テレワークの休み時間を利用して義母と最後の車庫の整理・・。すでにトラック4台分の残材を処分・・。ようやく愛車の軽ワゴンが車庫に入る見込みになってきました。
さて本日は本日は「島崎柳塢」の作品のその4の紹介となります。とくに本日の作品は「江口の君」を題材にした作品なので、「江口の君」について詳しく述べてみたいと思います。
江口之君図 島崎柳塢筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1930*横550 画サイズ:縦1060*横410
「普賢菩薩」の見立て絵として白像に乗った遊女の図は多くの画家が描いている画題です。
その遊女は「江口の君」・・・。
そのルーツは観阿弥の謡曲「江口」によります。
その謡曲は「西国行脚の旅僧が摂津国江口の里(大阪市東淀川区)に到ると、出会った女が、むかし、西行法師が宿を借りた時の問答歌(下記)を聞かせて、「自分はその時の遊女、江口の君「妙」の化身である」と告げて消え去る。旅僧がその跡を弔っていると、再び先ほどの遊女が侍女と共に舟に乗って現われ、舟遊びの様や歌舞を奏して楽しんでいたが、やがて、遊女(江口の君)は普賢菩薩と化して白雲に乗り西の空に消えていく。」というものです。
謡曲の詳細は下記の通りです。
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観阿弥の謡曲「江口」
諸国を回っている旅の僧が津ノ國の天王寺へ参詣しようと、淀川を舟で下り、江口の里へと着きました。 僧は里の男に『江口ノ君』の旧跡を尋ねて立ち寄ってみます。そこは西行法師が一夜の宿を請うたものの、断られたという古事のある処です。
僧がその時に西行の詠んだ和歌 「 世の中の 厭(いと)ふまでこそかたからめ 仮の宿りを惜しむ君かな 」 を口ずさんでいると、 一人の女人が現れて僧を呼び止め、 「その歌をどのように思われているのか」と問い、 宿を断った真意を申し上げたいと云います。
女人は 「 世を厭ふ人とし聞けば 仮の宿に 心とむなと思ふばかりぞ 」 の返歌と「決して、宿を貸すのを惜しんだのではありません。」と告げ、自分は江口ノ君の霊だと明かして黄昏の中へ消えて行きます。
僧は先の里の男から、江口ノ君が普賢菩薩となって顕現したという奇瑞を聞き、霊の供養を勧められます。夜も更け僧が弔いを始めると、月の澄みわたった川面に舟を浮かべ、二人の遊女を供なった江口ノ君が現れました。 江口ノ君は遊女の境遇を儚い花や雪、雲に例え和歌を詠い、同じように儚い自分達の身を嘆き、棹ノ歌を詠いながら舟遊びを始めます。
川を渡る舟にこの世をわたる因縁を重ね合わせ、「前世の先も来世の先も知り得ず、前果に因って人間界や天上界に生まれることもある」と、世の無常と執着の罪を説き静かに舞を舞ってみせます。
江口ノ君は「煩悩を解脱した清らかな大海には欲の風は吹かず、迷いを起こす波も起きません。 迷いは心を現世に留めるから生じます。心を留めなければ無常を嘆くこともないでしょう。」と仏道を説きます。
「仮の宿りに心を留むな とは悟りへ導くために諌めとして言った私です。 もうこれで帰ります。」と言い終えるやいなや江口ノ君は普賢菩薩へと姿を変え、乗っていた舟は白象(はくじょう)になりました。 そして光輝く白雲に包まれると西の空へと消えて行きました。
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「煩悩を解脱した清らかな大海には欲の風は吹かず、迷いを起こす波も起きません。 迷いは心を現世に留めるから生じます。心を留めなければ無常を嘆くこともないでしょう。」というのが「このような仮の宿(俗)に執着は なさらないように」という歌の意味ということでしょう。
何とはなしに本ブログで紹介した平櫛田中作の「気楽坊」を思い起こしました。「後水尾天皇は、徳川秀忠の娘と政略結婚させられたことに不満で、「世の中は 気楽に暮らせ何ごとも 思えば思う 思わねばこそ」という歌をつくり、気楽坊と名づけた指人形を作らせて、日々のやるせない気持ちを慰めたという。」という逸話から作ったという気楽坊・・。
気楽坊 伝平櫛田中作 その5
共箱
高さ445*幅448*奥行240
この世は執着があるから思い悩む・・・。
さてご存知かと思いますが、西行との問答歌は下記のものです。
問答歌 (新古今和歌集 巻十)
世の中を厭(いと)ふまでこそ難(かた)からめ、かりの宿りを惜しむ君かな:西行
