狩野探幽の作品は地方でも旧家や古い料亭に行くと少なからず所蔵されています。ただ、多くも見せていただきましたが、99%贋作でした。というより本物は少なかったのが現実です。「たいへん古くていいものですので大切にしてください。」としかいいようがありませんでした
著名なゆえに、粉本主義ゆえに写しが多く、一派の中でも印章を使えた可能性もあり、贋作は多くあります。
それでもかなりの真作の作品が存在します。席画のように描かれた作品が多いようです。そのため差の出来には賛否があります。評価額も大きく出来ない理由もその辺にあるそうです。
彼の作品で議論となるのは余白の美です。掛け軸はその長さゆえ余白が大きくなります。そこに何かを想像させるもの、余韻を残すものがなければいけません。その美を確立したのが狩野探幽ですが、その後流行する意味のない「ただの余白」をつくりだしたのも彼だと言われています。
本日もそのような作品群のひとつと言えます。
波ニ不二図 狩野探幽筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1765*横558 画サイズ:縦858*横370
寒くなるとベランダから天気の良いときには富士山が見えます。
賛に「法印探幽行年七十二歳筆」とあり、享年が73歳であるから最晩年の作品になります。 文献の落款と印章を比較してみました。
なお60歳から画家の最高位に法印に叙しています。法橋、法眼、法印の三位はもう本ブログの訪問者には説明の必要がないでしょう。
落款や印章、出来から真作の信憑性が非常に高い作品です。中央に落款が記されていることから三幅の中央の作品で有る可能性も推察されます。
狩野探幽:生年: 慶長7.1.14 (1602.3.7)~没年: 延宝2.10.7 (1674.11.4)享年72歳。
江戸前期の画家。狩野孝信の長男として山城国(京都府)に生まれる。名を采女,のち守信という。探幽斎,生明,白蓮子と号しました。
慶長10(1605)年,4歳のとき自ら筆をとって描くところ習熟者のようであったという。19年将軍秀忠の御前にて揮毫し,祖父永徳の再来と称賛されたというから所謂天才ですね。
元和3(1617)年江戸へ召され幕府御用絵師となる。7年,鍛冶橋門外に1033坪の屋敷を拝領する。9年,弟安信に狩野宗家を譲る。現在伝わる作品は江戸狩野様式の確立を伝えるものとして重要。
12年,江月宗玩より探幽斎の号を授かり,弟子益信を養子に迎え采女の名を与える。15年12月29日法眼に叙される。寛文2(1662)年5月29日,画家として最高位の法印に叙される。還暦にして最高位になったということです。10年中風を病み,翌年本復したが,数年後に江戸で没した。
江戸狩野派様式を創始した功績は大きく,近年探幽の遺した膨大な縮図が古画研究の視点から再評価されています。またやまと絵学習による探幽の新様式も従来の探幽の水墨様式に加え再評価されつつあるとのこと。
狩野探幽補足事項・・・・余白の美
若年時は永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、墨線の肥痩を使い分け、枠を意識し余白をたっぷりと取った瀟洒淡泊、端麗で詩情豊かな画風を生み出しました。この画法は掛け軸等の小作品でも生かされ、その中に彼の芸術的真骨頂を見いだすのも可能です。本作品はそのような作品といえます。
彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちにより模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となったともいえる。すでに晩年の探幽自身の絵にその兆候が見られる。近代に入ると、封建的画壇の弊害を作った張本人とされ、不当に低い評価を与えられていました。しかし近年、その真価が再評価されていいます。
本作品はその余白の取り方は賛否両論あろうが、やはり瀟洒淡泊、端麗で詩情豊かな画風といえよう。不二の上部の余白には墨によって広がりを意識させ、下には雲の下に雨を感じさせる。さらに海の波を描くことによって一連の風景を連想させるあたりは探幽ならではと思える。
表具がいいことも重要です、初心な状態のままが条件です。
古ければいいというものではありませんが・・。「壽」の字に「鳳凰」という縁起物です。
ところで富士山というと私の元同僚が富士山を題材としたカレンダーを毎年贈ってくれます。なかなかの出来で本まで出版されています。
今年もカレンダーを頂きましたので、いままでのを部屋に並べてみました。家内が脚立を持ってきて撮影です。
家内と意見が一致したのは一番上の右から2番目がいいね・・ということでした。
