「最期に泣きながらだが言えた」緩和ケアに尽くした福岡の医師が残した日記
2023年1月18日 (水)配信西日本新聞
福岡県筑豊地区で緩和ケアの普及に尽くし、末期がん患者や家族に寄り添ってきた医師が昨年10月、52歳で亡くなった。済生会飯塚嘉穂病院(同県飯塚市)の荒木貢士(こうし)さん。前立腺がんだった。1500人もの患者をみとり、貫いた信念は「最期は感謝の言葉を贈ること」。「頑張って」と励まそうとする患者の家族に「本人は苦しい。十分頑張ってきた」と説いた荒木さん。「人は死んでも、心の中で生き続ける」とも語っていた。自身も、妻や子から「ありがとう」と声をかけられながら旅立った。
荒木さんは福岡市出身。神戸大を卒業後、外科医として九州大病院などで勤務。2011年7月に飯塚嘉穂病院に着任した。筑豊地区で初の緩和ケア病棟が開設されたばかりだった。
荒木さんの姉で同病院看護部長の頼子さん(57)から「筑豊でも緩和ケアを広めたい。いい医師はいないか」と相談を受け「それならば自分が行く」と引き受けた。「弟は『手術をしても治らない患者を最期まで診てくれる医師が少ない』と、緩和ケアの道に進む決意をし、大阪や福岡の病院で学んだ」と頼子さん。
看護課長の尾崎昌子さん(57)も「ケアに詳しいスタッフが少ない中、私たちを導く光のような存在だった」と振り返る。
同県直方市の野口千代香さん(72)は訃報に接し、夫俊一さんをみとった6年前を思い出した。長女(47)が荒木さんに呼び出され「伝えたいことを言ってあげてください。言葉にしないと伝わらないこともあります」と告げられた。
「大好き」「ありがとう」。励ましたい気持ちをこらえ、ありったけの感謝を家族で伝えた。俊一さんも「ありがとう...」と口にして逝った。千代香さんは「夫が良い最期を迎えられたことが、その後を生きる家族の救いになっている」と話す。
◆亡くなる1週間前までの日記
荒木貢士さんは亡くなる1週間前まで、痛みと闘いながらスマートフォンに日記をつづった。妻あゆみさん(50)と貢大(こうた)さん(22)、崇大(そうた)さん(20)、瑛大(えいた)さん(16)、七美さん(13)の4人の子。両親と姉。家族と過ごす時間が「一番の幸せ」と書き残した。
■2021年12月3日
前立腺がん、リンパ節と骨に転移と診断された。緩和ケアの仕事を始めた時から自分の死は覚悟していた。車の中で妻に病状を伝えた。「ゴメン」と告げると、「謝らないで」と泣かれた。
■22年1月6日
車の中で泣いた。患者から「なぜこんな病気になったのか。何も悪いことはしていないのに」と言われた気持ちが痛いほど分かる。
■3月8日
次男が九大医学部に合格した。涙が出るほどうれしかった。医師になった姿は見届けることができないだろうが、優しい子なのできっと皆に好かれる医師になるだろう。
■5月8日
子どもたちに病気のことを伝えた。次男に「余命」を聞かれたが、ごまかした。
■7月28日
脚の感覚も段々鈍くなり、まひは確実に進んでいる。正直、早く終わりが来てほしい。
■8月9日
最期に苦しまないように、家族にも苦しむ姿を見せたくないため、(薬による)鎮静を始めたい。家族にきちんとお別れをしたい。妻は「(ミュージカル俳優を目指す)三男の発表会までは頑張って」と言う。しかし呼吸困難の恐怖には耐えられない。
■10日
両親ときょうだいにもお別れと感謝の言葉を伝えた。とてもつらかったが、どうしても最期に自分の口で言いたかった。泣きながらだが、頑張って言えた。
■13日
家族で過ごす時間が一番の幸せ。そんな本当に単純なことが、全ての本質だとあらためて勉強させられる。
■25日
(発表会で)三男も泣きながら歌っていた。もう涙が止まらない。カーテンコールで三男が一輪のバラを私の席まで持ってきて「ありがとう」と言ってくれた時は、周りを気にする余裕もなく号泣した。天国からでも応援しよう。この日まで生きていないかもしれないと思っていたが、妻に感謝している。
■27日
よく眠れた。今は全てのことに安心感があり、精神的にも落ち着いている。あとは皆の負担にならない期間に、安楽に最期を迎えたい。
■9月15日
お父さんは不自由なく育ててくれた。お母さんもいつも味方でいてくれた。恩返しができなかったことが残念だ―。
春には、音楽好きの七美さんとライブに出かけた荒木さん。貢大さんの誕生日翌日の9月26日から鎮静に入り、10月1日、福岡市の自宅で亡くなった。同僚の医師は死亡診断書に書き添えた。「穏やかな誰にでもやさしいすてきな医師でした」
(長松院ゆりか)