いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

リベラリズムと革命主義。 liberalism and revolutionism

2015-11-03 19:41:14 | 日記
 (1)日本社会党(以下、社会党)は終戦直後の45年11月に結党設立されて、現行憲法下で初めての47年衆院選で第1党となり政権を獲得(報道)している、いうならば戦後日本の再スタートを主導した政党だ。
 第2次世界大戦の惨禍をひきづって誰もが苦しいまずしい戦後生活状況の中で、国民の中には戦争のない平和への熱望が強かった時代を背景に平和主義、労働者階級主義の社会党への期待が強まった結果でもあった。

 その後は当時の保守政治の吉田茂の自由党と鳩山一郎の日本民主党が合同して誕生した自由民主党が、農村中心に保守層の強い固い政治基盤に支えられて長期の保守政権を築いて今日に至っている。

 (2)戦後政治は米ソ冷戦時代の中で自由民主主義と共産社会主義の政治思想対立を軸にして世界が自由安定(liberalism)か革命刷新(revolutionism)かの両極政治闘争の歴史であった。

 代表する米国と当時ソ連の代理戦争としての東西ドイツに分離されて、その中でもドイツ古都ベルリンは高い強固な壁で仕切られて東(ソ連)西(米国)対立の象徴となった。

 (3)日本でもその頃は野党第1党となった社会党は労働者階級社会主義政党として平和憲法護持、自衛隊違憲、労働者階級支持を政治思想、理念、理論として存在感を示してきた。

 後の石橋政嗣委員長は非武装中立論(demilitarized neutrality theory)を掲げて自民党政権の日米安保軍事同盟路線に激しく対抗して野党第1党の勢力を示してきた。
 社会党のテーゼ(These)は社会主義革命路線をとっていたこともあり、非武装中立論は理想主義ではあったが米ソ冷戦時代の両極政治闘争時代では現実性に欠けるとして、また社会主義革命路線との整合性にも疑念があって国民に浸透することはなかった。

 (4)社会主義理論の教育実践から当時の社会党には論客も多く、国会では自民党政権と激しく理論闘争で渡り合い国会審議が中断することもしばしばであった。
 その社会党も米ソ冷戦終結、ベルリンの壁崩壊、東西ドイツ統一による政治的変化、現象を受けて、自衛隊合憲、日米安保容認に政策転換して党勢を失い、その後社民党に党名変更して結党70年の現在は党消滅の危機に見舞われている。

 (5)時代の変化、世界政治の変化に政党としての主義主張、理念、理論を見失って時代に安易に迎合した結果の存在感消滅の行き着く先であった。
 かっての社会党の論客がいたら変化の流れの中でどんな政治思想、理念、理論をつくり上げていたのか興味はある。

 当時の共産主義、社会主義のソ連は崩壊後ロシアとして統制計画経済一辺倒から自由経済主義理論も取り入れて成長し、政治、経済、軍事で再び米国と対抗する盟主となっている。

 (6)日本共産党も世界政治、時代の変化にうまく対応、変遷しながら革命路線から協調主義として現在は存在感のない弱小野党の中にあって1強安倍政権への批判の受け皿として注目されている。

 最近の国政選挙、地方選挙では野党として唯一党勢を伸ばしており、野党結集のイニシアティブ(initiative)をとろうとしている。野党連合政権構想では幅広い勢力結集を目指して日米安保体制を変更しない選挙方針を示しており、それはそれで結構なことだがそれならば結党のテーゼを失うものであり、ただそれだけでは他の野党、国民の理解は得られずに社会党の二の舞となりかねないものだ。

 

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