週末には五月の節句にむけてのお飾りです。息子は兜がお気に入り??? というより付属でついているオルゴールに興味津々・・・。
ちなみに後部に掛けられている軸は寺崎廣業筆の「鐘軌図」で、脇の棚は平野富山作の「桃太郎」、田村耕一作の壷です。いずれも吉祥を現す作品です。
さて本日は藤井達吉の作品を紹介します。
渇墨山之図 藤井達吉筆 その16
紙本水墨軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1490*横345 画サイズ:縦690*横250
以下はいままで15作品の紹介記事の繰り返しになりますが、藤井達吉についての紹介からの抜粋です。
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藤井達吉:藤井達吉は明治14(1881)年、愛知県碧海郡棚尾村に生まれました。現在の碧南市棚尾地区です。幼い頃から手先が器用で、“針吉”“凧吉”とも呼ばれていたそうです。
明治25(1892)年に棚尾小学校を卒業すると、木綿問屋の尾白商会に奉公に出ました。この会社では朝鮮半島で砂金を金塊へ鋳造する仕事などもしました。帰国後美術学校への進学希望を父親に伝えますが許されず、名古屋の服部七宝店に入社します。ここでは米国でも有数の美術館であるボストン美術館で東西の美術作品を目にする機会を得ました。セントルイス万博で仕事をするために明治37(1904)年に渡米したからです。米国でみた美術作品に触発されたのか、日本に帰った藤井は服部七宝店を退職し、上京します。ここから美術工芸家としてのキャリアが始まりました。明治38(1905)年のことでした。
明治の終わりから大正時代にかけての藤井は、吾楽会、フュウザン会、装飾美術家協会、日本美術家協会、无型などの前衛的なグループに参加して当時の気鋭の画家・彫刻家・工芸家と親しく交わりました。制作でも古い型にとらわれない斬新な作品を生みました。木を彫り込み、螺鈿や七宝、鉛を用いた《草木図屏風》やアップリケや刺繍を施した《大島風物図屏風》などはこの時代の藤井の代表作といえるでしょう(両者とも個人蔵)。藤井の全業績の中でも大正時代を中心とした時期に制作された作品は強い魅力を発しています。
当時の藤井は家庭婦人向けの工芸の手引書を執筆し、雑誌『工芸時代』の創刊に協力するなど幅広い活動をしていました。更に官展に工芸部門を加えるための運動を友人たちと行いました。この運動は大正12年の帝国美術院への美術工芸部門設置という形で実を結びました。しかし昭和に入った頃から軸足は次第に中央から離れていきます。
藤井は独学でした。また大きな展覧会に作品を出品することもほとんどなく、画商に作品を売り込みもしませんでした。その分記録が少なく、活発な活動に反して日本近代美術史で取り上げられる機会が減っていったのです。
最近では藤井の業績が見直されるようになってきました。平成3(1991)年に愛知県美術館で開催された「藤井達吉の芸術-生活空間に美を求めて」展以来、近代日本工芸が揺籃期にあった頃、即ち中央で活躍していた時の藤井の先駆的作品が評価されるようになったからです。
藤井は転居を繰り返したため住まいこそしばしば変わりましたが、後半生は郷里での後進指導に重きを置いていました。瀬戸の陶芸や小原の和紙工芸の現在の発展の基礎は藤井が築いたと言って良いでしょう。瀬戸や小原(現豊田市)には栗木伎茶夫氏、山内一生氏、加納俊治氏など、直接藤井の教えを受けた方々の幾人かがご健在です。
藤井は昭和25(1950)年から31(1956)年まで碧南市の道場山に住んでいました。市内で藤井に接した方々も、西山町の岡島良平氏を最長老として、何人もいらっしゃいます。故郷での藤井の生活を支えたのは碧南市民をはじめとする藤井を敬愛する方々でした。「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた」というようなエピソードをきくこともあります。
後半生の藤井の作品は文人画的性格が強まりました。平安時代の継紙を現代に蘇らせ、独自の工夫で《継色紙風蓋物》(1947年;愛知県美術館所蔵)などの制作を多く行いました。そして昭和39(1964)年、岡崎で亡くなりました。83歳でした。
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『「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた」というようなエピソードをきくこともあります。』という前述があるように、そのような経緯のある作品のひとつでなないかと推察される本作品です。畳の上で筆の勢いにまかせて描いたかのように紙の跡が残る渇筆の優品、福田豊四郎の「冬木立」に替えて書斎の脇の床に飾りました。晩年の藤井達吉はこういう水墨画を自由な身で描いていたかったのだろうと思います。
