温泉クンの旅日記

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岐阜、下呂温泉(3)

2021-04-11 | 温泉エッセイ
  <岐阜、下呂温泉(3)>

「下呂」という地名であるが、「続日本紀」によれば宝亀二年(776年)、その昔下呂温泉の付近には美濃国の「菅田駅」と飛騨国大野郡の「伴有駅(上留駅)」があった。
 (「駅制」は中央と地方の情報伝達のために設けられた緊急通信制度で律令制に明記された交通制度である)
 しかし、この二つの駅間は遠く道も険しかったため、「下留駅(しものとまりえき)」を新設した。やがて、時代が進むに従い「下留(げる)」と音読みするようになり、転じて現在の音と表記になっていったそうだ。“呂”は風呂からきているともいう。

 朝暗いうちにいつものようにゴソゴソ起きだし、飛ぶように朝風呂に行き独占して堪能した。
 戻った部屋でゆっくり一服しながら、お茶を飲む。テレビでは、昨夜からの大寒波がもたらして大雪のため、関越自動車道で数百台の大渋滞が発生中だと騒いでいる。
(ここも北陸に近いし、なんかちょっとヤバいなあ・・・)

 薄紙をはがすように闇が徐々に消えて、あたりが明るくなってきたので一階に降りてみた。
 正面玄関を出てみたら、外の風景が一変していた。

 

 部屋の窓から見えるのは低層階の屋根だけだったので、びっくりした。高台から見下ろす温泉街も、朝から美しく雪化粧をしている。

 いまから千年前に開湯されたとされる下呂温泉だが、湯ヶ峰の頂上付近(1,067メートル)からの湧出のときは『湯島温泉』といわれた。

 

「東にあるという『湯ヶ峰』とかいうのはあの辺の山かなあ・・・」
 遠すぎて、標高が千メートルを超えているかどうかわからない。

 

 その後に白鷺伝説(薬師如来が白鷺に化身して湧出地を教えた)として伝わる、飛騨川の河原からの湧出では『湯之島温泉』とも言われた。

 下呂温泉は、室町時代にも京都の僧により「天下三名泉」と紹介され、江戸時代にも林羅山が著書のなかで兵庫の有馬温泉、群馬の草津温泉とともに名湯として挙げている。

 

 室町時代、京都五山相国寺の僧・万里集九(ばんりしゅうく)は、延徳元年(1489年)、延徳3年(1491年)、下呂温泉に滞在。その際に著した詩文集「梅花無尽蔵」に「本邦六十余州、毎州有霊湯、其最者下野之草津、津陽之有馬、飛州之湯島三処也」と記している。
 *文中の「下野(しもつけ、栃木)の草津」とは誤りで、正しくは上野(こうづけ、群馬)の草津である。

 

 また、江戸幕府に仕えた儒学者・林羅山も、元和七年(1621年)に「摂州有馬温湯記」のなかで「我國諸州多有温泉其最著者摂津之有間下野之草津飛騨之湯嶋是三處也」と万里集九を引用して記し、さらに「今、有馬、草津は広く世の知るところとなり。湯島は古来の霊湯たること、遠く知るもの少なしといえども、入湯する人はその験を得ざることなし」と続き、下呂温泉が名湯だと推している。(験とは効きめのこと)

 この宿でチェックアウト時間までゆっくりしようと思っていたが、なんか雪景色を見ているうちに方針変更してとっとと移動することに決めた。

 フロントに訊くと、岐阜方面へは美濃太田行き各駅が8時20分にあるという。それで行くことにしよう。無料の巡回バスは9時からなので、とつけ加えて言われる。
 朝食は鯖の塩焼きと、とろろで軽くすませ、着替えてフロントでタクシーを頼む。

 

 

 八時丁度くらいに下呂駅に着くと、改札付近に富山方面の「特急ひだ」の運転見合わせが並ぶ掲示があった。バタバタしたが、よかったかもしれない。
 ホームに入り、各駅が来るのをじっと待った。

 

 

 飛騨川に沿って走る高山本線の車窓からみる景色が素晴らしい。

 

 さざ波もなく、鏡のように雪景色を映す川面、そして青空。雪にほとんど縁がない横浜暮らしのわたしには忘れがたい、味わい深いものだった。

 

 後ろ髪ひかれる思いというか、なんか、チェックアウト前の最後にゆっくりもう一遍アルカリの湯に入れなかったのが温泉好きとしては真に残念である。
 ・・・まあいいか、また高山と抱き合わせで来るとするか。


   →「岐阜、下呂温泉(1)」の記事はこちら
   →「岐阜、下呂温泉(2)」の記事はこちら


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