江戸時代の江戸はほとんど完璧なリサイクル都市だったという。反故を買い集める人間がいて、その反故をとりまとめて整理する問屋があったりする。糞尿さえ肥料として売買されていたというから、無駄なものはないようにできていた。
私の祖母の時代までは、非常にものを大切にする精神がつらぬかれていた。「ご飯粒を残すと目がつぶれるよ」と言われた記憶のある読者も多いだろう。明治女の祖母は浴衣が古くなると手拭いにして、さらに古くなると雑巾にした。雑巾も7回洗えば顔が拭けるようになるといって、祖母はじっさいに私の前で雑巾で顔を拭いた。
少々匂いがするようになったご飯でも捨てずに食べた。これは祖母だけではないだろう。世の中全体に質素な風潮があって、捨てるということをしなかった。空き瓶がたくさん貯まるということもなかった。醤油や油は量り売りだったから、瓶をもって買に行った。今のように、各種の瓶や食品のトレーがゴミになることもなかった。
紙ごみはバタ屋という紙ひろいの人がいて、集めて生活していた。バタ屋は元締めのところで紙ごみを買ってもらった。瓶や空き缶はくず屋が買ってくれた。くず屋はリヤカーを引いて「くずやー、おはらい」と掛け声をかけて町内を流していた。くず屋は重りの付いた天秤をもっていて、それで重さを量って空き缶を買って歩いた。そのため、ごみを分別するという発想は市民にはなかった。
小学校1年生の同級生に、くず屋の元締めの子がいた。その子の家に遊びに行ったら、広いタタキにいろんな廃物が分別して置いてあった。金属、ガラス、まだ使えそうな廃品が別々に区別されていた。子供心に「物資はこのように流れていくのだな」と分かった。大変な社会勉強になった。
だが、そのころすでに東京のごみ問題は発生していた。大八車で東京都がごみを集めに来たが、それではとても間に合わなかった。近くの目黒川は、ごみの山が流れていた。流れていたというよりも詰まっていた。東京のごみの集積場である夢の島をどうするかが大問題となっていた。いわゆる、東京ごみ戦争である。
隅田川では夏の花火大会が開かれていた。そのころ、まだ隅田川はひどく汚染はされていなかった。工場排水などで隅田川がどぶ川となり、花火大会が中止されたのはそれから2,3年後のことだった。私は隅田川の花火大会に父親に連れて行ってもらった。昼間は色付きの煙の「花火」をやっていた。色のついた発煙筒が落下傘でたくさん降ってくるのだが、このような「花火」をあれ以来見たことがない。近くの店で生まれて初めてハヤシライスを食べた。こんなにうまいものが世の中にあるのかと思ったが、それはまた別の話。
このころから「三丁目の夕日」の昭和レトロが始まる。同時に環境汚染もひどくなっていった。私は中学2年生のころ、写真に凝り始めてアサヒカメラというアマチュアの写真雑誌を買ってもらった(この雑誌は今でもある)。その時の応募作品の1位が四日市の石油コンビナートを撮った作品だった。プラントがもくもくと煙を排出し、近くには黄土色のボタ山のようなものが映った写真だった。信じられないかも知れないが、講評には「コンビナートの堂々たる姿は未来へのエネルギーを感じさせる」とあって激賞されていた。それとほぼ同時に四日市ぜんせくが問題となり、コンビナートの評価は180度転換してしまった。世の評価の手の裏を返したような変わり身の早さを肌で感じた。
隅田川の花火大会が再開されたのはいつことだったろうか?私の大学生時代のことではないかと記憶する。それまで、どぶ川だった隅田川はすっかりきれいになった。大学の医学部では、公衆衛生の授業はすべて公害問題だった。大気汚染、水質汚濁、騒音公害などがしきりに言われるようになり、私たち医学生は大気汚染のSOx の測り方、騒音の測定の仕方(騒音を70ホンとか80ホンと表示する電光掲示板が渋谷駅に立てられていた)、塵肺のX線フィルムの読み方などを教わった。
そのころには目黒川もきれいになっていた。目黒川の私の初体験はごみの川だった。だから、目黒川に魚が住んで少年が鯉を釣っては川に放しているのを見たときには、汚染をこれほどまでにきれいにしてしまう人間の力に感動した。
