今日は冬祭り2回戦目の週末で、湯沢犬っこまつり、男鹿なまはげ柴灯まつり、大館アメッコ市とほぼ全県で知名度の高い冬祭りが開催となりました。そろそろ冬祭りもとも思いましたが、家が揺れそうなほどの強風が一日吹き続け、外出自粛となりました。
この時期雪が降るのは当たり前で、今朝も10cmほど積雪がありましたので、消雪パイプを稼働しましたが、午後には稼働停止となりました。生活するには雪は迷惑な存在ですが、今日の冬祭りでは雪像の表面がきれいになり、「映える」状態になったかと思います。
さて、歴史のお勉強は724年の多賀城造営となりました。教科書などでは蝦夷の征討でいきなり造られた感じの登場になるのでしょうが、ここができる背景はいろいろと考えられているようです。飛鳥時代当初の東北は、ヤマト王権の勢力範囲は仙台平野南の現・角田市辺りまでだったようです。
これを拡大するために大化改新(648年)頃、現・仙台市太白区に最前線の柵を設置(現在の郡山遺跡かと)したようです。同じ時期に日本海側では渟足柵(新潟・647年)が出来たとされています。そこで仙台平野を支配領域にして、もう一段先の大崎平野やその先の胆沢の蝦夷討伐を目指してできた柵が多賀城となります。
詳しく調べてみると、大崎平野の蝦夷の一斉蜂起が720年にあり、当時の陸奥按察使(長官)が殺されるということがありました。これに対応するために作られたのが多賀城とのことでした。
支配地域を推定するため、郡の設置状況を調べてみると、記録に残るのは713年に大崎平野の北部、後の玉造郡辺りに広大な丹取郡を設置、玉造郡や黒川郡など黒川以北10郡は737年に初見とされ、何時というのは不明です。
713年にいきなり離れた場所(大崎北部)に丹取郡が単独でできるとは考えにくく、それよりも前に手前に郡があったと考えるのが自然かと。707年に信(志)太郡があったという記載もあるようですし、そこには宮城郡(仙台中心部)や黒川郡、小田郡などが700年頃にできて、その先に丹取郡ということなのでしょう。
こうした建郡が進んだことで、710年には蝦夷に位を与え戸籍への収載を開始し、715年には1000戸の移住が行われたとあり、そうした地域への移住だったのでしょう。しかしこれらのことで、元々いた蝦夷との摩擦が多くなり、720年の大崎平野の蝦夷の一斉蜂起につながったようです。
これらのことは史料的にはほとんど残っておらず、それらを元に論理を組み立てる歴史研究家の先生方の文書には出てきません。
時々