阪国道を天理で降りて南下して(つまり奈良公園とは反対の方向です)しばらく走り左折をすればすぐ行けるはずでした。

ところがシミュレーションしたときと違う道の景色が目の前に現れました「。なら歴史芸術文化村」という新しい施設がどーんと目の前に現れたのです。ひょっとして永久寺跡をつぶしてこの施設を作った?なんて思いがよぎりましたが、とりあえず同施設に行ってみることにしました。

併設されているレストランで食事をしながら永久寺跡を確認しましたら、跡地をつぶしてこの施設ができているわけではないとわかり一安心、跡地はもう少し道を先にいったところにあることがわかり安心しました。

日本でリュートが始まった頃(16)

2023年06月19日 09時00分28秒 | 音楽系
実は年代でいうと60代以降(?)の方か、リュート(古楽)の黎明期に若い時代を過ごした人の何人かにそういった勘違いがまだ残っているかもしれません。少し前に若手の演奏家から聞いた話ですが、留学から帰ってきて地元の愛好家と話をしたらまるで自分(愛好家)の方がその演奏家より上の立場でいろいろ指図してくるので困った、とか、やたらガット弦の優位性を説いて来る人がいて自分の演奏姿勢を述べるもなかなか納得してくれないで困る、というような話です。

プロがガット弦を使うか使わないかはもちろんその奏者の考え方によりますが、件の若手はよりよい演奏を届けるために合成樹脂弦を選択していると私に語っています。

そもそも例えばプロのヴァイオリニストのコンサート後に「あなたはもう少しビブラートを減らした方がいい」って「進言」するようなことを愛好家の方がいいますか?

才能もなく修練もしていないような方にガット、ガットなんて言われる、あるいは逆の場合、合成樹脂、合成樹脂、とか弦の組み合わせなんかをいちいち指摘してくるのはカチンと来る人もいるかも知れませんが、そこは人間ができた件の若手はきちんと対応していました。えらいです。でもそもそもそういうことは演奏家には言わないことです。演奏家は考え抜いた上でのことですから。

私も以前コンサートの終わりに、聴衆の方が私のところに来て、「昔ギターやってたんですか?」「はい、少し」「ギターが弾けないからリュートに転向したんでしょ?」と尋ねる方がいました。その方には何年か後又同じことを尋ねられました。

ギターがうまく弾けないので単なる興味でリュートを始めた人がいたのは事実です。でも多分ギターをろくすっぽ弾けない人は、リュートは更に難しかったはずです。そういうことを聞いてくる輩がいるのは、黎明期にたまたま当たってしまった時代風潮(体制を革新して皆平等に)とリュートの面倒くささが彼らをして勘違いさせてしまったということでしょう。

日本でリュートが始まった頃(15)

2023年06月18日 10時34分58秒 | 音楽系
もとより知識の量、演奏技量、修練の度合い、もちろん才能も天と地ほどに異なるはずですが、その差はは彼らが自力で判断をすることは不可能です。才能のある人から才能のない人の距離はよく見えますが、その逆は距離を測ることができないものです。実際は才能のある人(高度な専門性を持った人)の地位や評価で判断をすることができます。でも当時の社会的風潮と勃興期であったリュート(古楽)にあってそういった判断をすることができず結果的に勘違いしてしまったようです。もっとも社会的地位や評判による評価も結構いい加減になってしまう可能性もありますが。

こういった現象はどうもリュートにだけ起こっていたように思えます。それはリュートはとても面倒な楽器で、どういう弦を使うべきかとか、その張力はとか、どこそこにこんな楽譜があるとか、楽器の構造はこうあるべきだ(黎明期特有の話題です)とかとにかくいろんな知識が必要になります。特に黎明期はそういう必要性が高かったと思います。

リュート愛好家の方はとても頭のいい方が多く、そういった知識を豊富に持ち場合によってはプロの演奏家より詳しい分野もありました。もっとも音楽学者になれるほどの力はありませんが。(ホントはもっと勉強して音楽学者なって頂いていたらありがたかったのですが)まぁプロの演奏家が知らないようなことをひとつふたつ知っている程度です。

