院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

罰としての掃除

2013-03-16 03:19:24 | 教育
 このほど文科省が体罰の定義を行った。ペンを投げるのは体罰。一方、掃除をさせるのは教師の懲戒権の範囲だという。

 掃除が懲戒と聞いて、掃除を仕事としている人は不快感を覚えるのではあるまいか?

 日本において掃除をすることは修行であって、必ずしも罰ではなかった。雲水は境内の掃除を修行として行っている。神社も常に掃き清められている。神聖な場所にチリが落ちていてはいけないのだ。

 そうした流れから、わが国では生徒が校舎の掃除をすることは昔から行われていた。しかし、この欄でだいぶ前に述べたように、生徒が学校の掃除を行うのはグローバルスタンダードではない。生徒が学校の掃除を行うのは韓国、フィリピン、インドネシア、タイくらいで、西洋では生徒は掃除をしない。

 私が精神障害者のリハビリ施設に勤めていたころ、毎日の活動の後、施設の利用者がスタッフとともに施設の掃除を行うのが通例となっていた。私は入院患者に病室の掃除をさせる病院はありえないから、利用者に施設の掃除をさせるのはおかしいのではないか?と掃除に反対したが、当時は受け入れられなかった。

 名古屋市立のその施設には清掃の予算が年に2回分しか付いていなかった。役所の予算からして、あらかじめ利用者による清掃を前提としていたのだ。

 修行か罰か、わが国では掃除は微妙な位置にある。文科省が掃除は罰だと定義してしまうと、また別の批判が出てくるだろう。

 ちなみに西洋では教師が生徒に校舎の掃除をさせたりすると、親が怒鳴り込んでくる。西洋では掃除は奴隷が行う卑しい仕事との観念がまだあるからである。

激辛料理

2013-03-15 00:30:21 | 食べ物
 1980年代に激辛ブームというのがあった。極端に辛いカレーや唐辛子を一面にまぶした煎餅などが売り出された。かなりの人が激辛料理に「挑戦」した。それは食べることを楽しむというより、「挑戦」という感じだった。罰ゲームというかマゾヒズムというか、とにかく自虐的だった。

 それらの食品は私にはとても食べられないほど辛かった。激辛ブームの導きがあって、それまでマイナーだった辛い韓国料理や四川料理が、その後すんなり受け入れられたように思われる。

 四川料理を筆頭として、インド料理、タイ料理も辛いそうである。四川料理の麻婆豆腐や担担麺は辛くて私には食べられない。

 これらの料理がなぜ辛いのか、たいていその料理が発達した地域の気候に帰せられる。盆地で高温多湿だからなぞといわれる。でも、それだったらハンガリー料理が辛いことの説明がつかない。

 私が思うに、辛い料理は辛さで素材がおいしくないことをごまかしているのではないか?辛い料理は辛さで味が分からなくなる。別の料理が出ても、辛さのために区別がつきにくい。区別がつくとしたら、それは香辛料の違いである。

 これらの辛い料理を、動物は食べることができるだろうか?実験してみたら面白い。私はたぶん動物は食べられないだろうと思う。

 動物が辛くて食べられないものを人間が食べられるのは、その辛さに文化依存性があるからである。文化はしばしば本能を凌駕する。

都心の豪華ホテル

2013-03-14 04:47:43 | 経済
 東京の有名ホテルは宿泊料がきわめて高い。一泊4万円なぞという単位は普通である。いったい、どこのどなた様が泊まるのだろうか?私はそうしたホテルはもったいなくて泊まったことがない。東京でも少し不便な場所のビジネスホテルなら一泊1万円以内だ。

 30年前、浜名湖畔の有名観光ホテルに泊まったことがある。(今はもうない。)けっこう高かったがリゾートホテルとして満足のいくものだった。その上、冷蔵庫の飲み物代がタダだった。宿泊代が十分に高いので、冷蔵庫なぞでは儲けようという気がないのだろうと思った。

 若いころ友人と鹿児島の学会に行った。学会場がその地の最高級ホテルだったので、そこに泊まった。夜、外に出るのが面倒でホテル内の寿司屋に行った。そうしたら、ネタがやたらに大きいのである。アナゴなぞはシャリの上に一匹がまるごと乗っている。刺身も大きい。

