2014-03-18 に「艱難なんじを珠にす」などの箴言を引いて、トラウマ概念の恣意性を批判しました。
それでは、「艱難」が有益なものとして人間を成長させたり、逆にトラウマとなってその人をさいなむという2面性はなぜあるのでしょうか?ひとつの仮説ですが、ある「事象」が同じ文化圏での多数者(マジョリティー)に生じたら有益で、少数者(マイノリティー)に生じたら害になるとは言えないでしょうか?
たとえば、むかしある部族が行っていた女の子の割礼という野蛮な行為はどうでしょうか?割礼を施される女の子が少数派だったら(割礼を受けた女の子にとって)割礼は必ずトラウマになるでしょう。しかし逆に、割礼をされなかった女の子のほうが希少だったら(つまり大多数が割礼を施されたら)、今度はされなかったほうがトラウマになるのではないでしょうか?(その文化圏内部に限っての話ですが・・。)
上の例は適切ではないかもしれません。ここで私が言いたいことを理解されたかたは、もっと適切な例を考えてみてください。
それでは、「艱難」が有益なものとして人間を成長させたり、逆にトラウマとなってその人をさいなむという2面性はなぜあるのでしょうか?ひとつの仮説ですが、ある「事象」が同じ文化圏での多数者(マジョリティー)に生じたら有益で、少数者(マイノリティー)に生じたら害になるとは言えないでしょうか?
たとえば、むかしある部族が行っていた女の子の割礼という野蛮な行為はどうでしょうか?割礼を施される女の子が少数派だったら(割礼を受けた女の子にとって)割礼は必ずトラウマになるでしょう。しかし逆に、割礼をされなかった女の子のほうが希少だったら(つまり大多数が割礼を施されたら)、今度はされなかったほうがトラウマになるのではないでしょうか?(その文化圏内部に限っての話ですが・・。)
上の例は適切ではないかもしれません。ここで私が言いたいことを理解されたかたは、もっと適切な例を考えてみてください。