ちなみに後部に掛けられている軸は寺崎廣業筆の「鐘軌図」で、脇の棚は平野富山作の「桃太郎」、田村耕一作の壷です。いずれも吉祥を現す作品です。
さて本日は藤井達吉の作品を紹介します。
渇墨山之図 藤井達吉筆 その16
紙本水墨軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1490*横345 画サイズ:縦690*横250
以下はいままで15作品の紹介記事の繰り返しになりますが、藤井達吉についての紹介からの抜粋です。
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藤井達吉:藤井達吉は明治14(1881)年、愛知県碧海郡棚尾村に生まれました。現在の碧南市棚尾地区です。幼い頃から手先が器用で、“針吉”“凧吉”とも呼ばれていたそうです。
明治25(1892)年に棚尾小学校を卒業すると、木綿問屋の尾白商会に奉公に出ました。この会社では朝鮮半島で砂金を金塊へ鋳造する仕事などもしました。帰国後美術学校への進学希望を父親に伝えますが許されず、名古屋の服部七宝店に入社します。ここでは米国でも有数の美術館であるボストン美術館で東西の美術作品を目にする機会を得ました。セントルイス万博で仕事をするために明治37(1904)年に渡米したからです。米国でみた美術作品に触発されたのか、日本に帰った藤井は服部七宝店を退職し、上京します。ここから美術工芸家としてのキャリアが始まりました。明治38(1905)年のことでした。
明治の終わりから大正時代にかけての藤井は、吾楽会、フュウザン会、装飾美術家協会、日本美術家協会、无型などの前衛的なグループに参加して当時の気鋭の画家・彫刻家・工芸家と親しく交わりました。制作でも古い型にとらわれない斬新な作品を生みました。木を彫り込み、螺鈿や七宝、鉛を用いた《草木図屏風》やアップリケや刺繍を施した《大島風物図屏風》などはこの時代の藤井の代表作といえるでしょう(両者とも個人蔵)。藤井の全業績の中でも大正時代を中心とした時期に制作された作品は強い魅力を発しています。
当時の藤井は家庭婦人向けの工芸の手引書を執筆し、雑誌『工芸時代』の創刊に協力するなど幅広い活動をしていました。更に官展に工芸部門を加えるための運動を友人たちと行いました。この運動は大正12年の帝国美術院への美術工芸部門設置という形で実を結びました。しかし昭和に入った頃から軸足は次第に中央から離れていきます。
藤井は独学でした。また大きな展覧会に作品を出品することもほとんどなく、画商に作品を売り込みもしませんでした。その分記録が少なく、活発な活動に反して日本近代美術史で取り上げられる機会が減っていったのです。
最近では藤井の業績が見直されるようになってきました。平成3(1991)年に愛知県美術館で開催された「藤井達吉の芸術-生活空間に美を求めて」展以来、近代日本工芸が揺籃期にあった頃、即ち中央で活躍していた時の藤井の先駆的作品が評価されるようになったからです。
藤井は転居を繰り返したため住まいこそしばしば変わりましたが、後半生は郷里での後進指導に重きを置いていました。瀬戸の陶芸や小原の和紙工芸の現在の発展の基礎は藤井が築いたと言って良いでしょう。瀬戸や小原(現豊田市)には栗木伎茶夫氏、山内一生氏、加納俊治氏など、直接藤井の教えを受けた方々の幾人かがご健在です。
藤井は昭和25(1950)年から31(1956)年まで碧南市の道場山に住んでいました。市内で藤井に接した方々も、西山町の岡島良平氏を最長老として、何人もいらっしゃいます。故郷での藤井の生活を支えたのは碧南市民をはじめとする藤井を敬愛する方々でした。「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた」というようなエピソードをきくこともあります。
後半生の藤井の作品は文人画的性格が強まりました。平安時代の継紙を現代に蘇らせ、独自の工夫で《継色紙風蓋物》(1947年;愛知県美術館所蔵)などの制作を多く行いました。そして昭和39(1964)年、岡崎で亡くなりました。83歳でした。
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『「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた」というようなエピソードをきくこともあります。』という前述があるように、そのような経緯のある作品のひとつでなないかと推察される本作品です。畳の上で筆の勢いにまかせて描いたかのように紙の跡が残る渇筆の優品、福田豊四郎の「冬木立」に替えて書斎の脇の床に飾りました。晩年の藤井達吉はこういう水墨画を自由な身で描いていたかったのだろうと思います。