古楽の他の分野では「タメ」で専門家とつきあうような話は聞いたことがないですし、現代のリュートの世界でもそういうことは基本的にはありません。

苦労話

2023年06月17日 23時03分23秒 | 音楽系
「完訳とりどりのリュート曲撰」完成記念に苦労話を書いてみましょう。苦労話の押し売りみたいですが。

翻訳は2019年の8月頃から始めました。そしてその翻訳を当ブログにかなりの期間連載し翻訳を終えたのが2020年の1月で約5ヶ月近くかかりました。連載は19年の8月8日が第1回、最終回の第82回が20年の1月31日でした。

そして印刷のための版組を始めたのが昨年2022年の6月頃です。翻訳は半年もかかっていないのに、イラレによるレイアウトの方が倍以上の期間を費やしてしましました。もともとどっかの出版社に売り込もうと思っていたのですが、全て断られたのでしばらく放りっぱなしだったのをせっかくだからと自分で版組をすることにしたのです。

版組の作業はなかなか煩雑で細かいことが多いです。それに本文の訳や注釈を見直しながら進めたものですから余計時間がかかってしまいました。そして当初の方針、タブの部分は割愛または後日出版、というのを改めまるごと翻訳することにしたのでさらに手間がかかりました。

実はタブの部分はちょいちょいとやればすぐ終わるだろうと高をくくっていましたが、それがなんのなんのなかなかのくせ者でした。何せミスプリントが多すぎます。ミスプリントが多いということはこの曲集の何曲かは過去に弾いていましたので知っていたのですが、改めて全て見てみますとその多さに驚かされます。ミスプリントは、タブの段を一段間違えたというかわいらしいものから、もう適当にやってしまったというめちゃくちゃなものまでなかなか多彩です。

それらの全てに註を付けて正しいものを示しました。場合によってはこれが正しいんじゃない?とか例えばこんなのかも?というレベルのものもあります。正解が特定できなかった場合です。ことばで表すと煩雑になる場合は、フォトシでタブの文字をオリジナルのキャラクターをコピーして当時の印刷タブを作った箇所も何カ所かあります。でも昔出版するときチェックしなかったんでしょうかねぇ。それともタブだからばれないからいいやってレベルなんでしょうか。

あと普通の出版物ではやらないのですが、今回は改行による語句の泣き別れを全て手作業で排除しました。これは例えば「わたしは」というフレーズで「わた」で行末に来てしまい次の行で「しは」が来るのが泣き別れ。これを全ての行についてなくしました。まぁこれ、止めとけばよかったのですが、乗りかけた船でついつい全ての文章についてやりました。これも手間がかかった要因のひとつ。

さらにタブの部分は文章は少ないのですが、曲名に出てくる人物のリサーチも行い註を付けました。ChatGPTも使って調べたのですがウラを取るのが手間取りました。何せChatGPTはいろいろ調べてくれるのはいいのですが、結構誤情報も含まれているので鵜呑みにしてはいけません。ですからChatGPTについては参考文献一覧にはあげてありません。

結果的に翻訳より版組の方がはるかに手間がかかったのはこういうことをやっていたからです。もっとも翻訳はたとえ短時間でも毎日やっていたのに対して(連載がありましたから)、版組はさぼっていたこともあったので余計長い期間を要することになったのです。

現在付箋をつけたところの手直し中、表紙のデザインも少し変更しました。来週中に完成で製品版の印刷をする予定です。


とりどりのリュート曲撰完成!

2023年06月16日 17時09分49秒 | 音楽系
ロバート・ダウランドのVARIETIE OF LUTE-lessonsの完全日本語訳版「とりどりのリュート曲撰」がイラストレータによる版組を完了し、印刷製本をしてみました。88ページ、用紙は90kgなので少し厚手です。(コピー用紙は70kgくらい)表紙は色つきのクラフト紙(厚さ0.33mm)です。本の厚みは約6mmでリングとじです。



まだ「試作」なので付箋がついています。少し手直しをしてから製品版を作りたいと思います。当初は曲集の部分は今回は出さないつもりでした。出したとしても分冊にする計画でしたが、まぁ一冊にした方が便利だろうと言うことで「完訳版」として楽曲部分も含めてまるごと1冊にしました。曲集は必ず頭の中のバーチャルリュートで鳴らして検討しました。場合によってはリアルの楽器で弾いたりもしました。この部分は結構ミスが多くて、特に終わりの方は特に何か当時の印刷職人さんが手を抜いたのかはたまた疲れて来たのか、ミスが頻発していました。



