リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

日本でリュートが始まった頃(12)

2023年06月12日 12時10分31秒 | 音楽系
1972年の御殿場古楽講習会のコースにはリュートコースがなかったので、ヴィオラ・ダ・ガンバ奏者の大橋敏成先生のクラスに潜り込みました。大橋先生にはその2年後にご自宅にレッスンに伺うようになります。先生は私が留学中に訃報を聞くことになります。ご存命ならまだ80代ですので、早世されたことが返す返すも残念です。

翌73年、同じ御殿場市の会場で昨年に続いて古楽講習会が開催されました。ただ主催者は異なっていましたが、大々的に宣伝をしたこともあり、参加者は格段に増えていました。この講習会にはリュートコースがありM.シェーファー氏が講師として招かれています。シェーファー氏のコースはとても沢山の参加者がありました。

ほとんどの方はギターを経験した方(プロもいました)でした。数年前にお亡くなりになりましたが荒川孝一氏もその一人でした。氏はその後ケルンに留学され帰国後はリュート奏者として活躍されました。

73年の講習会にはすでにケルンに留学されていたつのだたかし氏もシェーファー氏のアシスタントとして参加されていました。氏は現在もお元気で活躍されています。

先に書きましたように当時のギター愛好家は巨大ボリュームゾーンでしたので、今では考えられないくらいの多くの人がリュートに関心を持ちました。でも多くは単なる好奇心で参加された方たちで、そういった方達は10年もすると情熱は冷めていったものです。

日本でリュートが始まった頃(11)

2023年06月12日 00時01分51秒 | 音楽系
当時は留学するというのは大変なことで、お金持ちのぼんぼんやお嬢でない限りなかなか大変なことでした。SさんもNさんもぼんぼんではなかったので大変苦労されたようです。Sさんが現地に留まったのは実は帰るに帰れなかった、つまり帰国費用がなかったからです。当時そういう方は結構いたというふうに聞いています。Sさんの場合はまだ帰国するお金があったのでしたが、彼はやはりぼんぼんではなく、日本に帰ってから音楽活動を続けることはできませんでした。もっともぼんぼんであるだけで音楽活動ができるわけではないですけどね。やはり才能が必要です。でも少しあればなんとかなっているというような方もいらっしゃるふうに聞いたことはあります。

当時あるところである方から聞いたことばですが、音楽家としてやっていくためにはまず「カネとコネ」が必要だ、あと才能が少しあれば充分だ、というのです。若かったし世間も分かってない私はそんなはずはないと少々反発しましたが、今から考えるとそれは当たっていました。その通りの例は沢山知っています。もっともカネもコネもなかったけど大成した人もいるにはいました。知っている限りでは一人だけでしたが。

70年代初めは1ドル360円の固定相場、私が76年に初めて渡欧したときでも250円くらいでした。落ちぶれたとはいえまだまだ現代は70年代よりは豊かです。