院長のへんちき論(豊橋の心療内科より)

毎日、話題が跳びます。テーマは哲学から女性アイドルまで拡散します。たまにはキツいことを言うかもしれません。

ラジオ体操に「効果」はあるのでしょうか?

2014-09-15 05:33:49 | スポーツ

(1930年台のラジオ体操。ウィキペディア「ラジオ体操」より引用。)

 1960年代にアメリカでストレッチ(体操)が考案されたころ、それを広めようとした人たちは次のように説明しました。

 「ラジオ体操などのスウェーデン体操は反動をつけて体を動かすので、一瞬しか筋肉を使いません。ストレッチは筋肉に継続して負荷をかけるので、こちちらのほうが真の体操になります」。

 ストレッチは普及しましたが、ラジオ体操もすたれませんでした。ラジオ体操はいったいなんの役に立つのでしょうか?明治時代から連綿と行われていますが・・。

 新薬が造られると、それが本当に効くかどうか試験が行われます。気分(思い込み)の影響を避けなければならないので、試験群には本物を、対照群にはプラゼボー(偽薬)を与え、患者も医者も自分が使っている薬が本物かプラセボーか分からないようにして臨床試験が行われます。これを二重盲検試験と呼び 2013-07-13 の記事で説明しました。

 じつは、ラジオ体操に「効果」があるかどうかは、ラジオ体操をする群と、ラジオ体操とは別の身体活動を行う群とに分けて、何年も追跡して比較しなければ、ラジオ体操の「有効性」は科学的には分からないのです。

 わが国には「朝起きは三文の得」という諺があります。また、集団で協調してものごとを行うことを美徳とする文化があります。そうした文化にラジオ体操はぴったりなのですが、「医学的に有効か?」、「体に良いか?」と真剣に問われると、エビデンス(科学的証拠)はないという他はありません。

 もっとも、医者が行う療法でも、その有効性にエビデンスがないものは多いのです。にもかかわらず、それらには健康保険が適用されています。例えば、理学療法の一部やある種の漢方薬は、なんの意味もないと考えている医者はけっこういるのです。それ以上のことは、さしさわりがあるので、個人的にお話ししましょう。

武道館公演は一流の証しでしょうか?

2014-09-14 00:09:09 | 芸能

(日本武道館での卒業式。Futta.net より引用。)

 武道館公演と聞くと、私には出演タレントの成功の証しのように思われました。ところが、最近では「そうでもない」ようなのですね。

 NHKテレビの深夜放送には、聞いたこともない女子アイドルグループが何組も出演します。その中で平均年齢が20歳に届かず、その深夜番組で私が初めて見たような、たいして可愛くもなく、歌なぞは付け足しのアイドルグループが、すでに武道館公演を成功させたというのです。

 あとで聞いたところによるとドーム公演のほうがずっと上だそうで、ドーム公演の場合、収容人数が武道館の数倍で、音響設備の設置もむずかしく、ドーム公演を成功させないと超一流とは言えないのだそうです。武道館の定員は8,000~1万人ですが、実際には8,000人に満たなくても空席を目立たなくすることができるので、ボロが出にくい会場なのだといいます。

 ですから、山下達郎さんのように武道館ライブをやらないことが、かえってステータスになっているタレントもいるそうです。かつて紅白歌合戦に出ないことが大物の証しだったのと同じですね。

 タレントもいろいろ考えているのだなと感心します。私とは縁がない世界ですけれども・・。

朝日新聞の凋落

2014-09-13 00:02:16 | マスコミ

(朝日新聞名古屋本社。ウィキペディア「朝日新聞」より引用。)

 朝日新聞が袋叩きに遭っています。そんなときに朝日新聞を批判するのは誰にでもできることで気が引けるのですが、5年前にすでに批判してしまいましたので(2009-02-17)、今回はそこで言っていないことを2つ指摘しましょう。

 ひとつは「天声人語」が、つまらなくなったことです。私が高校生のころは「天声人語」の英語版との対訳本が売られていたのですが、いまでもあるのでしょうか?当時は素晴らしいコラムだと思ったのですが、いまは見る影もありません。(端的に下手になりました。)

 もうひとつは、今年、朝日新聞には東大生の新入社員が一人もいなかったことです。東大生が必ずしも優れているとは限りませんが、東大生は「就活強者」だとは言えるでしょう。「就活強者」が寄り付かなくなったことに、何らかの意味が感じられないでしょうか?

