店で品物を買ってお金を支払うと、その品物は店のものではなく自分のものだという実感が生じる。
私が名古屋の山奥に小さな中古一戸建てを買ったとき、契約が済んだら「この家は自分のものだ。もう柱に釘を打っても誰にも文句は言われないんだ」と、とても感動した。それまでは、自分のものではないアパートで、壁に画鋲を刺すことさえ禁止されていたから、喜びはひとしおだった。
「これは自分のものだ」という実感を「自己所属性」という。店でお金を払うことによって、品物に「自己所属性」が生じる。この感情は自明のようにも見えるが必ずしも自明ではない。
たとえば、精神病の人にまれに「手足が自分のものではないような気がする」という人がいる。麻酔をかけた手足が自分のものではないような感じがすることがあるが、こういう人たちは、ちゃんと感覚があるのに自分のものであるような感じがしないのだ。
このような病理的な症状から逆照射すると、健常人の「自己所属性」は実は自明な事柄ではないのだということが初めて分かる。
店にお金を支払ったとたんに品物に「自己所属性」がなぜ生じるのか、実は解明されていない。精神病理学は、しばしばこうした当たり前のことを疑問視することから始まるのだ。
私が名古屋の山奥に小さな中古一戸建てを買ったとき、契約が済んだら「この家は自分のものだ。もう柱に釘を打っても誰にも文句は言われないんだ」と、とても感動した。それまでは、自分のものではないアパートで、壁に画鋲を刺すことさえ禁止されていたから、喜びはひとしおだった。
「これは自分のものだ」という実感を「自己所属性」という。店でお金を払うことによって、品物に「自己所属性」が生じる。この感情は自明のようにも見えるが必ずしも自明ではない。
たとえば、精神病の人にまれに「手足が自分のものではないような気がする」という人がいる。麻酔をかけた手足が自分のものではないような感じがすることがあるが、こういう人たちは、ちゃんと感覚があるのに自分のものであるような感じがしないのだ。
このような病理的な症状から逆照射すると、健常人の「自己所属性」は実は自明な事柄ではないのだということが初めて分かる。
店にお金を支払ったとたんに品物に「自己所属性」がなぜ生じるのか、実は解明されていない。精神病理学は、しばしばこうした当たり前のことを疑問視することから始まるのだ。