こんどは名古屋の新幹線騒音訴訟が始まろうとするところだった。
私の祖母の時代までは、非常にものを大切にする精神がつらぬかれていた。「ご飯粒を残すと目がつぶれるよ」と言われた記憶のある読者も多いだろう。明治女の祖母は浴衣が古くなると手拭いにして、さらに古くなると雑巾にした。雑巾も7回洗えば顔が拭けるようになるといって、祖母はじっさいに私の前で雑巾で顔を拭いた。
少々匂いがするようになったご飯でも捨てずに食べた。これは祖母だけではないだろう。世の中全体に質素な風潮があって、捨てるということをしなかった。空き瓶がたくさん貯まるということもなかった。醤油や油は量り売りだったから、瓶をもって買に行った。今のように、各種の瓶や食品のトレーがゴミになることもなかった。
紙ごみはバタ屋という紙ひろいの人がいて、集めて生活していた。バタ屋は元締めのところで紙ごみを買ってもらった。瓶や空き缶はくず屋が買ってくれた。くず屋はリヤカーを引いて「くずやー、おはらい」と掛け声をかけて町内を流していた。くず屋は重りの付いた天秤をもっていて、それで重さを量って空き缶を買って歩いた。そのため、ごみを分別するという発想は市民にはなかった。
小学校1年生の同級生に、くず屋の元締めの子がいた。その子の家に遊びに行ったら、広いタタキにいろんな廃物が分別して置いてあった。金属、ガラス、まだ使えそうな廃品が別々に区別されていた。子供心に「物資はこのように流れていくのだな」と分かった。大変な社会勉強になった。
だが、そのころすでに東京のごみ問題は発生していた。大八車で東京都がごみを集めに来たが、それではとても間に合わなかった。近くの目黒川は、ごみの山が流れていた。流れていたというよりも詰まっていた。東京のごみの集積場である夢の島をどうするかが大問題となっていた。いわゆる、東京ごみ戦争である。
隅田川では夏の花火大会が開かれていた。そのころ、まだ隅田川はひどく汚染はされていなかった。工場排水などで隅田川がどぶ川となり、花火大会が中止されたのはそれから2,3年後のことだった。私は隅田川の花火大会に父親に連れて行ってもらった。昼間は色付きの煙の「花火」をやっていた。色のついた発煙筒が落下傘でたくさん降ってくるのだが、このような「花火」をあれ以来見たことがない。近くの店で生まれて初めてハヤシライスを食べた。こんなにうまいものが世の中にあるのかと思ったが、それはまた別の話。
このころから「三丁目の夕日」の昭和レトロが始まる。同時に環境汚染もひどくなっていった。私は中学2年生のころ、写真に凝り始めてアサヒカメラというアマチュアの写真雑誌を買ってもらった(この雑誌は今でもある)。その時の応募作品の1位が四日市の石油コンビナートを撮った作品だった。プラントがもくもくと煙を排出し、近くには黄土色のボタ山のようなものが映った写真だった。信じられないかも知れないが、講評には「コンビナートの堂々たる姿は未来へのエネルギーを感じさせる」とあって激賞されていた。それとほぼ同時に四日市ぜんせくが問題となり、コンビナートの評価は180度転換してしまった。世の評価の手の裏を返したような変わり身の早さを肌で感じた。
隅田川の花火大会が再開されたのはいつことだったろうか?私の大学生時代のことではないかと記憶する。それまで、どぶ川だった隅田川はすっかりきれいになった。大学の医学部では、公衆衛生の授業はすべて公害問題だった。大気汚染、水質汚濁、騒音公害などがしきりに言われるようになり、私たち医学生は大気汚染のSOx の測り方、騒音の測定の仕方(騒音を70ホンとか80ホンと表示する電光掲示板が渋谷駅に立てられていた)、塵肺のX線フィルムの読み方などを教わった。
そのころには目黒川もきれいになっていた。目黒川の私の初体験はごみの川だった。だから、目黒川に魚が住んで少年が鯉を釣っては川に放しているのを見たときには、汚染をこれほどまでにきれいにしてしまう人間の力に感動した。
こんどは名古屋の新幹線騒音訴訟が始まろうとするところだった。