『三田社会学』第18号(2013年7月)
病院死が多くある現代において病院を看取りの場ととらえ、そこでの患者の死を通して、家族と看護師が経験していることについて検討。死別体験者が置かれた現状にの一端を明らかにすることを目的としている。
引用
・「共に悼む」ことのできる<場>は、(中略)ともすると特定の悲しみ方を規範的なもの(望ましいもの、適切なもの)として位置づけ、それ以外の悲しみ方を否定し、排除しかねない危険性を有する。
・ウォルターが指摘するように、現代社会では「悲嘆作業に決まった形はない」という認識のもと、死別体験者それぞれの悲しみ方が尊重されているように見える。(中略)「どのように悲しんでもよい」という自由は、「どのように悲しんでいいか分からない」という混沌(アノミー)と表裏の関係にある。(中略)そのため例えば、自分と同じような死別を体験した人たちの集まりなどに参加し、悲しみの共有を求める死別体験者が出てくることになる。
死が非日常化し、地縁、血縁の間での悲しみの共有あるいは、喪の作業の共有が困難となった現代において、遺族会や自助会といったものがその役割と代替している。それを裏づけしている論文であった。
事例として対象しているのが小児病棟であるためか、死に対して看護師と遺族がそれを共有できていないということが、繰り返し強調されていた。病院の機能によって死の捉え方や死後のケアに違いがあるとは思うが、そこまで分断されているか?と少し疑問に感じた。
病院死が多くある現代において病院を看取りの場ととらえ、そこでの患者の死を通して、家族と看護師が経験していることについて検討。死別体験者が置かれた現状にの一端を明らかにすることを目的としている。
引用
・「共に悼む」ことのできる<場>は、(中略)ともすると特定の悲しみ方を規範的なもの(望ましいもの、適切なもの)として位置づけ、それ以外の悲しみ方を否定し、排除しかねない危険性を有する。
・ウォルターが指摘するように、現代社会では「悲嘆作業に決まった形はない」という認識のもと、死別体験者それぞれの悲しみ方が尊重されているように見える。(中略)「どのように悲しんでもよい」という自由は、「どのように悲しんでいいか分からない」という混沌(アノミー)と表裏の関係にある。(中略)そのため例えば、自分と同じような死別を体験した人たちの集まりなどに参加し、悲しみの共有を求める死別体験者が出てくることになる。
死が非日常化し、地縁、血縁の間での悲しみの共有あるいは、喪の作業の共有が困難となった現代において、遺族会や自助会といったものがその役割と代替している。それを裏づけしている論文であった。
事例として対象しているのが小児病棟であるためか、死に対して看護師と遺族がそれを共有できていないということが、繰り返し強調されていた。病院の機能によって死の捉え方や死後のケアに違いがあるとは思うが、そこまで分断されているか?と少し疑問に感じた。