 寿司はシャリとネタのバランスが重要であり、ネタを大きくすればよいというものではない。支払いの段になって驚いた。アナゴ一匹に3000円も取るのである。合計で何万円かかっただろうか?友人と二人で「泥棒みたいだな」と顔を見合わせた。

 浜名湖畔の観光ホテルの経験があったので、(つまり、冷蔵庫の飲み物代がタダだったので)東京の高いホテルもそうなのだろうと思っていたら、そうではない。これはテレビで見たのだが、高いホテルほど冷蔵庫の飲み物代が高いのだそうである。一見、宿泊費が高い分だけ冷蔵庫の飲み物くらいは飲み放題にさせてほしいと思うのだが、話は逆である。

 テレビの解説によると、宿泊費に高額を支払える人は、飲み物代にも高額を支払えると考えるのが経済の基本なのだそうだ。

 観光地で観光ホテルにやむなく泊まるとき、私はホテル近くの酒屋で買ったジュースやビールを持ち込む。冷蔵庫の飲み物代が莫迦らしいほどに高いと思うからだ。冷蔵庫の飲み物代を高くすると誰でもそういった自衛手段を講じるから、飲み物代を高くしても仕方がないと思うのだが、もう何十年も観光ホテルの飲み物代は高い。

源氏物語は面白いか?

2013-03-13 03:57:27 | 読書
 源氏物語は受験生泣かせの古文だった。それより後世の方丈記や井原西鶴の古文に比べて格段に難しい。名詞や助詞が省かれているから、源氏物語の読み方そのものを教わらないと、とても理解できなっかった。

 受験勉強をしていたころ図書館で与謝野晶子訳の源氏物語に出会った。面白いのだろうかと読んでみたが、ちっとも面白くない。こんなに面白くない小説を与謝野はよく訳したものだと感心した。

 後で分かったことだが、源氏物語は宮廷のゴシップ小説らしい。ゴシップだから当時の宮廷のことを知っている人には面白いだろう。しかし、宮廷の様子を知らない者や、後世の人間にとっては面白くもなんともない。

 それに比べると、枕草子のほうがまだ面白い。季節の感覚を取り扱っているからで、それは現代にも通じる。しかし、源氏物語は時間を飛び越すことができなかった。

 要するに源氏物語は他の物語に影響を与えたことや、その古典としての文化的な価値が重要なのであって、現代人が小説として読んでも、昔のゴシップ週刊誌を読むのと同じであまり意味がないと分かった。

 源氏物語の現代語訳はいろんな人が試みている。誰に読ませようと思って訳したのだろうか?瀬戸内寂聴さんが瀬戸内訳を出したが、あんなに大部ではとても読む気にならない。瀬戸内さんはどのような読者を想定していたのだろうか?実際、個人で購入した人はどれだけいるのだろうか?そもそも瀬戸内訳を根性で読破できる人は、原文で読めるのではあるまいか?

 他に大部すぎて最初から読む気をなくさせる小説に、チボー家の人々やトルストイの戦争と平和がある。これらを最後まで読んだ人たちは日本で何人いるのだろうか?買った人は結構いるかもしれないが、ほとんどの人が途中で挫折しているのではないか?

道徳教育の教科化

2013-03-12 00:17:32 | 教育
 私が小学校のころにも道徳(修身)の時間というのはあった。その時間はだらだらと遊ぶ時間で、とくに道徳教育というもはしていなかった。戦前は道徳教育が軍国教育に利用されたことへの反省から、道徳教育を行うことには教師にも抵抗があったのだろう。

 戦前の修身の教科書に「木口小平は死んでもラッパを離しませんでした」という一節がある。日露戦争のときの木口小平というラッパ手の職務忠実ぶりが明治時代に美談となった。それが修身の教科書に載ったのである。つまり戦争が美化された。

 このたび道徳教育が教科化されるという。現場の教師は道徳は採点に馴染まないと反対している。

 もし道徳が採点されるのであれば、タテマエの部分だけ採点すればよい。道徳教育をタテマエを教える科目だと宣言すれば、タテマエは知識だから、知識の採点は可能である。

 どういうことかというと、タテマエを無視すると痛い目に遭うということである。10年ほど前、きわめて良心的な福祉雑誌があった。その編集長が読者から川柳を募集して、ホンネを詠んだ川柳を掲載した。それが大問題となってその雑誌は潰されてしまった。例えば、以下のようなホンネの川柳が載った。

