どんぴんからりん

昔話、絵本、創作は主に短編の内容を紹介しています。やればやるほど森に迷い込む感じです。(2012.10から)

グドーさんのおさんぽびより

2019年07月23日 | 創作(日本)

   グドーさんのおさんぽびより/文・たかどの ほうこ 絵・佐々木マキ/福音館書店/2018年

 

春夏秋冬おのおの5話づつ、春からはじまり春でおわる20話。

大事件がおこるわけではありませんが、日常生活ではちょっとした出来事が。

息の合った中年のグドーさん、イカサワさん、9歳のキーコちゃんが、お散歩したり喫茶店にいってだべったりします。

「とっさのひとこと」ってなに?

イカサワさんが、外国人の若者から道を聞かれとっさに出た英語。昔覚えた文がすらすらでてきて、「二つ目の角を曲がって、5,6分歩くと右手に駅が見えます」と答えます。でも本当は二つ目の角にあるバス停から駅生きのバスに乗ってください」といわなければならなかったのです。

言い間違えて青ざめたイトカワさんに、グドーさんは「そっちにいって偶然いいことがあるかもしれない」と無責任にいいます。

散歩をつづけていると、通りの反対側に、さっきの若者が。

若者は以前世話になったおばさんを訪ねるところでしたが、たまたまデパートに買い物に来たおばさんと出会ったのです。

イトカワさんの間違いで、若者はおばさんにあえたのです。ただしく行ったら、おばさんは留守でした。

「アマリリス」

キーコちゃんが、ゴドーさんに鉢植えのアマリリスをもっていくと、ちょうどイトカワさんと<アマリリス>を合奏するところ。

イトカワさんは、チェロ、グドーさんはフルート。キーコちゃんは体育すわりをすると合奏がはじまります。

ところが、なんともうるさい音、チェロもフルートも何とも言えない音。ところがアマリリスが音から遠ざかろうと身をかたむけ、そのうち上へ上へ伸びあがっていきます。

ところが合奏がおわったとたん、アマリリスが、とじていた花びらが、つめていた息をはきだすようにラッパの形に開きました。

音楽の偉大さに感激した三人でした。

 

どの話もオチがあって楽しめました。佐々木マキさんの絵もほのぼのしています。


ずるやすみにかんぱい!

2019年04月23日 | 創作(日本)


    ずるやすみにかんぱい!/宮川 ひろ・作 小泉 るみ子・絵/童心社/2010年


 小学校三年生の雄介が、からかわれたのは、それまで朝礼の行列で、いつも二番目にいたので、両手を前にあげて「前えならへ」をしていたのが習慣になって、これまで一番前にいた子が転校し先頭にいたとき、おもわず「前へならへ」で両手をあげてしまったのが原因でした。

 そのときは笑い話でおわったのですが、どのようにつたわったのか、ほかのクラスのニ三人の子が「前へならへ」とからかったのです。

 からかったほうは、悪意がないと思っても、からかわれたほうはずっと傷つきます。

 ちゃんとなやみをうちあける雄介君に、ずるやすみをして早いうちに力をもらいにいこうというおとうさん。

 おかあさんも「熱があるから」と、学校に連絡して、けろっとおくりだしてくれます。

 行った先は、おとうさんの高校時代からの友人の青山おじさんのところで、そこには雄介よりもひとつ年下の正弘もいました。

 金曜日にもかかわらず、正弘君は家にいました。開港記念日で休みというのですが・・。

 青山さんの隣には、小学校の先生だったという先生おばあちゃんもいました。

 先生おばあちゃんのところで、畑仕事、川のふちに急きょ作った露店風呂ですかっとしたあとは、うどんづくり、そして鍋料理です。

 鍋をかこみながら、ずるやすみが話題になりました。

 正弘君も、じつは開港記念日ではなく、ずるやすみでした。「青ちゃん青虫、はさんですてろ」と、からかわれていたのです。キャベツ畑の世話は二年生がおこなっていたのです。

 おとうさんも、宿題をしてなくて、学校に行きたくなかったことを話していました。

 先生おばあちゃんは、師範学校の入学式の時、お兄さんが作ってくれたクジャクのかたちのブローチを制服につけ、「学校はおしゃれをするところではありません」と、取り上げられたことを話してくれます。先生おばあちゃんは、お兄さんの気持ちをくんでブローチをつけたのですが、そんなことがあって学校ぎらいになって退学をしていました。

 青おばさんも小学校のとき先生とウマがあわなかったことを話します。

 長い学校生活、たしかにひとりひとりにさまざな体験があります。つらいことがあったとき相談できる人がいるのは幸せなこと。

 雄介君、素敵な両親、大人にかこまれで、力をいっぱいもらったかな。

 それにしても、子どもが自ら命を絶ったというニュースにせっするたび、どうして誰も手を差しのべられなかったか疑問が残ります。


わすれんぼうにかんぱい!