本文には見開き単位で註をまとめてあります。

曲集の部にもミスがある部分の修正案や人名などに対しして註を付けてあります。



取りあえず10部作る予定です。ご希望の方はご連絡ください。販売価格は一冊5500円です。

日本でリュートが始まった頃(14)

2023年06月15日 10時09分04秒 | 音楽系
こういった経緯があったので、その気になっていた名古屋でアマチュアのリュート愛好会の結成に迷いがでましたが、リュート愛好者の裾野は広い方がいいだろうと考え結局は結成に協力することにしました。

しかしもとより最初からプロ指向の私と他の愛好家の方たちとは非対称の関係になるのは当然でしたが、なんとなく曖昧なまま結局21世紀の初め頃まで会に在籍しました。今から思うと、酒井氏に相談するまでもなくアマチュアの方達とは距離を取るべきだった思います。その頃リュートを始めていた東京在住のプロの方は、東京の会とはもちろん協力的ではあったでしょうけど皆少し距離を取っていました。

70年代始め頃、「革新指向(政治的な左派の流れ)」「既存体制をブッ壊せ!」といった当時の社会的風潮の上に古楽の普及運動が重なって来ていました。これは多分偶然そうなってしまったのだと思うのですが、(というのも古楽復興運動の嚆矢は20世紀の初め頃でしたから)ギターをやっていてリュートにやってきた方たちの中にはある勘違いをしている方も多かったように思います。

その勘違いの最たるものは自分もプロ奏者と対等に古楽の流れを開拓していくのだという意識です。当人達は多分そういう自覚はなかったかも知れませんが、当時の著名な音楽学者の先生方やプロとして活動している、あるいは活動して行こうとしている方と今式に言えば「タメ」で付き合おうとしていました。

リュートの響き、古楽への道

2023年06月14日 19時40分05秒 | 音楽系
昨日母校の南山大学(名古屋)で「リュートの響き、古楽への道」というタイトルでレクチャーを致しました。


こんなポスターを作っていただき学内に掲示されていました。

レクチャーは2つのパートに分かれていて、前半はリュートの歴史を辿る内容、後半は私と古楽との関わり、パーソナルヒストリーをお話しさせていただきました。

ルネサンス・リュートとバロック・リュートの2本を持ち込んでお話をするので、台風が近づいていた頃は少し心配しましたが、上手い具合に逸れたので当日は晴れ上がっていました。ちょっと湿度は高かったですが。

レクチャーには学生だけでなく、学科長とか学部長といった偉い先生方にもお越しいただきました。パワーポイントで図と文字による提示、音源、動画そしてところどころで生演奏を交えて進めていきました。



こういうレクチャーは少しずつ聴衆の反応を見ながら進めていくのが常ですが、聴衆の大半がいわゆるZ世代ですので始めはつかむのがなかなか難しかったです。でも顔を見渡しながらしゃべっているとものすごい熱意を感じる表情で聞いている学生が何人かいて、その人たちに語りかけるように進めていきました。

ところどころにギャグなんかも挟むのですが、若い頃の私の写真に対して「その頃稲垣吾郎って言われていたんですよ」と言ったら、パラパラっと反応がありました。まぁすべったわけです。彼らには稲垣吾郎はお父さんの世代できっとぴんとこなかったんですよね。永瀬廉にしておけばよかったです。(笑)ちょっとリサーチ不足でした。

担当していただいた先生によると、学生には感想を書いてもらったそうで、明日か明後日に集約できるそうです。読むのが楽しみです。

日本でリュートが始まった頃(13)

2023年06月13日 11時06分10秒 | 音楽系
1973年3月の御殿場講習会の少しあと名古屋市在住のある方から、東京のアマチュアグループみたいな会を名古屋でも作りたいので、いっしょにやらないかと誘いを受けました。