余白の美・・・、とても大切なことです、何もないところになにかを想像させる、なんらかの意味を持たせる、そしてそれを感じる。イマジネーション力のことです。
最近この力が衰えています。予知能力、イマジネーションが不足するから事故も起きる。
著名なゆえに、粉本主義ゆえに写しが多く、一派の中でも印章を使えた可能性もあり、贋作は多くあります。
それでもかなりの真作の作品が存在します。席画のように描かれた作品が多いようです。そのため差の出来には賛否があります。評価額も大きく出来ない理由もその辺にあるそうです。
彼の作品で議論となるのは余白の美です。掛け軸はその長さゆえ余白が大きくなります。そこに何かを想像させるもの、余韻を残すものがなければいけません。その美を確立したのが狩野探幽ですが、その後流行する意味のない「ただの余白」をつくりだしたのも彼だと言われています。
本日もそのような作品群のひとつと言えます。
波ニ不二図 狩野探幽筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1765*横558 画サイズ:縦858*横370
寒くなるとベランダから天気の良いときには富士山が見えます。
賛に「法印探幽行年七十二歳筆」とあり、享年が73歳であるから最晩年の作品になります。 文献の落款と印章を比較してみました。
なお60歳から画家の最高位に法印に叙しています。法橋、法眼、法印の三位はもう本ブログの訪問者には説明の必要がないでしょう。
落款や印章、出来から真作の信憑性が非常に高い作品です。中央に落款が記されていることから三幅の中央の作品で有る可能性も推察されます。
狩野探幽:生年: 慶長7.1.14 (1602.3.7)~没年: 延宝2.10.7 (1674.11.4)享年72歳。
江戸前期の画家。狩野孝信の長男として山城国(京都府)に生まれる。名を采女,のち守信という。探幽斎,生明,白蓮子と号しました。
慶長10(1605)年,4歳のとき自ら筆をとって描くところ習熟者のようであったという。19年将軍秀忠の御前にて揮毫し,祖父永徳の再来と称賛されたというから所謂天才ですね。
元和3(1617)年江戸へ召され幕府御用絵師となる。7年,鍛冶橋門外に1033坪の屋敷を拝領する。9年,弟安信に狩野宗家を譲る。現在伝わる作品は江戸狩野様式の確立を伝えるものとして重要。
12年,江月宗玩より探幽斎の号を授かり,弟子益信を養子に迎え采女の名を与える。15年12月29日法眼に叙される。寛文2(1662)年5月29日,画家として最高位の法印に叙される。還暦にして最高位になったということです。10年中風を病み,翌年本復したが,数年後に江戸で没した。
江戸狩野派様式を創始した功績は大きく,近年探幽の遺した膨大な縮図が古画研究の視点から再評価されています。またやまと絵学習による探幽の新様式も従来の探幽の水墨様式に加え再評価されつつあるとのこと。
狩野探幽補足事項・・・・余白の美
若年時は永徳風の豪壮な画風を示すが、後年の大徳寺の障壁画は水墨を主体とし、墨線の肥痩を使い分け、枠を意識し余白をたっぷりと取った瀟洒淡泊、端麗で詩情豊かな画風を生み出しました。この画法は掛け軸等の小作品でも生かされ、その中に彼の芸術的真骨頂を見いだすのも可能です。本作品はそのような作品といえます。
彼の生み出した余白の美は、後世の絵師たちにより模写が繰り返されるにつれ緊張感を失い、余白は単に何も描かれていない無意味な空間に堕し、江戸狩野派の絵の魅力を失わせる原因となったともいえる。すでに晩年の探幽自身の絵にその兆候が見られる。近代に入ると、封建的画壇の弊害を作った張本人とされ、不当に低い評価を与えられていました。しかし近年、その真価が再評価されていいます。
本作品はその余白の取り方は賛否両論あろうが、やはり瀟洒淡泊、端麗で詩情豊かな画風といえよう。不二の上部の余白には墨によって広がりを意識させ、下には雲の下に雨を感じさせる。さらに海の波を描くことによって一連の風景を連想させるあたりは探幽ならではと思える。
表具がいいことも重要です、初心な状態のままが条件です。
古ければいいというものではありませんが・・。「壽」の字に「鳳凰」という縁起物です。
ところで富士山というと私の元同僚が富士山を題材としたカレンダーを毎年贈ってくれます。なかなかの出来で本まで出版されています。
今年もカレンダーを頂きましたので、いままでのを部屋に並べてみました。家内が脚立を持ってきて撮影です。
家内と意見が一致したのは一番上の右から2番目がいいね・・ということでした。
余白の美・・・、とても大切なことです、何もないところになにかを想像させる、なんらかの意味を持たせる、そしてそれを感じる。イマジネーション力のことです。
最近この力が衰えています。予知能力、イマジネーションが不足するから事故も起きる。