夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

忘れ去られた画家 鳥海山 一木弴作 

2017-09-05 00:01:00 | 洋画
最近、義父は朝天気が良いと毎日5時前からイチジクを採りに出かけています。散歩に来た人も欲しがるので一緒に採っているようです。散歩で採りに来る人は義父が居ない日は、採ってきた代金(30円?/個)を支払いに早朝に我が家の玄関で「ピンポン~」。我が家は6時には皆起きて仕事にとりかかっていますので、それほど迷惑ではないのですが・・・

今年は雨も多く不作気味であり、大きなイチジクの木が枯れたこともあってそれほど数多くは採れないようです。ほんの少しだけ会社にて配りました。



本日紹介するのは我が郷里の出身の洋画家である「一木弴」です。「一木弴」を知っている人は少ないでしょう。わが郷里の出身の洋画家はそれほど多くはありませんが、本ブログで紹介したのは伊勢正義、伊藤弥太(日本画に転向)がいます。

男の隠れ家にあり、額が古く、絵の具も剥離してきていますので、額を新調して保管しておくことにしました。

鳥海山 一木弴作 
油彩額装 裏サイン有
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横 F8号



額を新調すると見栄えが良くなりましたが、額を選ぶのはなかなか難しいものです。いいものは結構言いお値段がしますし・・。



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一木弴:(いちきとん)明治38年(1898年)~昭和48年(1973年)。

明治31年に現在の秋田市土崎港中央一丁目に生まれた。父工藤規、母リセの次男で父は医院を開業していた。本名工藤国次郎。 18歳の時父が亡くなり、その後画家を志して上京し、日本美術院の山村耕花に師事し日本画を学んだ。しかし2年後には洋画に転向し、春陽会の長谷川昇に師事した。

春陽会は大正11年に、小杉放庵、岸田劉生、岡本一平、長谷川昇、木村荘八、梅原龍三郎、中川一政らがメンバーとなって結成されたものである。 一木は大正14年に春陽会に初入選し、昭和2年には第一回のY氏賞(のち昭和洋画奨励賞と改称)を受賞している。(第二回受賞者は東郷青児)

昭和11年に退会するまで、春陽会を主な発表の場とし、以後は個展を開催し、作品を発表している。 また、大正12年の江戸川乱歩「二銭銅貨」のさし絵をはじめ、戸川貞雄作「愛の航空路」(読売新聞)、今野賢三作「明暗の窓」(秋田魁新報夕刊)、村松梢風作「愛の国境」(同)など、さし絵画家としても活躍した。

男鹿半島・八郎潟の南に位置するアキタパーク美術館(天王町)の5000坪もある日本庭園の中に、一木弴の絵画館がある。

30歳代には裸婦を多く描き、マチスの影響がみられる明るい色彩が用いられたものが多い。風景を描いた作品ではモネ等の印象派の明るい色彩に影響を受けたものが多い。また、50、60歳代の作品には、グワッシュ(不透明水彩)や、墨を使ったものがある 。

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「風景を描いた作品ではモネ等の印象派の明るい色彩に影響を受けたものが多い。」という説明に適う作品かな? 資料から推定するに最晩年の昭和44年頃の作だと思います。




作品の裏には「鳥海山」とあります。



キャンバスの枠にも記されています。残念ながら製作年代は記されていません。

  

男の隠れ家にはいろんな作品がまだ眠っていそうですが、その歴史もまた同時に眠っていそうです。



最近は同じ年代の同僚が心筋梗塞、先週末には若い同僚が山で遭難して亡くなるなど身近の人が突然続けて亡くなっています。展示室で一人、冥福を祈るしかありません。今夕はお通夜です・・。


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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
装丁本 (かわじもとたか)
2019-05-29 11:02:42
龍膽寺雄『虹と兜蟲』の装丁本もしているそうですよ。
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装丁 (夜噺骨董談義)
2019-06-04 05:39:45
貴重な情報をありがとうございます。
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