観光地に行ってラウドスピーカーで歌謡曲が流されていると白ける人が多いだろう。
私は土産物屋があるだけで白けてしまう。しかも、売っているものが中国製だったりする。私が土産物屋を喜んだのは中学生までだった。
中学生のときの学校旅行では、土産物屋の商品が珍しく、夢中になって買った。それが、家で開けてみると箱は大きくても表面だけしか品物が入っていないもの(上げ底)、石鹸くらいの大きさの羊羹をの包みを解いていくと、紙ばかりを何重も剥がさなければならず、最後に消しゴムほどの羊羹しか出てこないもの(十二単衣)、縦長のビンの内側にわさび漬けが塗ってあって外側からはいっぱい入っているように見えるが、開けると中が空洞になっているものなど、騙しのテクニックの粋を尽くしていて、とてもイヤな気分になった。
いま、このような不正包装はなくなったけれども、土産物屋のDNAは消えてはいない。何の価値もない木片に焼印を押しただけのような商品が1000円程度で売っている。旅の浮かれた気分に乗じて、客はついつい買ってしまうが、家に持って帰っても何の役にも立たない。
だから私は、観光地ではないと思って行ったところに土産物屋があると、こんなところにまで観光客を騙そうとするヤカラがいるのかと、とたんに白けてしまう。すべての観光地には土産物屋があるから、私は観光地と名がついたところには行きたくない。いきおい私が遊びに行くところは、何の変哲もない地方都市になってしまう。見るものはというと、土地の人の生活である。これは、とても面白い。しかし、観光地でない都市には観光ホテルがないから、ビジネスホテルに泊まることになる。ビジネスホテルさえない都市もある。
大学生のころ私は、毎年夏休みになるとある高山の中腹にある民宿に滞在した。周囲にはなんの観光物もない。ただ夏も涼しいということだけが売りの民宿だった。1泊3食付で1日880円。この値段は、1か月逗留しても、都市の下宿代にも満たなかった。気が向くと近くの牧場や川に散歩に行った。学生が個人のエアコンをもつのが難しい時代で、涼しさを求めるなら、高山に行くしかなかった。涼しいので勉強がはかどった。
息子や娘が小学生なったころ、家族でふたたびその民宿を訪れた。学生時代とまったく変わっていなかった。牧場や川にはあいかわらず人っ子一人いなかった。むかし高校生だった民宿の長女がその民宿を継いでおり、旧交を温めた。
それから3年後、その高山への道が大幅に改善された。そして、その村にも観光客が押し寄せるようになった。家族でまたその民宿に行って驚いた。人っ子一人いなかった牧場には茶店や土産物屋が造られ、大駐車場が完備されて、観光客が押し寄せていた。開発とはこういうものかと感心した。
話は跳ぶようだが、最近、テレビ番組が面白くない。とくにゴールデンタイムが面白くない。どこのチャンネルに回してもお笑い芸人が雛段に座っていて、芸とも呼べないような振る舞いで笑いを取っているが、あれのどこが笑えるのだろうか?
テレビは視聴率を稼がなくてはならない。だから、なるべく多くの人が見る番組を安く作らねばならない。そうした努力の結果が、雛壇に並ぶお笑い芸人という番組に収れんするのだろう。
つまり、多くの人を民主的に喜ばせようとすると、ああいう番組になるのだ。(視聴率にたよって行動するのはきわめて民主的である。)観光地も観光客に来てもらおうとすると、道をよくして牧場には茶店や土産物屋を作らなくてはならないのだ。
民主的とはよいことの代名詞のように思われているけれども、こと観光地やテレビ番組については、民主的なのはよくないことである。
(「テレビは視聴率ばかり狙ってはならない」と言っている人たちは「テレビは民主的であってはならない」と言っているのと同じだということを、自分で分かっているのだろうか?)
私は土産物屋があるだけで白けてしまう。しかも、売っているものが中国製だったりする。私が土産物屋を喜んだのは中学生までだった。
中学生のときの学校旅行では、土産物屋の商品が珍しく、夢中になって買った。それが、家で開けてみると箱は大きくても表面だけしか品物が入っていないもの(上げ底)、石鹸くらいの大きさの羊羹をの包みを解いていくと、紙ばかりを何重も剥がさなければならず、最後に消しゴムほどの羊羹しか出てこないもの(十二単衣)、縦長のビンの内側にわさび漬けが塗ってあって外側からはいっぱい入っているように見えるが、開けると中が空洞になっているものなど、騙しのテクニックの粋を尽くしていて、とてもイヤな気分になった。
いま、このような不正包装はなくなったけれども、土産物屋のDNAは消えてはいない。何の価値もない木片に焼印を押しただけのような商品が1000円程度で売っている。旅の浮かれた気分に乗じて、客はついつい買ってしまうが、家に持って帰っても何の役にも立たない。
だから私は、観光地ではないと思って行ったところに土産物屋があると、こんなところにまで観光客を騙そうとするヤカラがいるのかと、とたんに白けてしまう。すべての観光地には土産物屋があるから、私は観光地と名がついたところには行きたくない。いきおい私が遊びに行くところは、何の変哲もない地方都市になってしまう。見るものはというと、土地の人の生活である。これは、とても面白い。しかし、観光地でない都市には観光ホテルがないから、ビジネスホテルに泊まることになる。ビジネスホテルさえない都市もある。
大学生のころ私は、毎年夏休みになるとある高山の中腹にある民宿に滞在した。周囲にはなんの観光物もない。ただ夏も涼しいということだけが売りの民宿だった。1泊3食付で1日880円。この値段は、1か月逗留しても、都市の下宿代にも満たなかった。気が向くと近くの牧場や川に散歩に行った。学生が個人のエアコンをもつのが難しい時代で、涼しさを求めるなら、高山に行くしかなかった。涼しいので勉強がはかどった。
息子や娘が小学生なったころ、家族でふたたびその民宿を訪れた。学生時代とまったく変わっていなかった。牧場や川にはあいかわらず人っ子一人いなかった。むかし高校生だった民宿の長女がその民宿を継いでおり、旧交を温めた。
それから3年後、その高山への道が大幅に改善された。そして、その村にも観光客が押し寄せるようになった。家族でまたその民宿に行って驚いた。人っ子一人いなかった牧場には茶店や土産物屋が造られ、大駐車場が完備されて、観光客が押し寄せていた。開発とはこういうものかと感心した。
話は跳ぶようだが、最近、テレビ番組が面白くない。とくにゴールデンタイムが面白くない。どこのチャンネルに回してもお笑い芸人が雛段に座っていて、芸とも呼べないような振る舞いで笑いを取っているが、あれのどこが笑えるのだろうか?
テレビは視聴率を稼がなくてはならない。だから、なるべく多くの人が見る番組を安く作らねばならない。そうした努力の結果が、雛壇に並ぶお笑い芸人という番組に収れんするのだろう。
つまり、多くの人を民主的に喜ばせようとすると、ああいう番組になるのだ。(視聴率にたよって行動するのはきわめて民主的である。)観光地も観光客に来てもらおうとすると、道をよくして牧場には茶店や土産物屋を作らなくてはならないのだ。
民主的とはよいことの代名詞のように思われているけれども、こと観光地やテレビ番組については、民主的なのはよくないことである。
(「テレビは視聴率ばかり狙ってはならない」と言っている人たちは「テレビは民主的であってはならない」と言っているのと同じだということを、自分で分かっているのだろうか?)