2019年04月18日 | 創作(日本)


    わすれんぼうにかんぱい!/作:宮川 ひろ 絵:小泉 るみ子/童心社/2011年


 宮川さんの物語に出てくる子どもや先生は、とてもやさしくほっこりします。

 お母さんが結核で入院することになり、お父さんも出張が多いので、まゆみは、おばさんの家でくらすことになりました。おみまいにも行けないさびしい思いのまゆみに、転校した先の土屋等先生は、「わすれんぼうになろう」といいます。

 ズボンをはきかえたときベルトをわすれて、ハンカチをむすびあわせて代用した昭一郎に、先生は「わすれんぼうはこまって、それから知恵がうまれる」といいます。

 校長先生がお話の種をひろってきて、朝礼のとき話をするのですが、ある日、あいさつだけでおわろうとすると、良平が「ゆうべのごはんの話をしてください」と声をかけます。すると校長先生は、自分で作っている味噌ができるまでの話をします。
 「校長先生のわすれんぼうって、いいもんだよな!」と、クラスのみんなは牛乳で乾杯です。

 中村こずえのおばあちゃんが「けさはわすれ霜よ」といったことを詳しく聞いてきて、みんなに教えてくれないかと先生にいわれて、四人がこずえのおばあちゃんのところにでかけます。
 おばあちゃんは「わすれるって、こまることでもあるけれど、大事なことでもあるんだよ。つらいことはわすれて、前へすすまなければならないものさ」お好み焼きをつくりながら話をしてくれます。
 そして「年わすれ」「わすれ水」「わすれ花」「わすれ潮」「わすれ貝」など昔の生活についても話してくれます。

 図書館で借りた本を返し忘れ、おまけに一冊をなくしてしまったのは圭太でした。
 先生は、おじいさんの納骨式のとき、おそなえする果物籠を電車に置き忘れてしまいます。

 この物語で「乾杯!」は、ちょっとうれしいときの乾杯ですが、宮川さんは、落ち込んだり失敗するたびに「かんぱい」をしてきたといいます。一歩前に踏み出すきっかけになっていたのでしょうか。

 悲しみや辛いことは忘れられませんが、ときには忘れるのが救いになることも。

 「がんばって」といわれても頑張れないことも「わすれんぼうになろう」と声かけした先生も素晴らしい。

 絵本ではありませんが、挿絵の子どもたちもいきいきしていて、いやされます。


仙人・・芥川龍之介、極楽にいったばさま・・岩手

2018年12月21日 | 創作(日本)

        杜子春、くもの糸/芥川龍之介/偕成社文庫/1978年


 名まえも作品名も知っていても意外と読んだことがありません。

 「仙人」という短編があります。

 大阪の町に権助という男が仙人になりたいと口入れ屋を訪れますが、もちろん口入れ屋はことわります。

 権助は、店ののれんに「よろず口入ど所」と書いているのは、うそなのかといいだします。

 口入れ屋の番頭は、沽券にかかると思ったのでしょうか、その日は権助にひきとってもらい、近くの医者のところへいき、相談します。
 もちろん、医者も仙人になれるような奉公口を知るわけもありません。
 しかし、番頭の話を聞いていた古ぎつねとあだなのある医者の女房が自分にまかせなさいといいだします。

 紋付はおりでやってきた権助に、医者の女房は20年奉公すれば、仙人になる術をおしえる、ただ、給金は一文もやらないといいます。

 すぐに20年たって、約束通り不老不死になる仙人の術をおしえてもらいたいといいだした権助。

 医者の女房は、どんなむずかしいことでも自分の言う通りすれば、仙術をおしえる、そうしないと向こう20年給金なしで奉公しないとすぐに罰があたるとおどろかしておいて、高い松の木にのぼらせます。
 さらに右手、左手を離すように無理難題です。

 それでも、権助が、そのとおりにすると、宙にうき、高い雲のなかへのぼっていってしまいます。

 ここには心理描写も状況描写もほとんどありません。
 最後に本当に仙人になってしまい、愚直な男の望みがかなうというのは昔話のオチです。

 医者の女房のしたたかさをえがきながら、医者夫婦がどうしたか、だれも知らないという結びにも納得です。

 昔話のオチのようだと思っていたら、「極楽にいったばさま」(かもとりごんべえ/稲田和子・編/岩波少年文庫/2000年)という岩手の昔話がありました。

 ひどい貧乏で早く極楽へいかせてくださいと、お寺まいりしていたばさま。

 お賽銭が続かなくなって、一文銭の穴へ麻糸とおして、おまいりのたびに、ジャランジャランさせては、麻糸を手繰り寄せ、お金はもちかえるようにしていましたが、これに怒った和尚さんが、阿弥陀さまの声で、ばさまを池の松のてっぺんにのぼらせ、両手を松の木からはなさせると、五色の光る船があらわれ、ばさまを受けてそのままシューシュー走って、雲の中にきえていくという話。

 和尚さんもおなじようにしますが、池の中にザブンと落ちて、水の中に沈んでしまいます。

 昔話の成立は芥川龍之介より先ですから、両者にどんな接点があったのでしょう。


ねこが見た話

2018年11月16日 | 創作(日本)


    ねこが見た話/たかどの ほうこ・作 瓜南直子・絵/福音館書店/1998年


 絵本ナビには高楼方子さんの絵本が84冊。これだけの絵本がありながら、あまり接点はありませんでした。
 今読んでいる絵本は氷山の一角というのを思い知らされました。

 「ねこが見た話」は、「オイラはのらのこ・・」からはじまる、のらねこが覗き見た話が三話、自分が飼い猫になる一話から構成され、巧みなストーリーがたっぷりと楽しめる話ばかりです。
 瓜南直子さんの挿絵もユニークです。


キノコと三人家族のまき
 ひどく年とったばあさんだというのに、おかっぱあたまの大家さんから「まあ、ひと月くらしてごらなんなさい。あんまり広いんで、おどろきなさるさ」といわれ、小さな家を借りた3人家族。
 「もうすこし広ければ、いうことなしなんだがなあ・・」と思いながら、家賃の魅力にひかれ借りたものでした。

