「細川紙」(小川町・東秩父村)が、石州半紙(島根県)及び本美濃紙(岐阜県)と併せて、ユネスコ無形文化遺産に登録されたのは、ついこの間。
・紙すく里(日本の民話10 残酷の悲劇/瀬川拓男・松谷みよ子・編著/角川書店/1973年初版)
土佐和紙の祖と仰がれる「新之丞」の伝説です。
伝説とあって、この地の歴史が刻まれています。
新之丞は伊予国生まれ。
土佐が長宗我部から山内一豊がおさめるようになったころ。
新之丞が落人として行き倒れになっていたのを救ったのが、養甫尼という尼。
養甫尼の夫は、兄である長宗我部元親に攻め滅ぼされ、亡き人の菩提をとむらうべき剃髪して尼となっていました。
この養甫尼のところにたよってきたのが、甥の三郎佐。
新之丞は山に自生する楮に目をつけ、紙すきの技術を二人に伝えます。
やがて、養甫尼は黄色、浅黄色、桃色、柿色、もえぎ色、青色(朱膳寺紙)の七色の紙をつくることに成功します。
この地をおさめるようになった一豊は土地の特産として七色紙の生産に力をそそぎます。
ところが新之丞が伊予にかえりたいという意向をしめしたことから事態は一変。
せっかく作った七色紙の秘法が他の国に広まり秘法でなくなってしまうのではないかとおそれた藩の重役は新之丞を斬れと命じます。
この役は、三郎佐でした。
高知県吾川郡いの町、成山・仏ヶ峠の「成山和紙の里公園」には、「新之丞」の碑があるという。また、土佐和紙は、平安時代に書かれた「延喜式」に献上品として名前が出ているといいます。
●「紙すき毛すき」という島根の和紙にかかわる伝説。
上納の半紙を納めていた仁右衛門が、何度納めても粗悪品とされ、何度も却下されしまう。
自分のつくったものではないと役人に申し立てるが、証拠を出せといわれてしまい、引き下がることになります。
納得のいかない仁右衛門は、紙に白髪を目印にすきます。
御上納の紙にけがらわしい髪をすきこむとは不届きだと、打ち首、さらし首になった仁右衛門。
そのご役人は熱病に取りつかれて死んでしまいます。
さらに役人と組んだ大庄屋の屋敷はなぞの出火で丸焼けになり、ひとり逃げ遅れて死んでしまいます。
「和紙」で検索してみると、駿河半紙や静岡の朝比奈紙、越前和紙、丹後和紙などが目につきました。
特別な産業がなかったころ、藩の重要な産業として栄えたであろう和紙の生産。
細川紙だけでなく全国各地にはまだまだ和紙にかかわる伝説や話があってもおかしくなさそうです。
今は少なくなったった和紙ですが、和紙独特の趣は、捨てがたいもの。
時代にあった和紙の需要は少なくないと思うのですが・・・。