2014-04-13 にNYタイムズに苦言を呈しました。ご参考までに。)


手話は禁止されていた!?(2)

2014-09-12 00:14:38 | 日本語

(人工内耳の構造。日本耳鼻咽喉科学会のHPより引用。)

 人工内耳の装着手術件数が年々増えています。手術をすると聾者は耳が聞こえるようになるので、その効果はたいへん期待されています。

 そんなに聞こえるようになるなら、手術をどんどんやればいいじゃないかという声が聞こえそうですが、ことはそんなに単純ではありません。

 学習院大学の滝川一廣教授は、聾者の内言語世界がすでに手話で確立されている場合、そこに音声言語という異質の内言語を持ち込むことには慎重であるべきだと指摘しています (2007-10-02) 。

 中部地方で最も人工内耳に詳しいあいち小児保健医療総合センターの服部琢医師は、音声言語が獲得される発達段階の幼児の年齢月齢と、人工内耳埋め込み手術の最適時期を慎重に検討しておられます。彼は人工内耳によって幼児が音声言語を獲得するのに、手話の習得はかえって妨げになるのではないかと推測しています。

 ここで再び手話禁止論が台頭してくる可能性があります。

 ボランティア精神で手話を学ぼうとしている人はたくさんいます。それならついでに、過去において手話容認派と禁止派の対立が聾教育界であったことや、現在、人工内耳の発達によって、手話習得の弊害が考えられるようになってきたことにも注意を向けていただきたいと思います。

註:滝川教授の所論は「そだちの科学9号」に載っています。本書には服部琢医師の記述もあります。この雑誌は現在でも入手可能です。

手話は禁止されていた!?(1)

2014-09-11 00:15:24 | 日本語

(手話キャスター、木村晴美さん。NHK手話ニュースのHPより引用。)

 いまでこそNHKで「手話ニュース」が放送されたり、政治家の演説に手話通訳がついたりして、手話はとうぜんの表現手段になりましたが、私は医者になりたての30数年前には手話はむしろ禁止されていたのです。ご存じでしたか?

 聾者は口話法(読唇術)で相手の話を読み取ることが合理的とされ、手話は口話法の習得を妨げたからです。手話の忌避はひとつの立派な立場でした。聾学校では手話は教えられないため、手話は先輩から伝承する形で「隠れて」使われていました。

 ですが、同じころ主に若い女性の間に手話ブームがおこりました。手話はジェスチャーですから、はたから見てすぐにそれと分かります。当時の女性にとって目立つことはファッションとして重要な要素でした。(「口話法」は習得が手話より格段にむずかしく、習得しても目立ちませんから、彼女たちには採用されなかったのでしょう。)

 また、着飾るだけのファッションと違って、手話には福祉活動の香りがします。そこがカッコよかったわけですね。こうして手話ブームはまたたく間に広がり、NHKでは手話の教室を放送するようになりました。それでもまだ、手話は「公式」のものではありませんでした。

 手話が法律で公式の言語として認められたのは、なんと3年前の2011年のことでした。

 医学的な診察で手話がどの程度役に立つかというと、精神科においてはまったく役に立たないことを 2007-01-06 の記事で述べました。「寝つきはよいのに夜中に何度も目を覚ましますか?」が手話でなかなか通じませんでしたが、筆談ですぐに通じました。そのときの手話通訳者が下手だっただけかもしれませんが。

医療の発展は礼賛すべきことでしょうか?

