大牟田・オープンシャッター・サロン茶塘

商店街の活性化を目指して、大牟田市新栄町の空き店舗を改装、サロン茶塘が開設された。茶塘や商店街のイベントを紹介します。

大牟田の落花生はどこから来たの?

2015年01月28日 10時55分17秒 | 日記

  作家陳舜臣さんが亡くなられました。本当に残念です。心よりお悔やみ申し上げます。

 ちょうど『美味方丈記』(下:陳舜臣・錦墩著 中公文庫 1995年6版 発行 表紙より)を読んでいたところでした。

落花生と言えば長寿豆。大牟田にも産地あったとは~~と思いながらです。

やはり、ありました。P18に落花生について書かれています。「――落花生。一名を長生果という。『福生県志』によれば、外国から出たもので、昔はこれはなかった。康熙(1662~1722)の初年に、僧応元が扶桑へ往き、種を求めて寄せ回(かえ)ったという。~~扶桑(ふそう)というのはほかならぬ『日本』のことなんです。それなのに、日本人は落花生のことを『南京豆』と言って、さも中国から渡来してきたように言います。中国人に言わせると、これぞ『日本豆』です。いったい、どうなっているのでしょう。落花生の原産は南アメリカだそうですから、日中両国とも、これは外国から伝わったものに違いありません。やはり縁起を担ぐのでしょうか、「落」の字を落として「花生」というのが、中国では一般的な呼び方です。誰だって落第なんかしたくありませんものね。」とあります。

 ところが、『中国伝来物語』(寺尾善雄著 河出書房新社 S57年発行)P42によれば「中国から来た。~~「ナンキン豆』というのも中国から来たという証拠である。~ナンキンという言葉をつけた物はすべて中国伝来といってよい。」と、あります。一般的に「伝来」と言われるものにもきちんと調べないと誤解があるようです。ちなみに同じP44にインゲン豆の伝来について書かれています。明の僧隠元によってもたらされた「インゲン豆」~実は別種の「フジマメ」だったそうです。豆にも伝来の歴史があり、人々の往来・文化交流に伴うものであったことを学びました。

 

 


大牟田市町内公民館「地域のきずなを深めるまちづくり」 研究大会開催

2015年01月28日 10時09分31秒 | 日記

2月28日、大牟田文化会館小ホールで大牟田市町内坑民会研究大会が開催されます。「これからのまちづくりは我々の手で」を掲げてすでに43回目の開催です。41回目のサブテーマは「どうする公民館新たな役割を探す」42回目は「地域の特性を生かしたまちづくり」そして今回「地域のきずなを深めるまちづくり」となっています。(下:2015年1月24日有明新報・菅嶋公尚「まちづくりは我々の手で 町内公民館研究大会 テーマ、内容決まる」より)

 先ごろは「認知症の人とともに暮らすまちづくり10周年市民集会」が開催されました。高齢化の進むまちづくりの課題が明らかになったと思います。各地域でまちづくり広がってつながって行けばいいですね。


「認知症の人とともに暮らすまちづくり宣言10周年 市民の集い 」~大盛会

2015年01月27日 11時13分07秒 | 日記

 1月25日、大牟田文化会館大ホールで「認知症の人とともに暮らすまちづくり宣言10周年 市民の集い」が開催されました。参加者はお年寄りが多いのでは?と思っていましたところ、子供も大人も若い方も沢山参加されていて、世代を繋ぐ活動の成果を実感しました。

第1部講演会の大熊由紀子さんの講演では、「介護の大牟田方式」と呼ばれる取り組みに講師自身も触発され、学ばれ、期待されていることが分かりました。大熊さんは大牟田の取り組みを「大牟田文化」とも言われました。模擬訓練や絵本教室開催、SOS愛情ネットワーク等を突き動かしている「ほっとかれん」「がまんでけん」というマグマのような熱情。その熱い「まちづくりの思い」を受け継ぎ、繋いでゆくことが大切だと思いました。

第2部の「まちづくりコンサート」。「ザ・ヒーリング」のピアノとバイオリンの演奏に乗って、寸劇やお話、コメント発表が進められました。認知症の周りの人達とは家族、介護施設関係者だけでなく、医療関係者、市行政、警察、パン屋さん等商業者、小中学生等沢山の人達です。沢山の人達ががつながって見守る活動が目指されています。そして、認知症の方々自身が自分の思いや苦しみ、楽しみを自分の言葉で話そうとされている~そうした取り組みも分かってきました。

最後にはさだまさしさんが作られた大牟田応援歌「チャンス」を参加者全員で歌い、次の10年に向けて「大牟田モデル」を広げ、深めて、行くことが高らかに宣言されました。

さて、これからの10年間大変です。命があるのかもわかりません。いつ認知症になるかもしれません。<集い>で提起されたことを思いつつ、毎日しっかり生きなくちゃ!

 最後「チャンス」の合唱 左手の表示は「パソコン文字表示」そのほか手話通訳もありました。


大牟田・三井倶楽部で同窓会

2015年01月26日 11時52分19秒 | 日記

「あれから40年~」きみまろさんの口癖ではありませんが、私たち、あれから40何年?毎年恒例の同窓会が大牟田・三井倶楽部で開催されました。その名も「三池高校イチゴ会」青春の苺白書にあやかっていいですね。そろそろ思い出せないことも増えましたので、楽しかった事だけお話ししましょう。と思っていたら、あんた誰やったかな?なんて会話はありません。皆さん元気、町内会で活躍したり、郷土歴史ボランティア、四国お遍路、長唄三味線、折り紙、野菜つくり、バラ庭園造りなど。孫の話等がほとんどない!今、現在にしっかり足跡を付け頑張ってありました。~中でも<フルス同好会>のリーダー井上さんはフルスを大牟田発の音楽として全国に広めたいと活動されていて、同窓会でも演奏されました。なんと!まず「三池高校校歌」です。それから、それから、、、画面に映し出されるシルクロードの砂漠、風吹き、剣をかざして疾駆する騎馬隊、なおやかなダンスの美女、そして流れるフルスのメロディー「雪蓮花開」は素敵でした。三井倶楽部のフランス料理もおしゃれ待ち時間が長いのもコース料理の特色。飲み放題の割には皆さんあんまり飲まれていない。やはり健康第一、そろそろ控え目、も大事ですね。又、翌年の再会を約して散会しました。

 三井倶楽部・ランス料理  フルス演奏 

大牟田観光プラザにも寄りました。ミニ「大蛇山」に大牟田スウィーツがずらり。

 お土産に お菓子「大蛇山」と「大牟田100%落花生」(大牟田に落花生?宮部の住所が表示されてました。知らんかった!)

 


三川坑炭じん爆発事故調査の荒木忍さん亡くなる

2015年01月24日 08時57分01秒 | 日記

 1963年発生した大牟田・三川坑炭じん爆発の事故調査に奮闘された荒木忍さんが1月8日亡くなられました。102歳だったそうです。1昨年11月には娘さんが大牟田に来られ、民事訴訟をされた一酸化中毒患者の家族とも会われました。荒木忍さんの事故調査の資料や写真は大牟田市立図書館に寄付されています。ご冥福をお祈りいたします。

(下㊤:2015年1月23日西日本新聞「荒木忍さん死去」 下㊦*2015年1月23日朝日新聞「炭じん爆発事故調査 荒木忍さん死去」より)