 引っ越し後、キノコのスパゲッテイー、キノコご飯、キノコの天ぷら、キノコの味噌汁とキノコ料理が続きます。

 母親が言うには、床下にキノコがたくさんはえているというのです。
 父親と息子、それにオイラものぞいてみると、ところせましとキノコが。

 それからは、朝晩キノコ料理。何日か過ぎると、父親、母親、息子の髪形はおかっぱあたま。大家のおばさんの髪形ににています。

 それだけでなく、もうひとつ不思議なことに、夜になると家族がだんだん小さくなることでした。もっとも朝になるともとにもどるので、暮らしに不便はありません。

 やがて、キノコそっくりになった三人。夜は畳のヘリで百メートル走、いすやテーブルは巨大なアスレチック、電気のひもにつかまればターザンごっこです。

 なんとも幸せな家族です。

 オイラがいうには「うそだとおもうやつは、しんじなくていいよ」。

 おばあさんが、狭い部屋に住む家族におくった幸せかな?


もちつもたれつの館のまき
 寝室が七つもあって、曜日ごとに替える五十年配の社長。毎晩、寝室を替えますから、残りの六つはあいています。その部屋に、公園のベンチでねおきしている六人の風来坊が住みつきます。
 ある日曜日、先行きが心配になった社長が、せともののまねきねこにむかって、「あす、あさってわたしが元気だという証拠をみせてください」とお願いします。

 思いついた社長が、月曜日の部屋をみれば、あしたのわしの姿をみせてくれるやもしれんと部屋をのぞきます。そこにはパジャマに着替え、ベッド足をいれようとする風来坊。あしたの自分だと思い込んだ社長のかおがほころびます。
 火曜日から土曜日の部屋をのぞいた社長のかおは満足そう。

 満ち足りた社長が公園を散歩しているとき、であったのが六人の風来坊。夜のことがばれたかと思いきや、社長は六人に説教をしただけで歩いていきます。

 それからも社長は、自分の部屋以外をのぞいて、自分が生きていることを確認します。つまり、風来坊の六人は社長に生きる元気を与えていたのです。といっても風来坊も社長からのぞかれているのをしりません。知っているのはオイラだけ。

 「たしかにもちつもたれつの館でありますにゃ~」

 
おかあさんのいすのまき
 古道具屋でついでに買ってきたいすは、お母さんが座って子に語ると、その言葉がすべて真実になるもの。ところが効力は百年で、気がついた日が百年目。残りは2分だけ。
 「わたしは世界一、うつく・・」といったとき、時計が・・ボン! 「・・しくなる!」と続けた母親の運命は?

 椅子にも消印有効があれば、望みはかなうはずですが?

 この椅子の不思議な力を発見したのは小学四年生の兄。それまで三度も不思議なことが続いたのでした。三度とも、母親が「わたしは、世界一うつくしくなる!」と叫んでも無理だったようですよ。


天国か地獄か?のまき
 天国行きか地獄行きかを決める係の男の前で「天国じゃなく地獄の黒きっぷとかえてくれ!」とごねるひねくればあさん。
 係りの男は、ばあさんに、「あんたのひくピアノが、みんなの心をしあわせにした」と書いてあるから天国行きの白きっぷをわたそうとしていたのでした。

 ばあさんの声をきいて、オイラは、何もかも思い出します。

 オイラは通りがかりに、ばあさんのピアノにききほれていたのでした。ところが一雨きたあとの地面がひえるので、まどじきいにとびのると、運悪く部屋の中に飛び降りてしまいます。
 ばあさんは気短で、窓の下でさわいだのらねこに、みそ汁をかけるわ、楽譜を投げつけるわとあらっぽく、箒で追いかけられる始末。おまけに箒が、白くてでかいベートーベンの置物にあたって落ちてきたからさあ大変。

 ふたりとも、天国か地獄かきめる待合室に並んでいたのでした。

 ところがいろいろ話しているうち、係りの男が、べートーベンと弁当をとり間違えたことに気がつくと、ふたりはもとの部屋の床に いきかえります。

 ピアノが人をしあわせにしていたというオイラの話は、よほど説得力があったのでしょう。

 ばあさんが、自分の弾くピアノが人をよろこばせていたことに、おくればせながら気がつき感慨にふけるあたりがなんともいえません。

 天国か地獄かの入り口で一緒になったふたりに、奇妙な友情が生まれますが、もう一波乱があってもおかしくなさそう。


おかしな うそつきやさん

2018年09月25日 | 創作(日本)

      おおかみのおしょくじ/角野栄子のちいさなどうわたち2/作:角野 栄子 絵:長崎 訓子/ポプラ社/2007年


 「おかしなうそつきやさん」には、「大きくなりたい おおかみ」「おおかみの おしょくじ」「おおかみのおよめさんに なるのは だれ?」「おおかみのかぜを なおすには・・・」の四話があります。

 うそつきやさんへの注文も「せかいではじめてのうそ」「どきっとする すごい うそ」「いいきみの いー っ、っていう うそ」「ほんとの うそ」といろいろ。

 アンデルセン賞受賞後にラジオ番組に出演されて、うそつきやさんの冒頭部「うそつきやのおばあさんは、ポケットを、じゅんばんにあけたり、しめたり、においをかいだりして「ちょうどいいのが ありましたよ」と話しはじめます。」と朗読されましたが、その心地よさにひかれました。