2014-09-10 00:00:31 | 文化

(北方四島の海洋生態系。自然保護協会のHPより引用。)

 野生動物がけがをすると、もう自然界では生きていけません。他の肉食動物に食われるか、蟻などの昆虫にやられます。

 肉食動物は手負いの個体や子どもの個体なら襲いやすいから襲います。善悪の問題ではなく、肉食動物も生きていかなくてはならないから、そうします。そうでないと、今度は肉食動物が絶滅します。これがいわゆる「自然界の厳しい掟」であって、今風の言い方なら「生態系の保存」ということになります。

 大むかしは人間もこの生態系の内部にいましたから、けがをすると生きられませんでした。ところが医療が発展して、人間は少々のけがなら生きていけるようになりました。

 むかしからの私の読者ならここまで言えばもうお分かりだと思いますが、医療の発展は実は生態系の破壊に他ならないのです。人間の存在そのものが、生態系の破壊と言ってもよいくらいです。

 現在、「進歩的な」人々は生態系の保存に熱心です。でも、本当に保存したいなら、古代のように乳児死亡率を格段に上げる必要があります。また、けがをしたら部族の移動の足手まといになりますから、自らその地に残って死を待たなくてはなりません。

 生態系を守るためなら医療の発展を望んではいけません。昨日、私は総合診療科を礼賛しましたが、それは生態系の保存に逆行する立場になるということです。

 「それなら、お前はなぜ医療をやっているのか?」と問われるでしょう。私はいまそこにいる病人を援けたいし、一方将来にわたる生態系の保存も望んでいるという、矛盾した存在であることを認めざるを得ません。

 他人のことを引き合いに出すのは女々しいかもしれませんが、世の中の大多数の人が、私のように矛盾をかかえたまま生きているのではないでしょうか?誰だか忘れましたが、古代ギリシャの哲人が「矛盾こそわが命」と言っていたことを思い出します。

総合診療科

2014-09-09 00:01:55 | 医療

(新しくなった名古屋大学病院。)

 「内科医は何でも知っているが何もできない。外科医は何も知らないが何でもする。精神科医は何も知らないし何もできない」という言葉がむかしからあります。

 40年前の内科医はほんとに何でも知っていました。まだ大学病院でやっと、消化器、循環器、呼吸器、神経、内分泌、血液などに内科が細分化され始めたころ、地方の総合病院の内科医は、それこそ肺炎から白血病まで診ていました。

 一方で、精神科、耳鼻科、皮膚科などは新卒者がすぐにその部門に行ったので、他科のことは何も知りません。当時、カナダの著名な精神科医、林宗義教授が来日して「日本にはプレマチュアプロフェッション(未熟なうちから専門範囲が狭い医者)が多すぎる」と私的な席で話され、その通りだと思ったものです。

 最近、総合診療科という科の必要性が認識され、その科を希望する医学生が多くなっているのは喜ばしいことです。総合診療科とは、何科の病気というのではなく、すべての病気を診断する科です。患者は最初は自分が何科の病気か分かりませんから、そのような診療科はずっと前から必要でした。

 私のクリニックには、身体病だと思われるのにどこの科でも相手にされなかったという患者さんが、たまに見えます。そようなときは名古屋大学病院の総合診療科が快く引き受けてくださって、綿密に調べてくれるので大変助かっています。

整理整頓はよいことでしょうか?

2014-09-08 05:55:34 | 文化

Kazami Japan (株)のHPより引用。)

 多くの事業所で整理整頓が奨励されています。きれいに片づけられた職場は生産性が上がり、働いている人も気持ちがよいものです。

 整理整頓がよいことだとされるようになったのは、農耕文明が発明されたころまで遡るだろうと、私は考えています。移動式の狩猟採集生活では整理整頓は、さほど重要ではありませんでした。

 農耕は季節の流れ、すなわち暦に従って整然と行われなくてはなりません。農地の区画や畝もきちんと作らなければならなかったでしょう。そこでは整理整頓の観念が価値をもつようになりました。