   親身顔本気じゃあたしゃ身がもたねえ

 これは行政の福祉担当者のホンネである。ホンネを掲載してしまったから、その雑誌は潰された。つまり、福祉の仕事は徹頭徹尾タテマエで行われるべきだったのである。ホンネを言うと危険だから、身を守るためにタテマエを道徳教育で教えておく必要がある。その際、それがタテマエであることも児童に教えておくべきである。

 ずいぶん前のことだが、外国人による日本語スピーチのコンテストがあって、アメリカの女子高校生が一位になった。そのスピーチの内容は次のようなものである。

 「アメリカにはいろんな人種がいます。考えもいろいろな人がいます。だから、私たちアメリカ人はタテマエで付き合わなくてはなりません。タテマエを外してしまうと、やがて喧嘩になってしまうからです。」

 このスピーチを一位にしたコンテストの主催者に拍手を送りたい。タテマエがどんなホンネよりも重要視される国があるのだ。じつは日本もそうである。新聞の投書欄を見るがよい。あのページはタテマエ、道徳のオンパレードだから。

市販薬のネット販売解禁

2013-03-11 00:08:26 | 医療
 市販薬のネット販売が解禁になりそうだが、遅すぎたくらいである。それでも、まだ反対派はいる。安全上に問題があるというのだ。

 薬局、薬店で販売される薬をネット販売しても、安全上の問題なんて断じて生じない。薬局、薬店で薬を買って、売り手から安全上の注意をことこまかく受けた人がいるか?むしろ、うるさいと感じるのではないか?

 薬剤師、とくに老人の薬剤師は薬の進歩に着いていけない。だから、そもそも説明するのが難しい。

 では、なぜ市販薬のネット販売に反対の声があるかというと、既得権益を守るためである。街の薬局やドラッグストアが困るからである。安全上の問題なんてこじつけである。2,30年前まで、新しく薬局を開くときには、既存の薬局より何百メートル離れていなければならないという規制があったことを知る人は少ない。

 市販薬で事故が起きたのは一回しかない。何十年も前だが、幼児が風邪薬の糖衣錠をお菓子と間違えて大量に飲んで亡くなったことくらいか?

 睡眠補助剤の乱用が問題になったことがある。だが、これは薬害が問題になったのではなく、市販薬は高いから経済的な問題が発生しただけである。

 下剤の乱用をする人は女性に多い。痩せ願望からである。でも、下剤を大量に飲んだからと言って、薬害は生じない。

 かつて、寝たきり老人の痰の吸引は家族以外の無資格者が行ってはならないと主張したのは看護協会である。看護協会は痰の吸引を無資格者に認めると、それを突破口として看護業務が圧迫されることを恐れた。痰の吸引に危険なんてない。看護協会は既得権を守ろうとしただけだ。(既得権を守るために、無資格者の痰の吸引を阻むなんて、介護家庭の苦労を顧みない暴挙だ。)

 じつは、もっと昔、血圧測定を医者や看護師以外が行ってはならないという声があった。確かに血圧測定には微妙なコツがあって、素人が正確に測るには難しいところがあった。ところが電子血圧計が普及してきて、そんな話は雲散霧消してしまった。今では医者自身が電子血圧計を使用している。

 心電図も心電計内臓のコンピュータが正確に診断してくれる。内臓のコンピュータはちょっとした異常でも拾うようにプログラムされているから、医者は、この程度は異常と採らなくてよいと、データを捨てるだけの役割になっている。

 将棋の元名人にコンピュータが勝つ時代である。うかうかしていると、医者の業務のかなりの部分がコンピュータに置き換わるだろう。内科のように検査数値が乱舞している科ではコンピュータ化が容易である。我田引水かも知れないが、精神科がコンピュータ化されるのは皮膚科とともに最後になるだろう。

地震雷火事親父

2013-03-10 02:25:06 | 歴史
 怖いもののたとえに地震雷火事親父という言葉がある。この言葉がいつごろできたのか、はっきりとは分からないが、少なくとも木造のしっかりした建物ができてからだと思われる。

 縄文時代、竪穴式住居に人が住んでいたころは、地震も火事もそう怖いものではなかった。地震が起きて住居が潰れても、藁の屋根ならば下敷きになるということはなかった。火事も一軒だけ燃えればそれで終わりになるし、一間だけしかない竪穴式住居では逃げ遅れることもなかった。