しかしその方は件の講習会に民芸品みたいな自作楽器を持ちこんで見当違いなことを言っていた方なのでちょっと躊躇しました。講習会から帰ったあと、その頃一緒に活動を始めたギタリストの酒井康雄氏に相談したところ、氏は「まぁ、一緒にやってあげたらいいんじゃないの?」と仰ったので少しでも層が広がればと思いやってみるかという気になりました。

その少しあと、私も入れてもらっていた若手ギタリストのグループが「フェルナンド・ソルの世界」と題するジョイントコンサートを開催しました。その時は私はギターで出演し、大学の同級生で今は名古屋でギター専門店を経営しているY氏とソルの第2嬉遊曲を演奏しました。

そのレビューが中部日本ギター協会会誌「ロゼッタ」No.54 p.25,1973.9.10に掲載されました。その執筆者が件のお方でした。記事の内容は「・・・ソルの世界を紹介するだけでその意図が何だかわかりませんでした」に続き演奏者を次々にこきおろして行きました。まだこきおろされた方はある意味いい方で何人かの人はレビューの対象にもなっていませんでした。私もその中のひとり。ひどいレビューでした。

そのレビューは当時の中部日本ギター協会の関係者の間でも問題になり編集を担当したG氏に「なんであんなレビューを載せたんだ!」と言う方もいました。

実際件の方はまともに弾けない方でしたが、ギター教室を開き会報にもどっかの学者ぶった感じで投稿していました。当時はそんな低レベルな人でもある程度前に出られる、そんな時代だったのです。

日本でリュートが始まった頃(12)

2023年06月12日 12時10分31秒 | 音楽系
1972年の御殿場古楽講習会のコースにはリュートコースがなかったので、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の大橋敏成先生のクラスに潜り込みました。大橋先生にはその2年後にご自宅にレッスンに伺うようになります。先生は私が留学中に訃報を聞くことになります。ご存命ならまだ80代ですので、早世されたことが返す返すも残念です。

翌73年、同じ御殿場市の会場で昨年に続いて古楽講習会が開催されました。ただ主催者は異なっていましたが、大々的に宣伝をしたこともあり、参加者は格段に増えていました。この講習会にはリュートコースがありM.シェーファー氏が講師として招かれています。シェーファー氏のコースはとても沢山の参加者がありました。

ほとんどの方はギターを経験した方(プロもいました)でした。数年前にお亡くなりになりましたが荒川孝一氏もその一人でした。氏はその後ケルンに留学され帰国後はリュート奏者として活躍されました。

73年の講習会にはすでにケルンに留学されていたつのだたかし氏もシェーファー氏のアシスタントとして参加されていました。氏は現在もお元気で活躍されています。

先に書きましたように当時のギター愛好家は巨大ボリュームゾーンでしたので、今では考えられないくらいの多くの人がリュートに関心を持ちました。でも多くは単なる好奇心で参加された方たちで、そういった方達は10年もすると情熱は冷めていったものです。

日本でリュートが始まった頃(11)

2023年06月12日 00時01分51秒 | 音楽系
当時は留学するというのは大変なことで、お金持ちのぼんぼんやお嬢でない限りなかなか大変なことでした。SさんもNさんもぼんぼんではなかったので大変苦労されたようです。Sさんが現地に留まったのは実は帰るに帰れなかった、つまり帰国費用がなかったからです。当時そういう方は結構いたというふうに聞いています。Sさんの場合はまだ帰国するお金があったのでしたが、彼はやはりぼんぼんではなく、日本に帰ってから音楽活動を続けることはできませんでした。もっともぼんぼんであるだけで音楽活動ができるわけではないですけどね。やはり才能が必要です。でも少しあればなんとかなっているというような方もいらっしゃるふうに聞いたことはあります。

当時あるところである方から聞いたことばですが、音楽家としてやっていくためにはまず「カネとコネ」が必要だ、あと才能が少しあれば充分だ、というのです。若かったし世間も分かってない私はそんなはずはないと少々反発しましたが、今から考えるとそれは当たっていました。その通りの例は沢山知っています。もっともカネもコネもなかったけど大成した人もいるにはいました。知っている限りでは一人だけでしたが。

70年代初めは1ドル360円の固定相場、私が76年に初めて渡欧したときでも250円くらいでした。落ちぶれたとはいえまだまだ現代は70年代よりは豊かです。