院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

美術作品の題名

2013-03-04 00:43:20 | 文化
    碧梧桐とはよく親しみ争ひたり

    たとふれば独楽のはじける如くなり  虚子

 上の虚子の句には、「・・争ひたり」という添え書きが付いている。俳句ではたまに添え書きが付けられることがあるが、実は禁じ手である。

 俳句は17文字がすべてであり、添え書きは17文字以外で説明してしまうことである。上の句も句だけからは碧梧桐との付き合いを詠んだものとは分からない。

 このように作品以外のところで作品を解説してしまうものに「題名」がある。例えば絵画。「モンマルトルの灯」という題名が付いていて、それがモンマルトルの風景画ならそれでよいだろう。

 だが抽象画に「情念」、「静寂」といった題名が付いていると、白けるのではあるまいか?「情念」、「静寂」は説明するのではなく、作品自体から感じさせるものだろう。題名と作品の力関係が別の印象を生み出すという説明は屁理屈である。

 だからか、抽象画には単に「作品�」とか「コンポジション」といった無機質な題名が付いていることがあり、そのほうが素直である。

 歌詞に題名を付けるのはかまわない。冬の情感を歌った「枯葉」は、歌詞を代表する名称として「枯葉」という題名があってもよい。

 問題は歌詞のない音楽である。ベートーベンのピアノソナタ「月光」は元来、ピアノソナタ14番嬰ハ短調「幻想曲風に」という題名であって、「月光」は後世に付けられた名称である。歌詞のない音楽に具体的な名称は必要がない。

 モダンジャズでは歌詞がないのに、しばしば具体的な名称が付けられる。私が好きなMJQでさえ、自らの楽曲に「ジャンゴ」とか「ヴァンドーム」などの名称を付けている。これらも全く必要がない。

 古い抹茶茶碗の由緒ある作品に「銘」が付けられていることがあるが、元来はこの「銘」も不要なものである。「銘」は茶碗の希少価値を権威づける役割しかしていない。

 抽象的な作品に恣意的な名称を付けて、鑑賞者を誘導して惑わすことはもう止めていただきたい。