企画展:ヒロシマ医学史たどる 広島大 旧兵器庫の資料館で企画展 /広島
兵器を貯蔵していた軍都の拠点施設が、どんな経緯で命を救う医療の現場になったのか。原爆の惨禍に遭う以前から受け継がれてきた医学の知見と経験とは――。広島大医学部医学資料館(南区)で開かれている企画展は、広島とヒロシマの医学史を貴重な資料からたどる。【宇城昇】
霞キャンパスの赤レンガ2階建てが医学資料館だ。かつて兵器や弾薬の保管、修繕を担った陸軍兵器補給廠(しょう)の建物外観を復元した。
爆心地の東約2・8キロ。建ち並んでいた兵器庫は倒壊を免れ、臨時救護所になった。戦後早い時期には県庁や国の出先機関が入居。1956年に県庁が現在地に移転した後、広島大のキャンパスになった。老朽化した建物群は順次解体され、最後に残った11号館の建材を利用して外観を復元し、99年に現在の医学資料館になった。
企画展は4章構成で、最初の章は現場の変遷を紹介。被爆直後の米軍による航空撮影、直近の比治山から50年代に撮った敷地の全景、60年代のカラー写真などを展示する。
他3章は、医学部の歩み、江戸時代にさかのぼる広島の医学史、被爆後の医療や研究活動について、文献や書物、医療器具などから解説する。
医学資料館としては国立大学で最も早い78年開設。江戸時代の等身大骨格模型「身幹儀」(国重文)、杉田玄白らが翻訳した「解体新書」の初版本など希少品を多く所蔵する。企画展では初出の資料も並べた。仁保地区(南区)で代々医院を営んできた大橋家から寄贈された約2300冊もの資料の一部だ。明治時代の患者名簿「日々患者人名帳」、大正時代の薬種商との売買記録、昭和初期の医師会名簿。近代広島の地域医療の一端と社会情勢がうかがえる。
戦後の資料では、竹原市・大久野島で毒ガス製造に従事した人々の健康調査に広島大第2内科が携わった記録や、学生運動が盛んだった当時の医学部の写真などが並ぶ。
広島の医学史は原爆被害と被爆医療から切り離せない。医学部の前身である県立医学専門学校の開校式は、45年8月5日。その出発から原爆による苦難を強いられた。一方で藩政の頃から先人は大切に文献などを受け継いできた。企画展を担当した広島大原爆放射線医科学研究所の久保田明子・助教は「広島の郷土史の中で、医学や医療の歩みを捉えてみてほしい」と語る。
入場無料だが事前予約制(082・257・5877)。5月13日まで。土日祝日休館。