 「おおかみの おしょくじ」は、おおかみに食べられますが、まずは「おおかみって、おばあさんを みると、どうして たべちゃうぞとしか いえないの」とうんざり。
 
 ねむれないというおおかみに「おきのどくさま どうぞ わたしを めしあがれ」と、食事の作法まで伝授です。

 「テーブルクロスをかけて、ナプキンをそえて、たべものは ちゃんと おさらにのせるのよ」
 「おしょくじまえの おいのりを わすれちゃ だめよ」と、いたれりつくせり。

 ところが、おおかみがパカッと口をあけて、おばあさんをくわえると、うんのわるいときは はうんがわるく、おおきな しゃっくり ひっくり。おばあさんはのどをするりと とおりぬけ、あっというまに一直線におなかのなかへ。おおかみもたべたんだか、たべなかったんだか、わからないくらい。

 おばあさんは、おおかみのおなかのなかでクークーおやすみ。

 おわりかたも、「わたしのうそは これでおしまいの まいまい」と軽快です。

 うそを注文した男の子の疑問。
 「おばあさん、どうやって おおかみのおなかから でてきたの?」
 おばあさんのこたえは?

 「赤ずきん」「おおかみと七ひきの子ヤギ」では、おおかみが、おなかを切られてしまいますが、一味ちがいます。

 うそのお値段も、握手が三回と洒落ています。

 「うそはついていない」と強調すればするほど、うそっぽい人もいれば、うそといってもほんとうのように聞こえる人もいます。おばあさんは後者でしょう。ほっこりする話でした。


「あらしのよるに」シリーズ

2017年06月14日 | 創作(日本)

        あらしのよるに/木村裕一・作 あべ弘士・絵/講談社/1994年初版


 初版が1994年ですから大分前に出版されています。こんな楽しい物語もおはなし会にいかなければ知ることはありませんでした。もっともこの本は大分評判だったようで、多くの感想もよせられています。七巻まであるようです。聞いたのは第一巻。

 あらしのよるに、壊れかけた小屋に逃げ込んだ白いヤギと足をくじき鼻かぜをひいたオオカミ。

 真っ暗闇の中で、匂いもわからず、声だけがたよりです。

 オオカミの声を聴いたヤギは、「オオカミみたいなすごみの ある ひくい おこえで」といいかけますが、失礼だと思って口を閉じ、オオカミの方も「ヤギみたいに かんだかい わらいかたでやんすね」といおうとして、相手が気を悪くすると思って、やめにします。

 食い物で、ヤギはおいしい草といい、オオカミはおいしい肉といいますが、その声もカミナリにかきけされます

 どこに住んでいるかの話で、お互いの違う思いが交錯するのも笑わせます。

 ”ぴかっ”と稲妻が光り、お互いの顔が見えたと思うと、ヤギはしたをむき、オオカミは、まぶしくて思わず目をつぶって相手の正体はわからずずまい。

 ”ガラガラガラガラ~”とカミナリガなると、この二匹はしっかりと体をよせあってしまいます。

 気が合うどうしで、いい天気の日に食事をしようとなって、合言葉をきめます。合言葉は「あらしのよるに」でした。
 奇妙な友情に結ばれた二匹、次のはれた日、丘の下でなにがおこるか、わかるはずもないと、結びも意味深です。

 オオカミはヤギの天敵、恐ろしい敵です。あかるいところならギャとなるところですが、あらしの中で友情が生まれるというなんとも楽しい話です。

 舞台設定も巧みな感じがしますし、続きが読みたくなるのも当然です。


 第二巻は「あるはれたひに」、第三巻は「くものきれめ」です。
 第三巻で、はじめてオオカミとヤギの名前があきらかになります。 オオカミはガブ、ヤギはメイです。オオカミががぶりと食べる様子がうかがえ、ヤギの名前は鳴き声をイメージしているのでしょう。



 何よりもヤギの肉が大好物のオオカミとヤギがあらしのよるに互いの正体を知ることなく、合言葉をきめて、今度一緒にお昼ご飯を食べようと約束するまでが「あらしのよるに」でした。

 晴れた日、というのは次の日なのですが、はじめて顔をみた二匹は、びっくり。しかし友情を大切にするオオカミはヤギと一緒に岩山のてっぺんでお弁当を食べようと登っていきます。

 ところが途中、オオカミは弁当を谷底へ落としてしまいます。

 狭い道を登っていく先にはヤギのおしり。うまそうとなまつばを飲むオオカミ。すぐに友だちのことをうまそうだなんてとつぶやくと、下をむいてのぼっていきます。

 岩山のてっぺんでお弁当を食べたヤギは昼寝をはじめます。

 おなかがすいているオオカミの前には、おいしそうなヤギ。
 オオカミがヤギの耳におもわず口をちかずけますが・・・。
 なんどもなんどもヤギを食べようとオオカミですが、そのたびにじっとこらえるさまがなんともいえません。

 ヤギはお腹のすいたオオカミの前で昼寝ですが、どうものんびりしたヤギです。

 オオカミの葛藤を知ることもないヤギは無神経なのか無邪気なのか。

 それでもオオカミは「こ、こんど、いつ あうっす?」。
 まだまだ続きます。


 オオカミのガブとヤギのメイに、メイの友達のタプがくわわります。

 メイがソヨソヨ峠にいく(オオカミのタブと待ち合わせです)というのを聞いたタブは、オオカミの出るところだからとメイを心配して・・。

 何度も鉢合わせになるところをメイが機転をきかすのですが、とうとう三匹が鉢合わせに。

 オオカミが後ろ向きに座り、暑い雲が太陽にさしかかり、オオカミの姿がみえないのですが、タブはオオカミの悪口を言いたい放題。「目が吊り上がっててて、口が下品で、鼻が不細工で」。