 地震では津波が怖いことは東日本大震災であらためて認識されたが、津波を伴わない地震で怖いのは建物の倒壊と火事である。瓦屋根が崩れて大きな重量の下敷きになることは致命的である。そこで火事が起きれば被害はもっと広がる。

 つまり、地震の被害とは要するに建物による被害である。ということは、地震被害は実は人災なのである。

 だから縄文時代の生活に戻れば、地震も火事も怖くない。そういう生活に戻れないところに、地震や火事の怖さがある。

 まだ都市がないころには人間が密集していなかったので伝染病もなかった。地震も火事もみな都市型の災害である。地震を自然災害だと言い切ってしまうのには抵抗がある。繰り返すが、都市がなければ地震は怖くもなんともないのである。

 だから、地震雷火事親父という言葉は、そう大昔からある言葉ではないと考えたのだが、読者はどう思われるだろうか?

民主的な観光地やテレビ番組

2013-03-09 00:00:25 | レジャー
 観光地に行ってラウドスピーカーで歌謡曲が流されていると白ける人が多いだろう。

 私は土産物屋があるだけで白けてしまう。しかも、売っているものが中国製だったりする。私が土産物屋を喜んだのは中学生までだった。

 中学生のときの学校旅行では、土産物屋の商品が珍しく、夢中になって買った。それが、家で開けてみると箱は大きくても表面だけしか品物が入っていないもの(上げ底)、石鹸くらいの大きさの羊羹をの包みを解いていくと、紙ばかりを何重も剥がさなければならず、最後に消しゴムほどの羊羹しか出てこないもの(十二単衣)、縦長のビンの内側にわさび漬けが塗ってあって外側からはいっぱい入っているように見えるが、開けると中が空洞になっているものなど、騙しのテクニックの粋を尽くしていて、とてもイヤな気分になった。

 いま、このような不正包装はなくなったけれども、土産物屋のDNAは消えてはいない。何の価値もない木片に焼印を押しただけのような商品が1000円程度で売っている。旅の浮かれた気分に乗じて、客はついつい買ってしまうが、家に持って帰っても何の役にも立たない。

 だから私は、観光地ではないと思って行ったところに土産物屋があると、こんなところにまで観光客を騙そうとするヤカラがいるのかと、とたんに白けてしまう。すべての観光地には土産物屋があるから、私は観光地と名がついたところには行きたくない。いきおい私が遊びに行くところは、何の変哲もない地方都市になってしまう。見るものはというと、土地の人の生活である。これは、とても面白い。しかし、観光地でない都市には観光ホテルがないから、ビジネスホテルに泊まることになる。ビジネスホテルさえない都市もある。

 大学生のころ私は、毎年夏休みになるとある高山の中腹にある民宿に滞在した。周囲にはなんの観光物もない。ただ夏も涼しいということだけが売りの民宿だった。1泊3食付で1日880円。この値段は、1か月逗留しても、都市の下宿代にも満たなかった。気が向くと近くの牧場や川に散歩に行った。学生が個人のエアコンをもつのが難しい時代で、涼しさを求めるなら、高山に行くしかなかった。涼しいので勉強がはかどった。

 息子や娘が小学生なったころ、家族でふたたびその民宿を訪れた。学生時代とまったく変わっていなかった。牧場や川にはあいかわらず人っ子一人いなかった。むかし高校生だった民宿の長女がその民宿を継いでおり、旧交を温めた。

 それから3年後、その高山への道が大幅に改善された。そして、その村にも観光客が押し寄せるようになった。家族でまたその民宿に行って驚いた。人っ子一人いなかった牧場には茶店や土産物屋が造られ、大駐車場が完備されて、観光客が押し寄せていた。開発とはこういうものかと感心した。

 話は跳ぶようだが、最近、テレビ番組が面白くない。とくにゴールデンタイムが面白くない。どこのチャンネルに回してもお笑い芸人が雛段に座っていて、芸とも呼べないような振る舞いで笑いを取っているが、あれのどこが笑えるのだろうか?

