寿司をベルトコンベアで運ぶ寿司屋は、すでに昭和40年代には存在したらしいが、回転寿司として全国的に普及したのは、ずっとあとのことである。
回転寿司よりも先に、廉価な寿司をテークアウトさせる寿司チェーンが全国的に広まった。時代はまだ平成になる前である。
私が名古屋に住んでいたころ、近くにその寿司チェーンが進出してきたので買ってみた。それが、あまりにまずいので驚いた。寿司と呼べるようなシロモノではなかった。ネタを云々する前に、シャリ(ご飯)がべちょべちょなのだ。あたかも水でも一回かけたようなシャリだった。その店では二度と買わなかった。
回転寿司が百円寿司として、どんなネタを食べても百円という触れ込みで開店したのは20年ほど前だっただろうか?
その回転寿司に新卒の医者たちが喜んで行くので、一回付き合った。テークアウトの寿司屋よりシャリがましだったが、どうしても百円でまかなえるネタには限界があった。それっきり私は回転寿司には行かなくなった。
現在馴染になっている普通の寿司屋は、そのころ見つけた。だから、その寿司屋の娘が幼児だったころから嫁に行くまで全部知っている。20年間通って気が付いたことがある。それは、若者が寄り付かないことだ。つまり、新たな客層を獲得できていない。
息子に聞いてみると、普通の寿司屋のカウンターより回転寿司のほうが落ち着いて食べられるという。板前と対面ではかえって気を使うし、なによりネタが「時価」というのが怖いのだそうだ。なるほど、もとっもである。
そこで再び回転寿司に行ってみた、そうしたらすべて百円という形式はすでになく、ネタごとに値段が違っていた。それでも普通の寿司屋よりも安い。もっと驚いたことには、その寿司がけっこううまいのである。
既存の寿司屋が若者を引き付けないわけが分かった。でも、既存の寿司屋は回転寿司より下のネタを使うことは、寿司職人の誇りにかけてできないだろう。こうして、銀座などの一部の高級店を残して、並みの寿司屋は回転寿司に淘汰されるだろう。
そして、カウンターをはさんで板前と話をしながら食事を楽しむという、世界に類を見ないわが国の食事形態は、私たち常連客が滅びるのに合わせてあと10年あまりで滅びるだろう。
回転寿司よりも先に、廉価な寿司をテークアウトさせる寿司チェーンが全国的に広まった。時代はまだ平成になる前である。
私が名古屋に住んでいたころ、近くにその寿司チェーンが進出してきたので買ってみた。それが、あまりにまずいので驚いた。寿司と呼べるようなシロモノではなかった。ネタを云々する前に、シャリ(ご飯)がべちょべちょなのだ。あたかも水でも一回かけたようなシャリだった。その店では二度と買わなかった。
回転寿司が百円寿司として、どんなネタを食べても百円という触れ込みで開店したのは20年ほど前だっただろうか?
その回転寿司に新卒の医者たちが喜んで行くので、一回付き合った。テークアウトの寿司屋よりシャリがましだったが、どうしても百円でまかなえるネタには限界があった。それっきり私は回転寿司には行かなくなった。
現在馴染になっている普通の寿司屋は、そのころ見つけた。だから、その寿司屋の娘が幼児だったころから嫁に行くまで全部知っている。20年間通って気が付いたことがある。それは、若者が寄り付かないことだ。つまり、新たな客層を獲得できていない。
息子に聞いてみると、普通の寿司屋のカウンターより回転寿司のほうが落ち着いて食べられるという。板前と対面ではかえって気を使うし、なによりネタが「時価」というのが怖いのだそうだ。なるほど、もとっもである。
そこで再び回転寿司に行ってみた、そうしたらすべて百円という形式はすでになく、ネタごとに値段が違っていた。それでも普通の寿司屋よりも安い。もっと驚いたことには、その寿司がけっこううまいのである。
既存の寿司屋が若者を引き付けないわけが分かった。でも、既存の寿司屋は回転寿司より下のネタを使うことは、寿司職人の誇りにかけてできないだろう。こうして、銀座などの一部の高級店を残して、並みの寿司屋は回転寿司に淘汰されるだろう。
そして、カウンターをはさんで板前と話をしながら食事を楽しむという、世界に類を見ないわが国の食事形態は、私たち常連客が滅びるのに合わせてあと10年あまりで滅びるだろう。