 農耕は一人ではできず、かならず共同作業となります。そこで監督者と被監督者といった役割分担が行われるようになります。穀物は蓄積できますから、富を分配しなくてはなりません。そこに身分制度が入り込む余地がありました。整理整頓の原理に従って、役割分担も一定の規律をもって整然と行われたことでしょう。それが固定化して支配関係が生まれ、ついに頂点に王をいただくまでになったと考えられます。

 農耕時代より前の狩猟採集時代には、人々は20~30名のバンドという単位で移動生活を行い、支配関係は固定化しないまま何万年も同じような生活を送ってきました。

 ところが農耕が始まると人々は定住し、集団は大集団となり、その集団をまとめていくために掟や法律のようなものが細かく必要になったでしょう。このようにして身分制度が肥大化し、農耕文明の成れの果てとして、種や個体の保存には何の役にも立たない巨大建造物が造られるようになりました。

 その最たるものがピラミッドです。ピラミッドを造るためにどれだけの食糧が空費されたことでしょうか?ピラミッドを造るには簡単な幾何学が必要でした。幾何学の美しさは、身分制度が画然と制定されるのに影響を与えたでしょう。

 こうして人類が豊かになったのならよいのですが、いつぞや述べたように、古い人骨からは農耕時代人よりも狩猟採集時代人のほうが栄養状態が良かったと推察されています。一度定住してしまうと、いくら貧しくなってももう移動生活には戻れず、農耕生活を続けるよりほかに手はなかったのだと思われます。

 こうして、そのような方向性が延々と現代まで続いているのだと、私は考えています。


※今日、気にとまった短歌

  大丈夫慣れてきたよと帰省子は汗こぼしつつカツ丼を食む  (豊橋市)森田ちえこ

内的状態を記述できる自閉症児

2014-09-07 00:01:10 | 読書
(エスコアール刊。)

 「みんなすごいスピードで話します。頭で考えて、言葉が口から出るまでがほんの一瞬です。それが、僕たちにはとても不思議なのです」

 上の発言は「すぐに返事をしないのはなぜですか?」という質問に対するある自閉症児の答えの一部です。その自閉症児とは写真の本の著者で、本が出版されたときにはまだ中学生でした。

 著者は上掲の本で、「どうしてオウム返しをするのか?」、「手足の動きがぎこちないのはなぜか?」、「ものを回すのはなぜか?」といった、自閉症児に対して多くの人がもつ疑問に答えています。どの回答も「ああそうだったのか!」と思わせるものです。

 この著者はテレビに出ましたが、嬌声のような声で話し身振りも不自然で、一見して障害者と分かります。でも、母親とのコミュニケーションのために練習したボール紙のキーボードを使えば、自らの内的世界を健常者にも理解できるように、客観的に述べることができます。文章も下手ではありません。(それなのに、音声言語による会話は困難なのです。)

 私は自閉症児が自らの内面をこれだけ豊かに表現したものを見たことがありません。この本によって、自閉症児の気持ちへの理解がぐっと深まるでしょう。著者の陳述がすべての自閉症児に当てはまるとは限りませんが、少なくとも上掲の本は、自閉症児と健常者の思考を架橋するロゼッタストーンのように私には思えたのでした。

キーワード:「自閉症の僕が跳びはねる理由」

ビッグバンの前は無だった?

2014-09-06 00:07:17 | 科学

JAXAのHPより引用。)

 友人の物理学者から「宇宙はビッグバンですべてリセットされた。したがって、それ以前にも宇宙があったとか無かったとか、ましてやどうなっていたかは観測が不可能なため語り得ない」と教わって、一応納得していました。

 ところが最近、「ビッグバン以前は無だった。宇宙は無から生じた」という学説が出てきたようです。宇宙論の難しいことは分かりませんが、この説はビッグバン以前には宇宙はなかった「無」だった、と主張しています。

 ですが、よく考えてみますと、宇宙を観測したり、観測結果に解釈を与えるのは人間(の自我)なのですよね。すべての科学は、自我の存在を自明だと前提して成り立っています。

 逆に言うと、自我が存在しなければ(つまり人間がいなければ)、宇宙があるとか無いとか、どういう構造をしているとか語る主体が存在しません。

 これを敷衍すると、万物が存在することと、自我が存在することとは等価だとは言えないでしょうか?(つまり、人間(人類)がいなければ、なにもないのと同じことにはならないでしょうか?)

