夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

安藤七宝焼 花鳥文花瓶

2018-07-19 00:01:00 | その他
法事で帰郷に際して地元では神社例大祭。ギネスブックで世界一の認定を受けている太鼓が並んでいました。



大太鼓をはじめ出陣行列、獅子踊、奴踊などの行事はちょうど法事や墓参りの最中ですので今回は見られませんでした。



神社に拝礼だけしてきました。



菩提寺では獅子踊りが行われるので法事の後には住職も戻られるそうです。住職から法事の前に福田豊四郎の掛け軸をみせいていただきました。



さて本日の作品、男の隠れ家に眠っていためぼしい箱の中のひとつに七宝焼の作品を見つけました。当方では門外漢の領域の七宝焼、いかなる価値かは知る由もありませんが、出来が良さそうなので本日のブログにて紹介します。

安藤七宝焼 花鳥文花瓶
共箱入
口径78*最大胴径150*底径940*高さ200



胴の部分に「窓」が三つあり、各々に違う図柄の絵が描かれています。この構図は元の染付に用いた構図から始まり、その後明の陶磁器や古伊万里などに大きく影響を与えています。基本的には吉祥文様ですね。手前味噌ですが、本作品の絵の出来がよく、そこらにある七宝焼とは品格が違うように思います。



七宝焼の図柄は絵師が下絵を描くこともあります。本ブログでお馴染みの渡辺省亭も七宝焼の下図を描いた画家の一人です。池上秀畝ら明治期の画家には下絵を描いた画家が数多くいます。



日本の七宝焼は輸出産業として明治期に最盛期を迎えましたが世界大戦後は衰退しています。最盛期には京都の並河靖之、東京の濤川惣助、尾張の七宝家らの作品が非常に高い評価を得て高額で取引されたようですが、世界大戦による社会情勢の変化により急速にその技術は失われたようです。



この作品は安藤七宝店の作品で、安藤七宝店は明治初期から工芸製品の輸出品の主役として発展し、もとは尾張七宝(有線七宝)が始まりだそうです。明治33年には宮内省御用達になるなど、国内外から高い評価を受けている七宝焼の専門店です。



名古屋の安藤七宝の創始者は安藤重兵衛(1876年-1953年)です。

1880年に煙管商村田屋重兵衛が大日本製造七宝会社の後を継ぎ、安藤七宝店として名古屋にて創業したのが始まりですが、明治期には各国の万国博覧にて受賞多数、また上記のように皇室御用達として受注製作を賜るなど七宝業界において飛躍的な躍進を続けていました。1925年(大正14年)に合名会社安藤七宝店に改組し、このころに代表社員として安藤重兵衛が推挙されたそうです。



その後、第二次世界大戦において名古屋の本店の建物、商品が焼失、戦後は再建をかけ1948年(昭和23年)に安藤重兵衛を初代社長とした株式会社安藤七宝店を改組。2000年に創業120周年を迎えた七宝工芸の老舗的存在で現在でも難しい技術を有した工人を輩出しています。

*創立当時の印名は「安藤氏謹製」「大日本安藤製」などだそうです。



残念ながらこの作品には印銘はまったくありません。



きちんとした桐箱に収められており、下の台座も納まるようになっています。



当時の説明の栞も遺っています。



栞の字体から推察すると昭和20年~30年頃と推察されます。



箱のシールを拡大すると下記のように記されています。「J.ANDO]は安藤重兵衛のイニシャルでしょうか? 安藤重兵衛が活躍したのは大正から昭和戦後でこのシールがあるから存命中の作品?かどうかは不明です。



おそらく家人が銀座の安藤七宝店にて購入した作品でしょう。祖父の時代は東京都内にも社宅があり、父や母もよく上京していたようですから・・。当時はお土産品として買ってきたのでしょう。今では骨董品になりつつあるのでしょうが、当方は門外漢ゆえ価値についてはよくわかっていません。



絵柄の拡大写真を追記で投稿します。



狩野派、四条派などの当時の絵画の主流が盛り込められた図柄になっています。



このような手の込んだ作品は現代では数少ないように思います。



小振りな作品ですが、東洋的な魅力にあふれる作品のように思います。当時の家人の思い出の作品として保管しておきたいと思います。


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