安倍晋三を総理に押し上げた謎のサロン「四季の会」の正体…元メンバーが初めて告白
2022年末に刊行された『国商 最後のフィクサー葛西敬之』(森功著)の話題が止まらない。一般にはあまり知られていない葛西敬之という一民間経営者が、安倍政権を裏で牛耳っていた事実が明らかになったからだ。同書では、安倍を総理に押し上げたメンバー非公開の財界サロン「四季の会」の存在が明かされ、元メンバーの赤裸々なインタビューが掲載されている。その内容は衝撃的だった。
『国商 最後のフィクサー葛西敬之』連載第10回前編
メンバー非公開の財界サロン「四季の会」
葛西敬之は保守、右翼思想で安倍晋三と通じる。葛西の政治とのかかわりを語る上で欠かせないのが、安倍の財界応援団として知られる親睦会「四季の会」だ。
四季の会は2000年代に入り、安倍を首相に担ぎあげた。その第一次政権が腰砕けになって一敗地にまみれた悔恨もまた、安倍の思いと重なる。葛西は「美しい日本の再建」を標榜する政策提言団体「日本会議」の中核であり、靖国神社の崇敬者総代でもある。
もとはといえば、政界に対する葛西の悲願は東大時代の同級生である与謝野馨を総理大臣にすることだったとされる。「四季の会」はそのための集まりだった。言うまでもなく、与謝野は歌人与謝野鉄幹、晶子夫妻の孫にあたる。鉄幹の二男で外交官になった秀(しげる)の長男として戦前の1938(昭和13)年8月、東京に生まれた。
与謝野本人は戦後、秀の赴任先であるカイロ郊外ヘリオポリスのイングリッシュスクールで学んで英オックスフォード大学への進学を目指したが、あきらめて帰国し、麻布高校から一浪して東大法学部に進んだ。現役の学生より2年遅れたことにより、40年生まれの葛西と同級生となった。大学を卒業すると、母道子の知り合いだった中曽根康弘の斡旋により日本原子力発電に入社する。中曽根の勉強会に参加しているうち、読売新聞政治部記者の渡邉恒雄から勧められ、68年に中曽根の秘書となった。
「四季の会」に集った経営トップたち
葛西自身には血筋や学歴を重く見る傾向がある。名家に生まれ、東大の同級生となった与謝野は、葛西と同じく全共闘世代でありながら、学生時代も左翼活動に熱をあげることなく、卒業後には保守派の中曽根に師事し、秘書として仕えたあとの76年12月、衆議院議員総選挙に初当選して中曽根派に入った。
中曽根行革の一端を担い、国鉄民営化を実現させてJR東海社長に就いた葛西が、そんな東大の同級生を総理大臣にしたかったのも頷けなくはない。
JR東海社長として葛西は2000年、財界の与謝野馨応援団を結成すべく、富士フイルムホールディングスの古森(こもり)重隆とともに「四季の会」を立ちあげた。古森もまた東大の同期生である。
さらに葛西の呼びかけに応じ、アサヒビールの福地茂雄やJR東海の松本正之、みずほフィナンシャルグループの齋藤宏、東京電力の勝俣恒久(つねひさ)、新日本製鐵(現・日本製鉄)の三村明夫、三菱重工業の西岡喬(たかし)といった日本を代表する企業の社長、会長経験者がそこに加わった。
元メンバーが「四季の会」の内幕を初めて明かす
もっともメンバーは非公表で、正確な参加者は判然としない。
たとえばあまり知られていないが、野村證券で社長、会長を歴任した氏家純一も四季の会の発足当初からのメンバーの一人だ。
「私はもともと与謝野さんをよく存じ上げていたので、草創期の四季の会のメンバーとなりました。葛西さんもよく存じ上げていたし、比較的熱心に会に出ていたんですよ」
そう語る。氏家にとって葛西は野村證券の大事な取引先の経営者だった。
「私が初めて葛西さんを知ったのは、国鉄民営化から間もない87年か88年ぐらいだと思います。といってもそのときはリアルに会ったわけではなく、紙の上。葛西さんがJR東海の総合企画本部長という肩書で日経新聞の『ひと』という小さな囲み記事を書いていらした。企業経営の熱意が伝わってくる非常に魅力的な文章で、たまたまそのとき私が同じようなポジションの野村證券の総合企画室長だったので、感服したことをよく覚えています。その後、私自身がアメリカ駐在(1989年より野村證券米国法人の『ノムラ・セキュリティーズ・インターナショナル』社長)になって96年まで向こうにいましたから、葛西さんとは縁がなかったのですが、国鉄改革のあり様はご著書の『未完の「国鉄改革」』で知りました」