私が小学校のころにも道徳(修身)の時間というのはあった。その時間はだらだらと遊ぶ時間で、とくに道徳教育というもはしていなかった。戦前は道徳教育が軍国教育に利用されたことへの反省から、道徳教育を行うことには教師にも抵抗があったのだろう。
戦前の修身の教科書に「木口小平は死んでもラッパを離しませんでした」という一節がある。日露戦争のときの木口小平というラッパ手の職務忠実ぶりが明治時代に美談となった。それが修身の教科書に載ったのである。つまり戦争が美化された。
このたび道徳教育が教科化されるという。現場の教師は道徳は採点に馴染まないと反対している。
もし道徳が採点されるのであれば、タテマエの部分だけ採点すればよい。道徳教育をタテマエを教える科目だと宣言すれば、タテマエは知識だから、知識の採点は可能である。
どういうことかというと、タテマエを無視すると痛い目に遭うということである。10年ほど前、きわめて良心的な福祉雑誌があった。その編集長が読者から川柳を募集して、ホンネを詠んだ川柳を掲載した。それが大問題となってその雑誌は潰されてしまった。例えば、以下のようなホンネの川柳が載った。
親身顔本気じゃあたしゃ身がもたねえ
これは行政の福祉担当者のホンネである。ホンネを掲載してしまったから、その雑誌は潰された。つまり、福祉の仕事は徹頭徹尾タテマエで行われるべきだったのである。ホンネを言うと危険だから、身を守るためにタテマエを道徳教育で教えておく必要がある。その際、それがタテマエであることも児童に教えておくべきである。
ずいぶん前のことだが、外国人による日本語スピーチのコンテストがあって、アメリカの女子高校生が一位になった。そのスピーチの内容は次のようなものである。
「アメリカにはいろんな人種がいます。考えもいろいろな人がいます。だから、私たちアメリカ人はタテマエで付き合わなくてはなりません。タテマエを外してしまうと、やがて喧嘩になってしまうからです。」
このスピーチを一位にしたコンテストの主催者に拍手を送りたい。タテマエがどんなホンネよりも重要視される国があるのだ。じつは日本もそうである。新聞の投書欄を見るがよい。あのページはタテマエ、道徳のオンパレードだから。
戦前の修身の教科書に「木口小平は死んでもラッパを離しませんでした」という一節がある。日露戦争のときの木口小平というラッパ手の職務忠実ぶりが明治時代に美談となった。それが修身の教科書に載ったのである。つまり戦争が美化された。
このたび道徳教育が教科化されるという。現場の教師は道徳は採点に馴染まないと反対している。
もし道徳が採点されるのであれば、タテマエの部分だけ採点すればよい。道徳教育をタテマエを教える科目だと宣言すれば、タテマエは知識だから、知識の採点は可能である。
どういうことかというと、タテマエを無視すると痛い目に遭うということである。10年ほど前、きわめて良心的な福祉雑誌があった。その編集長が読者から川柳を募集して、ホンネを詠んだ川柳を掲載した。それが大問題となってその雑誌は潰されてしまった。例えば、以下のようなホンネの川柳が載った。
親身顔本気じゃあたしゃ身がもたねえ
これは行政の福祉担当者のホンネである。ホンネを掲載してしまったから、その雑誌は潰された。つまり、福祉の仕事は徹頭徹尾タテマエで行われるべきだったのである。ホンネを言うと危険だから、身を守るためにタテマエを道徳教育で教えておく必要がある。その際、それがタテマエであることも児童に教えておくべきである。
ずいぶん前のことだが、外国人による日本語スピーチのコンテストがあって、アメリカの女子高校生が一位になった。そのスピーチの内容は次のようなものである。
「アメリカにはいろんな人種がいます。考えもいろいろな人がいます。だから、私たちアメリカ人はタテマエで付き合わなくてはなりません。タテマエを外してしまうと、やがて喧嘩になってしまうからです。」
このスピーチを一位にしたコンテストの主催者に拍手を送りたい。タテマエがどんなホンネよりも重要視される国があるのだ。じつは日本もそうである。新聞の投書欄を見るがよい。あのページはタテマエ、道徳のオンパレードだから。