 ついに立ち上がるオオカミのガブ。タブをガブリとやろうと大きく口をあけると・・・。

 ハラハラドキドキの連続です。

 メイがタブの体におおいかぶさるのをみたガブがウオオーンと一言。何かメイに裏切られた感情なのか、ヤギ同士の仲の良さへの嫉妬なのか微妙なガブの心境です。

 「わたしたち ひみつの ともだちじゃないですか。」
 「なんか、それって、ドキドキする ことばっすよね、じゃあ、おいらたち、また あえるんでやんすか?」

 今度の別れのシーンも 映画のラストシーンと重なって、ジーンときます。

 「あらしのよるに」は、大分評判でテレビや映画化もされたことが、最近になって知りました。
 知らなかったのは自分だけ?と冷や汗(笑)

 出版年がはなれていますが、全巻まとめて読むことができたのは、かえってよかったのかも。
 ちなみに、図書館からかりてきた第4巻以降の出版年は
    四巻 きりのなかで  (2002年)
    五巻 どしゃぶりのひに(2000年)
    六巻 ふぶきのあした (2003年)
    七巻 まんげつのよるに(2006年)


 「どしゃぶりのひに」は、大型版ではないので、時期がずれています。

 第三巻ではメイの仲間に危機がせまりますが、メイの機転でなんとか危機をのりこえ、四巻では新しくオオカミのバリーと片耳のギロとこわいオオカミがでてきて、メイが食べられそうになる危機が。

 五巻では、秘密だったメイとガブの関係が仲間にばれて、お互いの気持ちとは別にスパイになるよう迫られてます。

 六巻では、秘密がばれたガブとメイがふぶきの山越えをします。 そしてオオカミの集団がせまってきたとき、ガブは雪崩に巻き込まれて。

 七巻では、雪崩にまきこまれ記憶をうしなったガブにメイが食べられそうに・・・。

 ガブとメイが並んで満月を眺める最後ですが、まだまだ二人の前には何かありそうな予感もあります。

 映画では原作にない登場人物?がでてくるようですが、たしかにメイとガブを取り巻く状況がでてきてもおかしくないようです。

 オオカミの群れでのガブの立場がでてきますが、メイの方はほとんどでてこないというのもややもの足りません。それでも久し振りに心から楽しめる物語でした。


花のき村と盗人たち

2017年04月08日 | 創作(日本)

      花のき村と盗人たち/ごんぎつね/新美南吉/岩波少年文庫/2002年初版


 新美南吉の、はじめ笑わせ、最後はほろりとする物語です。

 語られていても不思議ではないのですが、朗読、絵本はあっても、お話会のプログラムは、見当たりませんでした。

 花のき村に五人組の盗人がやってきました。頭はずっと盗みをしてきた本当?の盗人ですが、弟子達はなりたての盗人です。釜師だった釜右エ門、錠前師の海老之丞、越後から来た角兵衛、大工の息子の鉋太郎の四人です。

 頭は、弟子たちを村の下見にいかせます。
 ところが帰ってきた弟子たちは、前の職業意識まるだし。

 釜右エ門は、大釜をみつけ、えらい銭になるといい、お寺につってあった鐘からは茶釜が五十はできると報告。さらにある家の生垣に穴のあいた鍋をみつけ、この鍋二十文で直しましょうともってくる始末。

 錠前師の海老之丞は、どの倉も子どもでもねじきれそうな錠だけで、こっちの商売にゃならないと、盗人であることを忘れます。

 角兵衛は、おじいさんの竹笛の音にひかれ、三つ長い曲をきいたおれいにとんぼがえりを七へんつづけざまにやってみせます。

 鉋太郎は、家の天井につかわれている見事な杉の一枚板にみとれただけ。

 頭がなりたての盗人に説教するのがなんとも楽しいやり取りです。はじめ親方は楽だと思っていたのですが、楽な商売でないことを思い知らされます。

 頭はやがて、盗人ごっこをしていた子どもにあいます。
 ここでも頭のひとりごとが楽しい。
 「遊びごとにしても、盗人ごっこはよくない遊びだ。いまどきの子どもはろくなことをしなくなった。あれじゃ、さきが思いやられる。」
 自分が盗人をしているセリフとは思えません。

 ところが、子どもの一人から声をかけられ、牛をあずかることになります。

 はじめは何の苦労もなく牛を手に入れたと笑いがこみあげてきますが、いつのまにか涙がとまらなくなります。
 頭の心境はこうでした。
 「じぶんは今いままで、人から冷つめたい眼めでばかり見みられてきた。じぶんが通とおると、人々ひとびとはそら変へんなやつが来きたといわんばかりに、窓をしめたり、すだれをおろしたり。
 声をかけると、笑わらいながら話あっていた人たちも、きゅうに仕事のことを思おもい出だしたように向むこうをむいてしまっていました。池の面にうかんでいる鯉でさえも、じぶんが岸に立たつと、がばッと体をひるがえしてしずんでいく。あるとき猿廻さるまわしの背中の猿に柿の実みをくれてやったら、一口もたべずに地べたにすててしまった。みんながじぶんを嫌っていたのです。みんながじぶんを信用してはくれなかったのです。ところが、この草鞋わらじをはいた子どもは、盗人ぬすびとであるじぶんに牛の仔をあずけてくれました。じぶんをいい人間であると思ってくれたのでした。またこの仔牛も、じぶんをちっともいやがらず、おとなしくしています。じぶんが母牛ででもあるかのように、そばにすりよっています。子ども仔牛も、じぶんを信用しているのです。こんなことは、盗人とのじぶんには、はじめてのことでした。人ひとに信用されるのは、何なんといううれしいことか。
 頭は子どものころには美しい心になったことがありましたが、あれから長い間、わるい汚きたない心でずっといたのです。久しぶりでかしらは美しい心こころになりました。これはちょうど、垢まみれの汚ない着物を、きゅうに晴着にきせかえられたように奇妙な具合でした。」