 テレビは視聴率を稼がなくてはならない。だから、なるべく多くの人が見る番組を安く作らねばならない。そうした努力の結果が、雛壇に並ぶお笑い芸人という番組に収れんするのだろう。

 つまり、多くの人を民主的に喜ばせようとすると、ああいう番組になるのだ。(視聴率にたよって行動するのはきわめて民主的である。)観光地も観光客に来てもらおうとすると、道をよくして牧場には茶店や土産物屋を作らなくてはならないのだ。

 民主的とはよいことの代名詞のように思われているけれども、こと観光地やテレビ番組については、民主的なのはよくないことである。

 (「テレビは視聴率ばかり狙ってはならない」と言っている人たちは「テレビは民主的であってはならない」と言っているのと同じだということを、自分で分かっているのだろうか?)

公立病院の電話応対

2013-03-08 07:19:06 | 医療
 かかりつけの公立病院に用事があって電話をした。電話に出た女性は「それではトウナイに回します」と言った。「トウナイ」って何??そんな部署、聞いたことがないぞ。しばしのやり取りで、「トウナイ」とは「糖尿病内科」だということが分かった。

 だが、待ってほしい。その公立病院には「糖尿病内科」という科はない。あるのは「内分泌糖尿病科」だ。たぶん、そのことを言っているのだろうと察して、「トウナイ」に電話を回してもらった。

 「トウナイ」の女性職員と話して用件が終わると、その女性は「では6番に来てください」と言った。「6番」って何??6番なら、外来受付にも支払受付にも診察室にもあるぞ。いったい、どこの6番なんだ!

 以上のように、この病院の職員は自分たちだけが分かっている用語で、外部からの問い合わせに応じた。普通、組織というものは外部からの問い合わせに内部用語を使うことはありえない。

 公立病院のほとんどが赤字体質である。しかし、職員が内部用語で外部と話すことが、赤字の根本原因ではない。それは赤字体質のほんの一部を表しているに過ぎない。根本原因はまだほかにあるのだが、それについては 2011-06-16 の記事で述べた。

歯磨きの奨励を疑う

2013-03-07 00:10:05 | 生活
 私が子どものころから歯磨きは奨励されていた。歯を磨かないと虫歯になるというので、一生懸命に磨いた。

 小学校には屋根に人が乗れる選挙カーのような車が来て、指導員が入れ歯を大きくしたような模型をもって、歯の磨き方を教えた。そのころから、歯は横に磨くのではなく、縦に磨けと教わった。横だと歯の隙間に歯ブラシが届かないというのだ。

 なるほどと思って、そのように磨いた。そのうちに、朝だけではなく夜寝る前にも磨けと奨励されるようになったから、そのようにした。やがて、毎食後に磨けと言われるようになった。

 だが、小学校の時にすでに私には虫歯があった。たぶん歯の磨き方が悪いのだろうと自分で思った。おりしもライオン歯磨き株式会社が、食後30分以内に毎食後磨けとCMで言い出した。テレビには歯ブラシに歯磨き粉を4cmくらい付ける様子が映っていた。さすがにこの時、私はライオン歯磨き株式会社が歯磨き粉をたくさん使わせる策略ではないかと思った。

 そのうちにまた歯の磨き方が変わった。縦に磨くのではなく、横に細かく振動させよというのだ。だから、そのようにした。磨き方だけではなく、歯ブラシの毛先が変わって、前のよりこの歯ブラシがよいと宣伝されるようになった。歯磨き粉も変わった。塩入りとか薬用歯磨きとか3種類の色の歯磨き粉が出るチューブとかが発表されたが、全部消えていった。

 それでも、私の虫歯の増加は変わらなかった。ほかの子どもたちの虫歯も減らなかった。ただ、歯の健康優良児を表彰する制度があった。彼らは虫歯が一本もない。彼らはさぞ一生懸命に歯を磨いているのだろうな、と私は思った。

 あれだけ歯を磨いて何十年がたった現在、私には無傷な歯のほうが少ない。友人も同じである。ただ歯の健康優良児だった友人は、未だに一本も虫歯がない。これはどういうことだろうか?

 分かったことは、歯の健康優良児には口腔内に虫歯菌がいないということだった。虫歯菌が口の中に常在するようになると、もう取れなくなるのだという。別に歯の健康優良児の歯磨きの仕方が特別に優れていたわけではないのだ。

 子どものころから歯を磨き続けて、このありさまである。ということは、もし歯磨きをしなかったら、もっとぼろぼろになっていたのだろうか??証拠はないが、どうも虫歯の進行と歯磨きとはあまり関係がないような気がする。だから、これほど丹念に歯磨きをしなくて虫歯になったのではないか?

