温泉クンの旅日記

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土湯温泉

2014-02-23 | 温泉エッセイ
  <朝霧に包まれる土湯温泉>

 なんとも長い内風呂である。



 二十メートルあるのでどこに入ろうが思うがまま、多少混んでも湯船に入れないということはない。弱アルカリの無色透明の単純温泉である。



 身体が温まったところで、露天風呂に向かう。



 津軽東北旅の最後の宿に選んだのは鳴子温泉、遠刈田温泉、温湯温泉などとともにこけしで有名な土湯温泉であった。土湯は橋の袂にある共同浴場で入浴だけしたことがあるが宿泊は初めてであった。熱い温泉、だけが記憶に残っている。

 大浴場を出てすこし歩いたところにもうひとつ風呂がある。
 聖徳太子の時代から、どんな難病でも治すといわれる自噴掛け流しの貸切風呂「上の湯」である。



 福島県の土湯温泉の開湯は古い。
「恋は神代の昔から」という歌謡曲があるけど、神代のころだという。
 なにしろ伝説では、大穴貴命(おおむなちのみこと)がこの地を流れる荒川のほとりで地面を鉾で突いて発見したとされ、鉾で突いたことから「突き湯」となり、それが転じて「土湯」となったというのだ。



 浴槽は狭いが風情がたっぷりあって落ち着ける。

 この土湯にも悲しい歴史がある。
 会津藩主保科正之(徳川家光の弟)が寛文三年(1662年)、会津から土湯峠を越えて福島に至る会津土湯道を開くと、その宿場町として土湯は栄えた。
 それから二百年後の慶応四年(1868年)八月、戊辰戦争の時にこの地で官軍と対峙した会津軍はこの道を撤退するのだが、宿場が敵である官軍の拠点にならぬよう土湯全村に火を放った。家屋七十三軒のうち七十一軒とその殆どが焼け落ちたという。また同様な悲劇が、ほど近い高湯温泉でも米沢藩の手によって行われた。

 夕飯は牛鍋、じゃこと高菜の釜飯、嬉しいこづゆと、満足できるものだった。



 翌朝、土湯温泉は深く静かな霧に包まれた。



 すぐ近く、土湯峠の野地温泉のときと同じだ。このあたりは霧が発生しやすい土地なのだろうか。
 朝食の膳も、ちょっと品数が多すぎるかなと思うほどであった。



 さて、長旅もついに最終日である。
 旅で読みにくいのがガソリン代の予算である。距離だけ考えても、高低差がある坂道がそこにあったりすると、意外とガソリンを消費してしまうのだ。ガソリンスタンドで給油するときに、二十リットルとはなかなか言いにくいものである。だから三十リットル分の代金が最終日に財布に残るのが理想だ。
 幸い、予定通りに財布のなかも五千円をすこし上回るほどの残高があるので安心だ。



 わたしにすれば、もう福島の土湯から横浜は近いのだが、とにかく駐車場に帰り着くまでが旅である。朝霧のなか土湯温泉をゆるゆる出発、心して帰途についた。


  →「鴨宿温泉!」の記事はこちら
  →「続・玉子湯」の記事はこちら
  →「雲上の湯めぐり宿(1)」の記事はこちら
  →「雲上の湯めぐり宿(2)」の記事はこちら
  →「雲上の湯めぐり宿(3)」の記事はこちら

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