 いつまでたっても男の子は牛を取りにきません。頭は弟子達と探しに行きますがどうしても見つかりません。
 そこで村役人に届けます。村役人は眼鏡をかけたいかにもたよりない老人。盗人がものをかえすわけがないと盗人を信用し、酒をご馳走してくれます。ゆかいに笑ったり話したりしているうち、いつのまにか頭の目からは涙がこぼれます。

 頭は、いままでしてきたことを白状し「これらはわしの弟子になったばかりで、まだ悪いことはしておりません。お慈悲で、どうぞこれらだけは許してやってください」と弟子をかばいます。

 牛をあずけて消えてしまった男の子の正体はなんだったのでしょう。

 「ごんぎつね」といい「てぶくろを買いに」といい、とても余韻が残る話です。


サルのひとりごと

2017年01月10日 | 創作(日本)

      サルのひとりごと/世界のむかし話⑫ 百曲がりのカッパ/松谷みよ子・作 梶山俊夫・画/学校図書/1984年初版

 続けて二回聞く機会がありました。
 その方の個性?にピッタリ。話が人を選んでいるのかもしれません。
 絵本で読まれている方も多いようです。

 「海はええなあ
  風はぶうぶう吹くなり
  波はどんどと打つなり」
 このフレーズが五回。

 サルが松の枝の上から海をみながらひとりごと。

 ひとりでいうて、ひとりで感心しよりましたげていると、どこからか「うん」という返事。
 気のせいとおもっていると、また「うん」

 海っぱたをさがしていると小さなカニが。

 「おらがいい気持ちでいうとるに勝手に返事したりして」とサルは、カニをたたきつぶしてしもうた。

 それからまた「海はええなあ 風はぶうぶう吹くなり 波はどんどと打つなり」といっても、こんどはしんしん。
 「どうもつまらんな」と、サルが、つぶれたカニをだんごにして、石の間にすわらせて、もういちどひとりごとをいうと、下で「うん」という返事。
 晩方になって「またくるけん、返事してごぜえよ」とサルはいいながら山へ帰ります。

 サルは山でなにかあって一人きりになりたくて海をみながらひとりごとをいっていたのでしょう。
 ひとりごとは、どんなときにでるのでしょう。聞かれてびっくりしたのかも。
 「またくるけん、返事してごぜえよ」というあたりにサルの反省が込められています。

 たたきつぶしたカニが、サルの気持ちをくみとって、だんごになって生き返るのもほっとします。

 島根の昔話というのですが、あまりみられないパターンです。


こわれた1000の楽器

2017年01月05日 | 創作(日本)
 野呂昶さんの作品で、小学校4年生の国語教科書にのっています。

 まちの片隅にあった楽器倉庫。
 月が倉庫をのぞきこんで、「おやおやここはこわれた楽器の倉庫だな」というと、眠っていた楽器がめをさまし、チェロは「働き疲れってちょと休んでいる」といいます。

 本当はたしかにこわれていたのですが、そこにあった楽器たちが、こわれた10の楽器で一つの楽器になろう、10がだめなら15で、15がだめなら20でとそれぞれがあつまって練習をはじめます。

 毎日毎日演奏に夢中になった楽器たち。
 1000の楽器とありますから、もしかしたら1000の楽器が、おたがいにおぎあいながら演奏したのかもしれません。1000もあったら壮大です。

 お月さまはうっとりききほれます。

 多分ほこりをかぶって倉庫にあったであろう楽器ですが、見捨てないでともいっているようです。

 こわれた楽器ですからどうにもならないのですが、それでもなにかやってみようとする挑戦が大事で、奇跡は努力でおきることなのかも。

 絵本になっているのですが、この時点では品切れになっているようです。

大造じいさんとガン

2017年01月03日 | 創作(日本)
 椋鳩十が1941年に発表した作品で、小学校国語教科書に長くのっているので、どこか記憶にのこっている方も多いのではないでしょうか。
 残念ながら自分には記憶にはありません。

 ガンの群れを統率している残雪とよばれるガンと猟師の大造じいさんとの友情めいたストーリーです。

 残雪が群れを率いるようになってから、一羽のガンも仕留められなかった大造じいさんは、手をつくしてガン猟にいどみます。
 つり針をしかけて、一羽のガンをつかまえることに成功しますが、その後はうまくいきません。

 二年後、つかまえたガンをおとりにつかって、残雪の仲間をとらえてやろうと考えます。
 いつものように、残雪を先頭にやってきたガンの群れ。
 大造じいさんが、銃をかまえてみがまえた瞬間、ガンは飛び去ります。ハヤブサが一直線におちてきたのです。
 逃げ遅れたのは、二年のあいだ飼いなされていたおとりのガン。

 おとりのガンがハヤブサに攻撃されそうになったとき、あらわれたのは残雪でした。このときだったら残雪を仕留めることができたかもしれません。
 しかし、仲間を救おうとハヤブサに対峙する残雪を打つことをためらいます。

