今朝は久々の除雪車登場となりました。朝から消雪パイプを稼働させましたが、昼には雪も消えましたので停止。
さて、昨日の多賀城についての続きです。多賀城の周辺、大崎平野にはこの時期、多くの柵が造られました。特に玉造柵、色麻柵、牡鹿柵など「天平の五柵」と呼ばれる柵が737年より前に造営とあります。明確に築造年がわからないため史料初見の年が737年なので、そう書かれています。天平年間は729-749年。
でもこの五柵もどうも、出来たのはそれよりだいぶ前のことのようで、720年の大崎平野の蝦夷叛乱の前後までさかのぼりそうな感じです。そこまで下がると天平年間ではなくなってしまいます。また多賀城が出来て、のちにその先に五柵を造ったと考えられていましたが、同時か多賀城より少し前と考えた方が郡を建てた時期と合わせると自然なような気がします。
史料を読んでいたら、「陸奥鎮所」なるものが722年の史料に出てきました。一説には多賀城の前任施設と書かれたものもありました。ではどこに?となりますが、どうもいろいろ読んで居たら、柵や郡衙(郡役所)などのことを全体的に指した言葉ということが妥当な見方との専門家の意見のようでした。
ということは、多賀城築造前にある程度の施設が周辺郡部あったということになるのでしょうか。その辺も史料にはほとんど残っていませんので、専門家の先生の文章には書かれることはありません。でも昨日書いたように715年には移住を受け入れるだけの状態になっていたので、そこそこの郡衙が置かれていても不思議はなさそうです。
余談ですが、多賀城には多賀城碑というのが江戸時代に発見されており、松尾芭蕉も奥の細道で訪ねており、当初はインチキとも考えられていましたが、後の研究で本物であるだろうことがわかってきました。この碑は762年に大規模改修をした際、陸奥鎮守将軍(責任者)だった藤原朝狩が「俺がやったんだぞ!」と自慢するために作ったような石碑ですが、ここに多賀城造営が724年書かれているため、それはほぼ確かなことなのでしょう。(写真はレプリカ)
ちなみにこの多賀城史跡は平城京跡(奈良)、大宰府跡(福岡)とともに日本三大史跡と呼ばれているそうな。
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