[安心の設計]保険料負担 神戸市が制度…認知症で賠償 自治体支援
地域 2020年1月21日 (火)配信読売新聞
被害者への見舞金も
認知症の人が外出先などで他人にけがをさせたり、物を壊したりして家族らが損害賠償を求められる事態に備え、民間保険を活用する自治体の支援事業が広がっている。神戸市は、被害者に見舞金を支払う仕組みを加えた独自の事故救済制度を導入し、認知症診断の無料化にも取り組む。「神戸モデル」と呼ばれる支援策を取材した。 (野口博文)
「いつか事故を起こすのではないかとヒヤヒヤしている」。神戸市在住の松井正二さん(71)が心配するのは、認知症の妻の通子さん(70)のことだ。
自宅や商業施設のトイレなどから徘徊して行方不明になり、高速道路のゲート前で保護されたり、車道を歩いているところを松井さんが見つけたりしたこともある。
交差点や踏切で、松井さんは、通子さんが飛び出さないようにしっかり手をつなぐ。自宅でも、ヤカンや鍋の空だきによる失火が心配だ。
通子さんは、市が2019年4月に導入した事故救済制度に加入している。認知症と診断された市民を対象とし、市が保険料を負担して民間の個人賠償責任保険に加入。人身や物損の事故を起こし、本人や家族が賠償責任を負う場合に、最大2億円の補償が受けられる。
被害者が市民の場合は、保険による補償に先立ち、市が最大3000万円の見舞金を支払う。加害者側に賠償責任がない場合でも、被害を救済できる制度だ。
認知症列車事故訴訟をきっかけに導入された。本人や家族の不安を軽減するのが狙いだ。松井さんは「万が一、他人に迷惑をかけた場合、被害が補償されるのはありがたい」と話す。
救済制度は事故だけでなく、様々なトラブルにも対応する。
19年5月、神戸市のフランス料理店。市内に住む認知症の男性(84)が、妻(82)や長女(56)らとディナーを囲んでいた。退店後、男性が座っていたソファが、そそうで汚れていることに店員が気づいた。後日、店側からクリーニング代の相談の電話を受けた長女は、病院の勧めで父親が市の事故救済制度に加入していることを思い出した。
長女がコールセンターに電話すると、保険会社が対応し、クリーニング代や営業損失として約14万円が保険から店側に支払われた。両親は、この店の味も雰囲気も気に入っているといい、長女は「店は両親にとって憩いの場。第三者が解決してくれたおかげで、わだかまりがなく、今も気持ちよく行ける」と喜ぶ。
市によると、認知症の人が他人の自転車を持ち帰って損傷し、市が約1万6000円の見舞金を所有者に支給したケースもある。
無料診断で 早期受診促す
市は19年1月に、65歳以上の市民を対象に無料で認知症を診断する助成制度を創設した。早期受診を促すとともに、診断された人の保険加入にもつなげる狙いがある。
希望者はまず、普段通院しているクリニックなどで簡単な問診による検診を受ける。疑いがあれば専門病院で精密検査を受診し、認知症かどうかなどの診断を受けられる。
9月末までに約8700人が検診を受け、精密検査の結果、約1100人が認知症と診断された。ほかで診断された人も含め、保険の加入者は約3400人(昨年10月末時点)に上る。
制度作りに携わった「くじめ内科」の久次米健市医師(71)は「地域のかかりつけ医が検診の窓口なので、受診や相談がしやすい。認知症の疑いがあれば紹介状も書くので、精密検査につなげられる」と言う。
「神戸モデル」の運営には年約3億円かかるが、市は個人市民税(均等割)を1人年400円上乗せして賄う。
市の認知症対策監を務める神戸学院大の前田潔特命教授は、「早期に診断された人や家族をしっかりサポートし、進行を遅らせるような支援策を充実させることが今後の課題だ」と話す。
◆認知症列車事故訴訟=認知症の男性(当時91歳)が徘徊して列車にはねられた事故を巡り、JR東海が運行遅延に伴う計約720万円の損害賠償を家族に求めた訴訟。16年3月の最高裁判決は「家族が監督義務者かどうかの判断では、同居の有無などを総合的に考慮すべきだ」とした上で、家族は監督義務者にあたらないとの判断を示した。1、2審の賠償命令を破棄し、家族側が逆転勝訴した。
各地に広がる
認知症の人の事故を補償する民間保険の活用事業は、神奈川県大和市が17年11月に導入した。その後、愛知県大府市や東京都葛飾区、富山市などでも開始されるなど、各地に広がっている。
国も被害救済の制度化を検討したが、「救済の範囲や財源などの幅広い議論が必要だ」として、実現していない。19年6月に策定した認知症施策推進大綱でも、「自治体の事例の政策効果の分析を行う」としている段階だ。
一方、京都市に本部を置く「認知症の人と家族の会」(鈴木森夫代表理事)の18年の調査では、行方不明などを経験した介護者ら459人のうち68%が「全自治体が加入すべきだ」と回答し、24%が「介護保険制度に含めるべきだ」とした。
鈴木さんは「鉄道の安全対策や地域の人の見守りなどで、認知症の人が事故に遭うのを防ぐことが重要だ。それでも防ぎ切れない損害を、社会全体で分かち合って補償する仕組みを国に創設してほしい」と語る。