 残雪とハヤブサの激しいたたかい。人間の姿をみるとハヤブサは飛び去っていきます。

 大造じいさんは、傷ついた残雪を手当てし、翌年の春には、放してやります。

 仲間を救おうとした残雪に敬意を覚え、「おうい、ガンの英雄よ。おまえみたいなえらぶつを、おれは、ひきょうなやり方でやっつけたかあないぞ。なあおい。ことしの冬も、仲間を連れてぬま地にやってこいよ。そうして、おれたちは、また堂々と戦おうじゃあないか。」とよびかけた大造じいさんでした。


 小学校の授業では、大造じいさんと残雪のこれからの戦いの展開について、議論させているようですが、多分その必要はないと思いました。

 猟師にとっては、猟はかくことのできない営みですが、やみくもに何でもいいというわけでもないし、一定のルールはあったはずです。

 なお、いまはガン猟は禁止されているということです。

わらぐつのなかの神さま

2016年06月07日 | 創作(日本)

 

加代の四季  

    加代の四季/作・杉みき子 絵・村山陽/岩崎書店/1995年


 明日、学校でスキーがあるのに、使ったばかりの靴がびしょびしょで、お母さんが新聞紙をまるめていれておいてくれましたが、どうもスキー靴は明日まで乾きそうもありません。
 どうしようと困惑するマサエに、おばあちゃんが「かわかなかったら、わらぐつはいていきなさい」と口をだします。
 「わらぐつなんてみっともない。だれもはいている人いないよ。だいいち大きすぎて金具がはまらんわ」というマサエに「そういったもんでもないさ。わらぐつはいいもんだ。あったかいし、かるいし、すべらんし。それのわらぐつのなかには神さまがいなさるんでね」というおばあさん。
 「めいしんでしょう」というマサエに、おばあさんは、わらぐつに神さまがいるという話をしてくれます。

 昔、この近くの村に気だてがやさしく、いつもほがらかにくるくるはたらいて村じゅうの人たちからすかれていたおみつさんというむすめがすんでいました。
 おみつさんが、ある秋の朝、朝市へ野菜を売りに行く途中、四つ角のげた屋さんに、かわいらしい雪げたを見つけます。はなやかな冬のよそおいが目の前にうかんでくるような雪げたでしたが、こづかいで買えるほどの値段ではありません。
 いつもよけいなものなどほしいと思ったことのないおみつさんなのに、この雪げただけはどうしてもあきらめられないのです。
 家に帰っておもいきって両親に頼みますが、小さい弟、妹も欲しいと言い出し、自分のねだりごとどころではありません。
 そこで、自分で働いてお金を作り、あの雪げたを買おうと、おとうさんがつくっていたわらぐつを自分でも作ろうと思い、毎晩家の仕事をすませてからわらぐつづくりをはじめます

おみつさんは、心をこめてわらぐつをつくります。しかし、できあがったわらぐつは、われながら、いかにもへんなかっこうです。右と左のおおきさがちがうし、首をかしげたみたいに足首のところでまがっています。

 家族からは「そんなおかしなわらぐつが、売れるかいなあ」と笑れ、朝市の日に野菜のはしっこに、わらぐつをおくと、「へえ、それ、わらぐつかね。おらまた、わらまんじゅうかと思った。」とさんざんでした。
 「やっぱり、わたしが作ったんじゃだめなのかなあ。」とがっかりしたおみつさんが、お昼近くになって野菜もほとんど売れてしまって帰ろうとしたとき、ひとりの若い人が、「そのわらぐつを見せてくれ」と言います。いせいのいいねじりはちまきに大きな道具箱をかついでいてどうやら大工さんのようでした。
 おずおずとわらぐつをさしだしたおみつさんでしたが、大工さんは「このわらぐつ、おまえさんがつくったのかね」とたずねてから、わらぐつを買ってくれます。

 そのつぎの市の前までに、またひとつわらぐつをあみあげていくと、またその大工さんがやってきて買ってくれます。そんなことが何度も続くので、おみつさんは不思議に思って大工さんにたずねます。
「おらの つくったたわらぐつ、もしかしたら、すぐいたんだりして、それで、しょっちゅう買ってくんなるんじゃないんですか。」
 すると、大工さんは、にっこりして「いやあ、とんでもねえ。おまんのわらぐつは、とてもじょうぶだよ」「ああ、そりゃ、じょうぶでいいわらぐつだから、仕事場の仲間や、近所の人たちの分も買ってやったんだよ 」。
 「いい仕事ってのは、見かけで決まるもんじゃない。使う人の身になって、使いやすく、じょうぶで長持ちするように作るのが、ほんとのいい仕事ってもんだ。」
 それから大工さんは、いきなりしゃがみこんで、おみつさんの顔を見つめながら、
「なあ、おれのうちへきてくんないか。そしていつまでもうちにいて、おれにわらぐつを作ってくんないかな。」
おみつさんは、ぽかんとして、大工さんの顔を見て、しばらくして、それが、おみつさんにおよめに来てくれということなんだと気がつくと、おみつさんの白いほおが夕焼けのように赤くなります。
「使う人の身になって、心をこめてつくったものには、神さまが入っているのと同じこんだ。それを作った人も、神さまとおんなじだ。おまんが来てくれたら、神さまみたいに大事にするつもりだよ。」

 それからマサエは、そのおみつさんというのが、実は、おばあちゃんのことだということに気づきます。

 あの、雪げたは、おしいれの箱に大事にしまってありました。
 おみつさんが、およめにきたとき、すぐ、おじいちゃんが買ってくれたのでした。

 三世代の家族、こたつのなかで昔話風におじいさんとのなれそめをさらりと話すおばあさん。絆が感じられる家族です。
 市の日には野菜を売っていたおみつさん。わらぐつも編んで自給自足です。
 確かにわらぐつはあたたかいし、雪を踏みしめる音もなんともいえません。雪国ならではの光景です。