 虫歯予防デーまで設けて、国を挙げて歯磨きを奨励してきたのは一体なんだったのだろうか?

 今、電動歯ブラシのほうが手動の歯ブラシより歯垢がよく落ちると宣伝している。何十年も磨いてきたのに虫歯になった人たちに、手動の歯ブラシよりも電動歯ブラシのほうが優れていると、今後さらに歯を磨き続けさせるつもりだろうか??人間とは、そこまでやるものだろうか?

自己所属性ということ

2013-03-06 00:11:43 | 心理
 店で品物を買ってお金を支払うと、その品物は店のものではなく自分のものだという実感が生じる。

 私が名古屋の山奥に小さな中古一戸建てを買ったとき、契約が済んだら「この家は自分のものだ。もう柱に釘を打っても誰にも文句は言われないんだ」と、とても感動した。それまでは、自分のものではないアパートで、壁に画鋲を刺すことさえ禁止されていたから、喜びはひとしおだった。

 「これは自分のものだ」という実感を「自己所属性」という。店でお金を払うことによって、品物に「自己所属性」が生じる。この感情は自明のようにも見えるが必ずしも自明ではない。

 たとえば、精神病の人にまれに「手足が自分のものではないような気がする」という人がいる。麻酔をかけた手足が自分のものではないような感じがすることがあるが、こういう人たちは、ちゃんと感覚があるのに自分のものであるような感じがしないのだ。

 このような病理的な症状から逆照射すると、健常人の「自己所属性」は実は自明な事柄ではないのだということが初めて分かる。

 店にお金を支払ったとたんに品物に「自己所属性」がなぜ生じるのか、実は解明されていない。精神病理学は、しばしばこうした当たり前のことを疑問視することから始まるのだ。

インターネット選挙活動

2013-03-05 00:06:42 | 社会
 インターネットによる選挙活動で、自民党と公明党はメールでの働きかけに反対している。一方、民主党とみんなの党は賛成している。

 いつも選挙の時には共産党員の電話攻勢がうるさかった。ちょっと知っているだけの間柄なのに「共産党候補に入れてください」と電話をかけてくる。食事中でもかまわずに。

 迷惑メールに困っている現在、選挙運動のメールが入るともっと困る。だいたい、ちょっと知っているくらいの人にメールアドレスを知られたくない。

 多くの平均的な人は以上のように思っているはずだ。だから、メールによる選挙運動が許されると閉口することになるだろう。

 民主党やみんなの党は、こうした平均的な人の気持ちが分からないのだろうか?だとすると、平均的な大衆の支持なんて受けられるはずがない。民主党とみんなの党はすでに負けている。

美術作品の題名

2013-03-04 00:43:20 | 文化
    碧梧桐とはよく親しみ争ひたり

    たとふれば独楽のはじける如くなり  虚子

 上の虚子の句には、「・・争ひたり」という添え書きが付いている。俳句ではたまに添え書きが付けられることがあるが、実は禁じ手である。

 俳句は17文字がすべてであり、添え書きは17文字以外で説明してしまうことである。上の句も句だけからは碧梧桐との付き合いを詠んだものとは分からない。

 このように作品以外のところで作品を解説してしまうものに「題名」がある。例えば絵画。「モンマルトルの灯」という題名が付いていて、それがモンマルトルの風景画ならそれでよいだろう。

 だが抽象画に「情念」、「静寂」といった題名が付いていると、白けるのではあるまいか?「情念」、「静寂」は説明するのではなく、作品自体から感じさせるものだろう。題名と作品の力関係が別の印象を生み出すという説明は屁理屈である。

 だからか、抽象画には単に「作品�」とか「コンポジション」といった無機質な題名が付いていることがあり、そのほうが素直である。

 歌詞に題名を付けるのはかまわない。冬の情感を歌った「枯葉」は、歌詞を代表する名称として「枯葉」という題名があってもよい。

 問題は歌詞のない音楽である。ベートーベンのピアノソナタ「月光」は元来、ピアノソナタ14番嬰ハ短調「幻想曲風に」という題名であって、「月光」は後世に付けられた名称である。歌詞のない音楽に具体的な名称は必要がない。