地域 2020年1月21日 (火)配信読売新聞
被害者への見舞金も
認知症の人が外出先などで他人にけがをさせたり、物を壊したりして家族らが損害賠償を求められる事態に備え、民間保険を活用する自治体の支援事業が広がっている。神戸市は、被害者に見舞金を支払う仕組みを加えた独自の事故救済制度を導入し、認知症診断の無料化にも取り組む。「神戸モデル」と呼ばれる支援策を取材した。 (野口博文)
「いつか事故を起こすのではないかとヒヤヒヤしている」。神戸市在住の松井正二さん(71)が心配するのは、認知症の妻の通子さん(70)のことだ。
自宅や商業施設のトイレなどから徘徊して行方不明になり、高速道路のゲート前で保護されたり、車道を歩いているところを松井さんが見つけたりしたこともある。
交差点や踏切で、松井さんは、通子さんが飛び出さないようにしっかり手をつなぐ。自宅でも、ヤカンや鍋の空だきによる失火が心配だ。
通子さんは、市が2019年4月に導入した事故救済制度に加入している。認知症と診断された市民を対象とし、市が保険料を負担して民間の個人賠償責任保険に加入。人身や物損の事故を起こし、本人や家族が賠償責任を負う場合に、最大2億円の補償が受けられる。
被害者が市民の場合は、保険による補償に先立ち、市が最大3000万円の見舞金を支払う。加害者側に賠償責任がない場合でも、被害を救済できる制度だ。
認知症列車事故訴訟をきっかけに導入された。本人や家族の不安を軽減するのが狙いだ。松井さんは「万が一、他人に迷惑をかけた場合、被害が補償されるのはありがたい」と話す。
救済制度は事故だけでなく、様々なトラブルにも対応する。
19年5月、神戸市のフランス料理店。市内に住む認知症の男性(84)が、妻(82)や長女(56)らとディナーを囲んでいた。退店後、男性が座っていたソファが、そそうで汚れていることに店員が気づいた。後日、店側からクリーニング代の相談の電話を受けた長女は、病院の勧めで父親が市の事故救済制度に加入していることを思い出した。
長女がコールセンターに電話すると、保険会社が対応し、クリーニング代や営業損失として約14万円が保険から店側に支払われた。両親は、この店の味も雰囲気も気に入っているといい、長女は「店は両親にとって憩いの場。第三者が解決してくれたおかげで、わだかまりがなく、今も気持ちよく行ける」と喜ぶ。
市によると、認知症の人が他人の自転車を持ち帰って損傷し、市が約1万6000円の見舞金を所有者に支給したケースもある。
無料診断で 早期受診促す
市は19年1月に、65歳以上の市民を対象に無料で認知症を診断する助成制度を創設した。早期受診を促すとともに、診断された人の保険加入にもつなげる狙いがある。
希望者はまず、普段通院しているクリニックなどで簡単な問診による検診を受ける。疑いがあれば専門病院で精密検査を受診し、認知症かどうかなどの診断を受けられる。
9月末までに約8700人が検診を受け、精密検査の結果、約1100人が認知症と診断された。ほかで診断された人も含め、保険の加入者は約3400人(昨年10月末時点)に上る。
制度作りに携わった「くじめ内科」の久次米健市医師(71)は「地域のかかりつけ医が検診の窓口なので、受診や相談がしやすい。認知症の疑いがあれば紹介状も書くので、精密検査につなげられる」と言う。
「神戸モデル」の運営には年約3億円かかるが、市は個人市民税(均等割)を1人年400円上乗せして賄う。
市の認知症対策監を務める神戸学院大の前田潔特命教授は、「早期に診断された人や家族をしっかりサポートし、進行を遅らせるような支援策を充実させることが今後の課題だ」と話す。
◆認知症列車事故訴訟=認知症の男性(当時91歳)が徘徊して列車にはねられた事故を巡り、JR東海が運行遅延に伴う計約720万円の損害賠償を家族に求めた訴訟。16年3月の最高裁判決は「家族が監督義務者かどうかの判断では、同居の有無などを総合的に考慮すべきだ」とした上で、家族は監督義務者にあたらないとの判断を示した。1、2審の賠償命令を破棄し、家族側が逆転勝訴した。
各地に広がる
認知症の人の事故を補償する民間保険の活用事業は、神奈川県大和市が17年11月に導入した。その後、愛知県大府市や東京都葛飾区、富山市などでも開始されるなど、各地に広がっている。
国も被害救済の制度化を検討したが、「救済の範囲や財源などの幅広い議論が必要だ」として、実現していない。19年6月に策定した認知症施策推進大綱でも、「自治体の事例の政策効果の分析を行う」としている段階だ。
一方、京都市に本部を置く「認知症の人と家族の会」(鈴木森夫代表理事)の18年の調査では、行方不明などを経験した介護者ら459人のうち68%が「全自治体が加入すべきだ」と回答し、24%が「介護保険制度に含めるべきだ」とした。
鈴木さんは「鉄道の安全対策や地域の人の見守りなどで、認知症の人が事故に遭うのを防ぐことが重要だ。それでも防ぎ切れない損害を、社会全体で分かち合って補償する仕組みを国に創設してほしい」と語る。