 いま、こんな素敵なプロポーズをしてくれる人がいるでしょうか。


電信柱に花が咲く

2016年06月02日 | 創作(日本)

    電信柱に花が咲く/ものがたり12ケ月 夏ものがたり/野上暁・編/偕成社/2008年


 電信柱が木でできていた頃。今はクレーン車での電線工事ですが、少し前までは、柱を登って作業する光景が見られました。

 一人のおてんばな女の子が、いじわるな同級生の男の子から手提げ袋をひったくりされ、角の電信柱にひっかけられてしまいます。

 男の子とビー玉や縄跳びをしてもめったに負けず、学校でも家の近所でもかけっこはいつも一番だった女の子は、電信柱に登って、手提げ袋を手にしますが、降りるとき、もう少しのところで足を踏み外してしまいます。

 次の日は学校を休みますが、玄関で音がするので外にでてみると、角の電柱に小菊やユキヤナギやエニシダなどを束ねた小さな花束が、電柱の木のひび割れたところにさしこんでありました。
 それからも時々、電柱に小さな花束がさしこんでありました。

 花束はいじめっ子がさしこんであったのですが、小学校を卒業するといつしか、花のプレゼントもとだえます。

 二人とも社会人になったある日、角の電柱に花が咲きます。むかしのいじめっ子だったのです。

 小学生の頃、好きだった女の子にどう接していいのかわからず、ちょっかいをだしたり、いじめたりというのは、だれしも一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
 そんな甘い思いでがよみがえります。

 この物語は、電信柱の建て替えのお知らせをみた母親が、女の子に思い出を語るかたちで進行します。

 玄関の戸があいて、「ただいま」と声がしたとき、お母さんがくすっと笑っていいます。

 「ほらいじめっ子のお帰りだわ」

 話を聞いた女の子が、電信柱がなくなる前の日に、紅白のつつじの花輪をぶらさげたのは、両親の思い出がある電信柱のお祭りでした。

 電信柱から、こんな物語を紡いでくれる素敵なプレゼントです。

 おてんばな女の子がちゃんとおよめにいければ、電信柱に花が咲くくらい不思議というのですが・・・。


コスモスさんからお電話です

2016年05月30日 | 創作(日本)

        加代の四季/杉みき子・作 村山陽・絵/岩崎書店/1995年


 ある日、お昼過ぎから降り出した雨が,夕方になって止み、ルミがおやつを食べていたら、電話がルルンと鳴ります。
 「もし、もし。こちら,コスモス通信局。昨日のお礼です。東の空を見てください。」
 電話は,それっきりで切れます。わけがわからないけど、とにかく外へ出てみたら大きな虹です。
 それから三日目の夕方。また、電話が鳴ります。
 「もし、もし。こちら,コスモス通信局。今日は,西の空を見てください。」
 空をみるとそこは素敵な夕焼けでした。

 前の日、ルミは今にも首を曲げているコスモスをみつけ、近くでスケッチをしていた絵描きさんと竹の棒に、お菓子屋さんからもらった風船の紐でコスモスを結んであげたのです。

 コスモスさんからのお礼の電話だったのです。

 それからひと月。コスモスの花が枯れて寂しくなったころ、ほんとに久しぶりで,電話が鳴ります。
 「こちら,コスモス通信局。明日,デパートの五階へ,絵の展覧会を見に来てください。」
 翌日、ルミがお母さんと一緒に,デパートの五階にヘ行ってみると、展覧会の大きな立て札が出ています。
 中に入って、正面に掛かっている大きな絵の中には,ルミがいました。

 いつかルミと苦しそうなコスモスを竹の棒に結んであげた絵描きさんの展覧会でした。


 小学校2年生の国語教科書に載っているというのですが・・・。
 コスモスをかわいそうに思ったルミと絵描きさんの素敵な交流です。

 やさしさが思わぬ返礼となってかえってくるというほのぼのとする物語です。


祈りの橋

2016年05月16日 | 創作(日本)

        小さな町の風景/作・杉みき子 絵・佐藤忠良/偕成社文庫/2011年


 学校でバレー部に入り、早朝のジョッキングを続けていた少女が、折り返し地点の橋で、いつか出会うようになった白髪の老女。

 ほぼひと月に一回の割合で会う老女が、白い紙きれを川へはなそうとして、風に吹き上げられた紙を拾い上げるのにも苦労しているのをみます。
 紙を川に投げるのに苦労しているさまを見て、少女は紙飛行機の要領で飛ばしてあげます。
 老女は、その紙に向かってじっと両手を合わせていました。

 老女の一人息子が兵隊にとられ、遠い南の海で遺体もあがらぬ死をとげてから、家を出た日を命日ときめて、心をこめた経文を写し、海に流すことがひとつのなぐさめとなった老女。

 体はよわり、やっとのことで書き写した経文を投げる力もなくなったと話す老女に、よかったら私がおばあさんのかわりに、ここから紙を投げてあげましょうかと少女はいいます。

 一か月後、少女は小さな折り鶴を水に飛ばします。白い折り鶴は<平和>と大きく書かれたつばさを、いっぱいひろげて、矢のように川をくだり、やがて海にむかって見えなくなります。


 老女や少女のくわしいことはなにもでてきません。
 語っていない部分から想像力を働かせ、思いを巡らせる必要がありそうです。