致死量とはなにか?

2014-09-05 00:07:27 | 生物
(創元推理文庫)

 青酸カリはごく少量で死にます。むかしの睡眠薬は一瓶飲めば死ねました。現在の睡眠薬はいくら飲んでも死ねません。一晩二晩ぐっすり寝て、それで何事もなかったように覚めてしまいます。

 少し前には大量服薬が流行り、それは若者のあいだでOD(over dose)というスラングで呼ばれて、私はしょっちゅう救急科に呼ばれてうんざりしていました。ODが流行ったのは、現在の睡眠薬では死なないということが知られたからです。「死なないから」ODをやる。「生命の危険がないのに、周囲を大騒ぎさせることができる」ODという方法をとる若者を私は卑怯だと思いました。もっと命を賭けた切実な行為なら同情すべき面もなくはなかったのですが。

 「致死量」とよく言われます。死ぬのに十分な薬物の量ですが、この量の意味は意外に知られていません。たとえば青酸カリなら10gでも100gでも死ねます。こうした十分量を致死量と考えている人が多いのではないでしょうか?

 また反対に、致死量とは死ぬ最小の量と考える人もいるかもしれません。実はいずれも違います。それは致死量には個体差があるからです。ある人には致死量でも、別の人は死なないかもしれません。そのため、致死量とはどういう量なのかが曖昧なのです。

 そこで考え出されたのが「LD50」(lethas dose 50)という考え方です。これは多数の生物個体に同量の毒物を与えたときに、ちょうど50%の個体が死ぬ量です。このような量なら、だいぶ幅を狭く決めることができます。

 医学部の薬理学の講義でこの概念を知ったときに、私は目から鱗が落ちたのでした。

デング熱の発生に寄せて

2014-09-04 00:00:17 | 医療

情報処理推進機構のHPより引用。)

 一般の方々にはあまり知られていないことですが、流行期でないときにインフルエンザの診断を下すのは至難なのです。とうぜんデング熱の診断はもっと難しい。

 デング熱の感染者は40名を超えたそうですが、一番最初にデング熱を診断した医者は、どうしてデング熱を疑ったのでしょうか?常識的には疑うことはありえません。一番最初の医者は大したものです。マスコミがその医者を紹介しないのはなぜでしょうか?

 ウイルス疾患は抗原抗体反応を調べれば、容易にウイルスが特定できます。ですから、二番目以降の医者は診断が格段にやさしくなるので、大したことはありません。

 デング熱はインフルエンザ程度の重症度です。これから秋が深まると蚊は活動できなくなりますから、もう感染の心配はありません。それにしては、マスコミはまるでエボラ出血熱が日本に入ってきたような報道ぶりです。

 私が考えるに、これまでもデング熱はそれと分からず日本で何度も発生していたはずです。しかし診断がつかず、悪性の風邪くらいに片づけられていたのだと思われます。1億2千万人のうちの40余名だけで死病でもありませんから、通常ならマスコミが取り上げる問題ではありません。これだけ報道されるのは確定診断されたことが珍しいからです。

 だから、私がマスコミにお願いしたいことは、デング熱の防ぎ方を力説するのではなく、デング熱をこの平成の日本に見つけてしまった医者がいることを強調してほしいのです。

消えゆく文語体

2014-09-03 00:26:41 | 日本語
(出版社不詳。)

 明治時代の文学が美しいのは、文語が残っているからです。言文一致とやらで口語体になってからは、文語体特有の美しさが消えてしまいました。これは大きな損失でした。

 谷村新司さんの「昴」がよいのは、歌詞が文語体であることに負うと言えば、文語の美しさを理解していただけるでしょうか?「昴」が口語だったら締まらないでしょう?



