
家内の実家の車庫の工事は完了前に大雪で四苦八苦らしい。予算の都合でシャッターは後回し・・。
瓦の補修も保険金がおりたのはいいが、大雪で工事ができないらしい。今年も大雪で北国はたいへんだ。
今週の火曜日の「なんでも鑑定団」に出品されたのは「絵唐津茶碗」と「曽我二直庵筆 架鷹図」でした。本ブログには唐津はあっても絵唐津はありません。曽我二直庵はありますが、写真の写りがいまひとつですので帰省に際して撮影し直してこようかと思います。
本日はそれでは鷹の作品を紹介します。
天龍道人が描いたのは葡萄、鷹、山水、人物ですが、特に天龍道人が得意としたのは、花鳥画と葡萄画であって、特にその鷹の図と葡萄図は当代第一流の品格をそなえていると評されています。
鷹図 天龍道人筆
紙本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1220*横600 画サイズ:縦390*横540
本作品は箱もなく紙表具でかなり痛んでいますが、幸いこのままほうが風格があってよさそうです。

落款には「天龍道人□□七十七年写」とあり、1794年(寛政6年)頃に作品です。印章は「王瑾」と「公瑜」の白文朱方印が押印されています。

天龍道人は鷹の絵を描くにあたっ鷹匠に家で研究したようです。若い鷹から大きな鷹へ成長、羽毛の変化、鷹の習性を詳しく観察して、それを各種の花木に配して描いています。
本作品もそのような作品えすが、やはり草木の描き方がうまいものです。

長崎派の影響を受けた色彩画もありますが、天龍道人がたどり着いたのは墨一色の絵の世界です。

天龍道人の資料として当方にあるものは「百五十年記念展 天龍道人」と題された小冊子のみです。

その小冊子に同じ年に描かれた鷹の絵が掲載されています。

印章は違いますが落款はほぼ同じです。

鷹の画家としても人後に落ちないのですが、千載に名を残すにはやはり葡萄図でしょう。
ただ天龍道人は一介の葡萄を描いた画人ではなく、憂国の士として、経世家、思想家、学者、禅家、漢詩文家、書家、篆刻家として近世史上まれにみる大人物と評価されています。
天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。
肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身で、一説では九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部堅忠の子とされる。天龍道人は鍋島藩の主家に当たる龍造寺隆信の七世下の孫にあたる。
半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。30歳代、40歳代頃には京都の尊王論者、山縣大弐のもとで活動をおこなっていたとされるが、時期早しと言うことで、44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。
54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。
50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、鷹の方は少なく、山水画の方はもっと少ない。文化7年(1810)歿、93才。
瓦の補修も保険金がおりたのはいいが、大雪で工事ができないらしい。今年も大雪で北国はたいへんだ。
今週の火曜日の「なんでも鑑定団」に出品されたのは「絵唐津茶碗」と「曽我二直庵筆 架鷹図」でした。本ブログには唐津はあっても絵唐津はありません。曽我二直庵はありますが、写真の写りがいまひとつですので帰省に際して撮影し直してこようかと思います。
本日はそれでは鷹の作品を紹介します。
天龍道人が描いたのは葡萄、鷹、山水、人物ですが、特に天龍道人が得意としたのは、花鳥画と葡萄画であって、特にその鷹の図と葡萄図は当代第一流の品格をそなえていると評されています。
鷹図 天龍道人筆
紙本水墨 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1220*横600 画サイズ:縦390*横540
本作品は箱もなく紙表具でかなり痛んでいますが、幸いこのままほうが風格があってよさそうです。

落款には「天龍道人□□七十七年写」とあり、1794年(寛政6年)頃に作品です。印章は「王瑾」と「公瑜」の白文朱方印が押印されています。

天龍道人は鷹の絵を描くにあたっ鷹匠に家で研究したようです。若い鷹から大きな鷹へ成長、羽毛の変化、鷹の習性を詳しく観察して、それを各種の花木に配して描いています。
本作品もそのような作品えすが、やはり草木の描き方がうまいものです。

長崎派の影響を受けた色彩画もありますが、天龍道人がたどり着いたのは墨一色の絵の世界です。

天龍道人の資料として当方にあるものは「百五十年記念展 天龍道人」と題された小冊子のみです。

その小冊子に同じ年に描かれた鷹の絵が掲載されています。

印章は違いますが落款はほぼ同じです。

鷹の画家としても人後に落ちないのですが、千載に名を残すにはやはり葡萄図でしょう。
ただ天龍道人は一介の葡萄を描いた画人ではなく、憂国の士として、経世家、思想家、学者、禅家、漢詩文家、書家、篆刻家として近世史上まれにみる大人物と評価されています。
天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。
肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身で、一説では九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部堅忠の子とされる。天龍道人は鍋島藩の主家に当たる龍造寺隆信の七世下の孫にあたる。
半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。30歳代、40歳代頃には京都の尊王論者、山縣大弐のもとで活動をおこなっていたとされるが、時期早しと言うことで、44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。
54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。
50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、鷹の方は少なく、山水画の方はもっと少ない。文化7年(1810)歿、93才。