牛仙人 狩野安信筆
絹本水墨絹装軸鑑定箱入
画サイズ:横376*縦1030
本作品は牛の上に人が乗っている図であり、古来よりよく描かれる図柄です。
品がよい作行きです。
落款の検証ですが、下に写真の左が本作品の落款です。右が文献による落款の参考写真です。「法眼」と記されていることから狩野安信が48歳以降の作品と判断されます。西暦1662年以降です。350年近く前の作品ということになります
さて、本作品で問題になるのは印章です。右写真が本作品の印章です。左が参考資料の写真です。100%一致していません。では、贋作なのでしょうか??
印章は良く似ています。同じような印章があっても不思議はありません。また狩野派は後世において、粉本に印章、落款を似せて作品を製作することが多々あったようです。
結論としては、本作品はあまり真贋に関して、目くじらたてることはないと思います。私個人としては真作としてよいと思っています
逆に、贋作や粉本ならば・・・よくぞここまで・・ご苦労さんという感想です
さらに箱裏には大正7年(1918年)の小室翠雲による鑑定書きがあります。
安信の画風には、素朴平明を本旨とし、無理のない表現の中に理性と知性がきらめいているのが感じらます。
その卓越した画才は、古書の模写や鑑定にも長じ、探幽・尚信の二兄と共に狩野派を隆盛に導きました。ちなみに、軽妙な画風で知られる英一蝶は、安信の門人です。
狩野探幽と狩野安信の確執は上記のリンク先を参照にして下さい
なかなか面白い逸話があるようです。だいぶ天才肌の狩野探幽に嫌がらせを受けたようです。画家として天性のの素質がない者がここまでになるにはかなりの努力と世渡りの才が必要だったと推察されますね
狩野安信:慶長18年(1613年)生まれ。貞亨2年(1985年)没。享年73歳。但し、一説には70歳とも言われています。
狩野孝信の子で狩野探幽、狩野尚信を兄とします。探幽と尚信が江戸に移り、しかも京都の跡が無かったので宗家を継ぎましたが、自らもやがて江戸に移って幕府の奥絵師となり、中橋に居を構えて中橋狩野の祖となりました。
三兄弟のなかでは一番技量が劣ると称されているが、それほど劣っているとは思われません。永真は安信の別号です。
絹本水墨絹装軸鑑定箱入
画サイズ:横376*縦1030
本作品は牛の上に人が乗っている図であり、古来よりよく描かれる図柄です。
品がよい作行きです。
落款の検証ですが、下に写真の左が本作品の落款です。右が文献による落款の参考写真です。「法眼」と記されていることから狩野安信が48歳以降の作品と判断されます。西暦1662年以降です。350年近く前の作品ということになります
さて、本作品で問題になるのは印章です。右写真が本作品の印章です。左が参考資料の写真です。100%一致していません。では、贋作なのでしょうか??
印章は良く似ています。同じような印章があっても不思議はありません。また狩野派は後世において、粉本に印章、落款を似せて作品を製作することが多々あったようです。
結論としては、本作品はあまり真贋に関して、目くじらたてることはないと思います。私個人としては真作としてよいと思っています
逆に、贋作や粉本ならば・・・よくぞここまで・・ご苦労さんという感想です
さらに箱裏には大正7年(1918年)の小室翠雲による鑑定書きがあります。
安信の画風には、素朴平明を本旨とし、無理のない表現の中に理性と知性がきらめいているのが感じらます。
その卓越した画才は、古書の模写や鑑定にも長じ、探幽・尚信の二兄と共に狩野派を隆盛に導きました。ちなみに、軽妙な画風で知られる英一蝶は、安信の門人です。
狩野探幽と狩野安信の確執は上記のリンク先を参照にして下さい
なかなか面白い逸話があるようです。だいぶ天才肌の狩野探幽に嫌がらせを受けたようです。画家として天性のの素質がない者がここまでになるにはかなりの努力と世渡りの才が必要だったと推察されますね
狩野安信:慶長18年(1613年)生まれ。貞亨2年(1985年)没。享年73歳。但し、一説には70歳とも言われています。
狩野孝信の子で狩野探幽、狩野尚信を兄とします。探幽と尚信が江戸に移り、しかも京都の跡が無かったので宗家を継ぎましたが、自らもやがて江戸に移って幕府の奥絵師となり、中橋に居を構えて中橋狩野の祖となりました。
三兄弟のなかでは一番技量が劣ると称されているが、それほど劣っているとは思われません。永真は安信の別号です。