 たとえば次の口語俳句は有名ですが、一句だけだから存在価値があるのであって、この手の句を茅舎がたくさん詠んだら面白くもなんともないでしょう。

     約束の寒の土筆を煮てください  川端茅舎

 無定形口語体の碧梧桐が、虚子に敗れてほんとによかったです。口語体が文芸の言葉になるには、あと200年はかかると言ったのは故山本夏彦翁です。

防災の日に寄せて

2014-09-02 00:07:44 | 歴史
 私は「戦争を知らない子どもたち」です。父母は「(関東大)震災を知らない子どもたち」です。

 私は先の戦争のことを父母から聞いて知っています。関東大震災のことは祖父母から聞きました。

 俳句では戦争が終わった日を「終戦日」と呼び、秋の季語です。防災の日を俳句では「震災忌」と言います。それらをリアルに体験した人から聞いていますから、私は「終戦日」、「震災忌」という季語で俳句が詠めます。

 でも、私たちの孫の世代は、また聞きでしかそれらを知りません。実際に体験した人からのビビッドな伝達を受けられなかったのです。

 近所に住んでいた仕立て屋(テーラー)の小父さんは、関東大震災のとき山の手に逃げて、下界を見ると火の海だったと、興奮して幼い私に語りました。

 父は着もしないのに、そのテーラーさんから毎年、決まったようにスーツやオーバーを2着買っていました。それが町内の約束事でした。

 そうした約束事が残っていないのに、「終戦日」や「震災忌」だけが大威張りで生き残るはずがありません。防災の日に、理由も分からずに防災訓練をさせられている孫たちにとって、それらは「大化の改新」と同じくらい過去のことでしょう。

街の本屋、潰れるべし

2014-09-01 05:58:56 | 読書

「デンキ街の本屋さん」のHPより引用。)

 私の街の本屋に対する印象はあまりよくありませんでした。高校時代、近くの書店にはよく行きましたが、女店員がしょっちゅう替わるので商品知識なんて望むべくもありません。そこの親父にしてからが、たまたま繁華街の地主の息子だっただけで、読書好きだから本屋になったのではありません。

 繁華街だから何かよい商売はないかと考えて、ニッパントーハンが持ってくる本を並べておくだけの道を選んだのでしょう。売れなければ、ニッパントーハンが持って帰ってくれます。親父は本屋の番台に座っているだけでよい。

 ニッパントーハンが持ってきた本は引き取られますが、客に注文された本は本屋の責任で買い取らなくてはなりません。本屋にとって本を注文されるというのは、必ずしも喜ぶべきことではなかったのですね。

 私は本をよく注文しました。で、来るまで2カ月かかりました。なぜそんなに時間がかかるのが未だに分かりません。ひどいときには、2か月待って答えが「絶版でした」です。もうはらわたが煮えくり返りました。

 今、ネット書店なら早ければ翌日届きます。しかも、絶版の本ならちゃんと古本まで用意されています。むかしの本屋の動作のにぶさを知っている私には、ネット書店の動きは胸がすくほどに気持ちがよいのです。

 最近、フランスでネット書店をターゲットにした「本の送料をタダにしてはならない」という法律ができて、フランスの書店文化を守るためだとか言っていますが、あれはウソでしょう。既存の本屋の既得権を守るためです。どんな国よりも翻訳が多いわが国が、読書文化でフランスに劣るわけはありません。それでもネット書店にペナルティーを課そうとする動きはないのですから。

 私は街の本屋が潰れていくのを喜ぶ者です。企業努力もせず商品知識もなかったら、潰れるのは当たり前です。このごろ「本屋大賞」という賞がありますが、大賞の本が面白くないのです。書店員だからって、そんなに本を読んではいないものです。あれはたぶん売れ行きを見て、やや売れた本の中身をさっと眺めて投票するだけでしょう。(読書好きの書店員もいるでしょうが、投票というやりかたでは彼らの意見は反映されません。)

 先日、冒頭の本屋の前を通りかかったら本屋はすでになく、「コジンシドー」という学習塾になっていました。

註:ニッパントーハン=日販と東販、この2社の代理店で、わが国の書籍流通のほとんどを牛耳っている。