『ケア従事者のための死生学』(2010)Ⅱ章-5
そもそも、「在宅死/看取り」が最善なのか?という問いから、「自宅とは何を指すのか」「日常のなかでの死とは?」について言及している。
国民のニーズ、国の政策から、「在宅での看取り」が多くのひとにとって最善という流れに一石を投じている。少し違った観点から「死/看取り」をとらえることができ、刺激的であった。
引用
・人が「自宅で死にたい」と言うとき、それはいったいどういう意味なのでしょうか。それは文字通り、いま自分が住んでいる所で死にたいという意味なのでしょうか。私は、必ずしもそうではなく、それは自分がいままで生きてきた日常が展開する場の中で死にたいという意味であり、そうした場の中心が「自宅」という場所であったということではないか、と考えてます。つまり、人によっては「自分がいままで生きてきた日常が展開する場」の中心が、自宅以外の場所である人もいるかもしれません。
・重要なのは自宅で死ぬこと、病院で死ぬこと、それ以外の場所で死ぬことといった多様な死に場所の選択肢を保障することであり、病院死よりも在宅死のほうが良い(あるいはその逆)といった、二者択一的な価値判断を流布することではないのです。
空間がひとに与える影響についても、触れられていた。病院や施設での死が好ましくないとみられがちなのは、そこが清潔であっても「日常的ではない」からである…という趣旨である。学生時代に研修に行ったスウェーデンでは、いわゆる「有料老人ホーム」のようなものがあり、そこに住んでいるひとはそこが「自宅」という認識であった。それは、各自の部屋がそのひと色になっており、家具も介護用品も自由に持ち込まれているからだ。そして、建物全体の入り口に郵便ポストがあるのではなく、各部屋のドアの前にそのひと用の郵便ポストがあり、直接配達されているところもあった。そういった空間であったせいか、そこに住むひとたちは、「ここで最期まで過ごす」ことが当たり前であり、自分が生まれた家、育った家が「自宅」ではない様子であった。
以前、単身高齢者の自宅での看取りについて論文を書いた際、大学院時代の恩師から、『「自宅」ってそもそもどこかしら?戦争を生き抜いたひとたちにとっては、まさに生き抜いてきた(守り抜いてきた)場所としての「自宅」がいまの住みかかもしれないけど、これからのひとたちはどうかしら?賃貸マンションを転々としているひとたちは、果たしてどうかしら?』と問われたことがある。
「自宅」の捉え方は人それぞれであって、ケア従事者が認定するものではない。本書で指摘しているように、たとえどの場所であっても、そのひとが主役で居続けられる空間を提供し続けることこそが、ケア従事者の姿勢の根底にあるべきだと思う。
そもそも、「在宅死/看取り」が最善なのか?という問いから、「自宅とは何を指すのか」「日常のなかでの死とは?」について言及している。
国民のニーズ、国の政策から、「在宅での看取り」が多くのひとにとって最善という流れに一石を投じている。少し違った観点から「死/看取り」をとらえることができ、刺激的であった。
引用
・人が「自宅で死にたい」と言うとき、それはいったいどういう意味なのでしょうか。それは文字通り、いま自分が住んでいる所で死にたいという意味なのでしょうか。私は、必ずしもそうではなく、それは自分がいままで生きてきた日常が展開する場の中で死にたいという意味であり、そうした場の中心が「自宅」という場所であったということではないか、と考えてます。つまり、人によっては「自分がいままで生きてきた日常が展開する場」の中心が、自宅以外の場所である人もいるかもしれません。
・重要なのは自宅で死ぬこと、病院で死ぬこと、それ以外の場所で死ぬことといった多様な死に場所の選択肢を保障することであり、病院死よりも在宅死のほうが良い(あるいはその逆)といった、二者択一的な価値判断を流布することではないのです。
空間がひとに与える影響についても、触れられていた。病院や施設での死が好ましくないとみられがちなのは、そこが清潔であっても「日常的ではない」からである…という趣旨である。学生時代に研修に行ったスウェーデンでは、いわゆる「有料老人ホーム」のようなものがあり、そこに住んでいるひとはそこが「自宅」という認識であった。それは、各自の部屋がそのひと色になっており、家具も介護用品も自由に持ち込まれているからだ。そして、建物全体の入り口に郵便ポストがあるのではなく、各部屋のドアの前にそのひと用の郵便ポストがあり、直接配達されているところもあった。そういった空間であったせいか、そこに住むひとたちは、「ここで最期まで過ごす」ことが当たり前であり、自分が生まれた家、育った家が「自宅」ではない様子であった。
以前、単身高齢者の自宅での看取りについて論文を書いた際、大学院時代の恩師から、『「自宅」ってそもそもどこかしら?戦争を生き抜いたひとたちにとっては、まさに生き抜いてきた(守り抜いてきた)場所としての「自宅」がいまの住みかかもしれないけど、これからのひとたちはどうかしら?賃貸マンションを転々としているひとたちは、果たしてどうかしら?』と問われたことがある。
「自宅」の捉え方は人それぞれであって、ケア従事者が認定するものではない。本書で指摘しているように、たとえどの場所であっても、そのひとが主役で居続けられる空間を提供し続けることこそが、ケア従事者の姿勢の根底にあるべきだと思う。
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