院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

罰としての掃除

2013-03-16 03:19:24 | 教育
 このほど文科省が体罰の定義を行った。ペンを投げるのは体罰。一方、掃除をさせるのは教師の懲戒権の範囲だという。

 掃除が懲戒と聞いて、掃除を仕事としている人は不快感を覚えるのではあるまいか?

 日本において掃除をすることは修行であって、必ずしも罰ではなかった。雲水は境内の掃除を修行として行っている。神社も常に掃き清められている。神聖な場所にチリが落ちていてはいけないのだ。

 そうした流れから、わが国では生徒が校舎の掃除をすることは昔から行われていた。しかし、この欄でだいぶ前に述べたように、生徒が学校の掃除を行うのはグローバルスタンダードではない。生徒が学校の掃除を行うのは韓国、フィリピン、インドネシア、タイくらいで、西洋では生徒は掃除をしない。

 私が精神障害者のリハビリ施設に勤めていたころ、毎日の活動の後、施設の利用者がスタッフとともに施設の掃除を行うのが通例となっていた。私は入院患者に病室の掃除をさせる病院はありえないから、利用者に施設の掃除をさせるのはおかしいのではないか?と掃除に反対したが、当時は受け入れられなかった。

 名古屋市立のその施設には清掃の予算が年に2回分しか付いていなかった。役所の予算からして、あらかじめ利用者による清掃を前提としていたのだ。

 修行か罰か、わが国では掃除は微妙な位置にある。文科省が掃除は罰だと定義してしまうと、また別の批判が出てくるだろう。

 ちなみに西洋では教師が生徒に校舎の掃除をさせたりすると、親が怒鳴り込んでくる。西洋では掃除は奴隷が行う卑しい仕事との観念がまだあるからである。