 モダンジャズでは歌詞がないのに、しばしば具体的な名称が付けられる。私が好きなMJQでさえ、自らの楽曲に「ジャンゴ」とか「ヴァンドーム」などの名称を付けている。これらも全く必要がない。

 古い抹茶茶碗の由緒ある作品に「銘」が付けられていることがあるが、元来はこの「銘」も不要なものである。「銘」は茶碗の希少価値を権威づける役割しかしていない。

 抽象的な作品に恣意的な名称を付けて、鑑賞者を誘導して惑わすことはもう止めていただきたい。

雛人形

2013-03-03 00:24:38 | 文化
 私が幼稚園のころ、妹は雛人形を買ってもらった。一応、五段飾りだが人形一体が玉子ほどの大きさの安いものだった。それでも妹は喜んでいた。庶民の生活はまだ貧しかった。

 小学一年生になって、同級生のきみ代ちゃんちに雛飾りを見に行った。大きな五段飾りで、あまりの立派さに驚いた。当時は分からなかったが、戦前から焼けずに残った人形だろう。

 そのうちに、母方の実家にやはり焼けずに残った雛飾りがあると知った。ある折、見る機会があった。それは、きみ代ちゃんちの雛飾りよりもさらに豪華で、精巧な籠、馬、膳、食器が漆器のミニチュアでできており、私は人形よりもそちらに興味が行った。

 妻は泥人形のお雛様をもっていた。陶器ではない本当に泥でできた粗末なものである。やはり人形一体が玉子くらいの大きさだった。人形は塗料でじかに塗られていた。みかん箱のような台が付いていた。台はおおざっぱに五段になっており、赤のペンキが塗ってあった。妻はいまだにその泥人形を飾り、往時を偲ぶ。

 あのころは一部を除いてみな貧しかった。貧しい中でも親は女の子に雛人形を与えたのだ。

 現在、私たちが子供のころよりは裕福になったとはいえ、都市住民の住環境は狭い。マンション住まいの若い親たちは、どんな大きさの雛人形を娘に与えているのだろうか?テレビでは豪華な七段飾りを宣伝しているけれども、あんな大きなものを置けるスペースなぞ、今の都市住民にはない。

 それでも、親たちは何とか工夫をして娘に雛飾りを与えているはずだ。それが親の本能とも言えるものだからだ。

水利尿

2013-03-02 00:22:17 | 科学
 利尿剤を飲むと尿がよく出る。どうしてよく出るようになるのか私はメカニズムを知らない。

 アルコールやカフェインにも利尿作用がある。その仕組みも私は知らない。

 医学部の生理学の実習で、水を飲むとどれだけ尿量が増えるかという実験をした。1リットルの水を飲むと、30分ほどで尿量が増え始め、1時間くらいで尿量はピークに達した。

 水を飲めば尿が出やすくなるのは当たり前で、なんでわざわざこんな実習をするのだろうかと学生の私は不思議に思った。

 実習後の教授の言葉に私は目を開かれる思いがした。教授は言った「これで水には利尿作用があることが分かったでしょう」。利尿作用??こういうのも利尿作用と言うの?

 私たちは水を飲めば尿が増えることを経験的に知っているが、メカニズムを知らない。飲んだ水がそのまま尿になるわけではない。飲んだ水の成分そのままが尿の成分と同じではない。つまり、水によって利尿のメカニズムが働いた結果、尿量が増えるのである。

 そうか!科学的には水には利尿作用があると考えなくてはならないのだ。それが証拠に、水を飲んでも汗の量は増えない。(スポーツをやる人で、汗をかくから水を飲まないという人がいるが、まったくの誤りである。水を飲まなくても汗はかく。飲まないで汗だけかいていると、脱水症になる。)

 水を飲むと尿量は増えるのに、汗は増えない。尿量と発汗量の調節は別々のメカニズムで行われていることが、これで分かる。水には利尿作用があるが、発汗作用はない・・という事実から、どうして尿量が増えるのだろうか?という疑問に繋がっていく。このようなところから人体の科学は始まるのだ。

 医学部が他の医療系学部や専門学校に優先するのは、こうした人体の不思議さ神秘さを体験させる教育が、医学部のみでしか行われていないことによるのではあるまいか?