「世を嫌って俗事から離れた暮らしを送る(出家する)ことは難かしいことであろうが、一夜の宿を貸すことぐらいは誰にでもできること、それさえ惜しんで(宿を)貸さない とは、あなたはよほど志の無い方ですね。」
世をいとふ人とし聞けば、かりの宿に心止(と)むなと思ふばかりぞ:江口妙
「俗世を嫌って出家した御方と伺っていましたから、このような仮の宿(俗)に執着は なさらないように。」
もともと「江口ノ君」は平資盛 (すけもり) の娘・妙 (たえ) と謂われています。平家没落の後、乳母を頼って江口の里へ身を寄せるものの、不幸が重なり 遊女になったといわれています。 妙が光相比丘尼として開創した寺、普賢院寂光寺は江口君堂と呼ばれている ここだけが戦禍を免れ、地元では「江口ノ君のお陰」と信仰を集めています。
白像に乗った遊女の図は多くの画家が描いている画題ですが、作品には江口の君を描いた作品もあれば、見立て図も多くあります。見立て図で有名なのは下記の作品です。
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勝川春章「見立江口の君図」
ボストン美術館所蔵
肉筆浮世絵展 江戸東京博物館
勝川春章の肉筆画「見立江口の君図」は、観阿弥の謡曲「江口」に題材をとった(見立てた)、「象に乗った遊女」の絵です。「見立て図」では、謡曲ので遊女江口の君が普賢菩薩と化すさまを、普賢菩薩は白象に乗った姿で表わされることが多いので、「白象に乗った江口の君(=普賢菩薩)」として表現されています。
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本ブログにおいて他の作品の説明においても記していますが、島崎 柳塢の来歴は下記の通りです。
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島崎 柳塢(しまざき りゅうう):慶応元年5月4日(1865年5月28日)~昭和12年(1938年)1月21日)。日本の明治時代から昭和時代の日本画家。特に美人画を能くした。川端画学校教授。
江戸牛込で生まれる。本名は友輔、字は子文、別号に黒水漁史、湘々亭、栩々山人、春岡外史など。
曽祖父は大田南畝の実弟・多田人成。父は酔山と号する清水赤城門下の漢学者で、東京では名門の一つとして知られていたという。幼少から父より漢学を学び、書は高田忠周に、詩を植村蘆洲に学び、小学生時代は夏目漱石と親しかった。
明治12年(1879年)桜井謙吉に洋画を、竹本石亭に南画を学んだあと、松本楓湖に師事する。しかし、明治14年(1881年)第2回内国勧業博覧会で川端玉章の「浜離宮秋景図」を見て感動し、その門人となる。玉章主催の天真画塾で学ぶ傍ら、明治18年(1885年)から同25年(1892年)まで大蔵省印刷局に勤務し、製版印刷技術を身につける。この時紋様図案を熱心に研究したことが、後の風俗美人画でも活されることになる。
明治24年(1891年)村田直景・丹陵親子と、同塾の若手・福井江亭らと日本青年絵画共進会の創立に尽力する。翌年の同会主催の第1回青年絵画共進会では審査員に推挙され、その後も同会の指導者的存在だった。
明治29年(1896年)三井呉服店から委嘱を受け、染色の意匠図案を手がける。同年発足した日本絵画協会にも参加し、有職故実に則した近世風俗画を発表するようになる。
明治30年(1897年)の第3回絵画共進会では、「春園」で二等褒状を受ける。しかし、日本絵画協会が次第に東京美術学校の若手で占められるようになり、翌31年(1898年)望月金鳳らの呼びかけに応じて日本画会の設立に参加し、その幹部となる。以後、日本美術院には参加せず、むしろ旧派の日本美術協会へ移る。日本美術院の観念的理想主義に対し、自然主義を唱えた无声会に参加し、ここで力作を発表した。
明治40年(1907年)東京勧業博覧会では「美音」で二等賞を受賞。明治45年(1912年)『柳塢半切畫集』を画報社から出版。文展には毎回出品したが、帝展改組後は関わりを持たなかった。
昭和12年(1938年)日暮里の自宅で没した。享年71。
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ちなみに本ブログで紹介された作品は下記の3作品です。
嬌羞 島崎柳塢筆 その1
絹本水墨着色軸装 軸先塗 共箱
全体サイズ:縦1917*横393 画サイズ:縦1100*横363
萩花麗人図 島崎柳塢筆 その2
紙本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1730*横550 画サイズ:縦1090*横410
瀧下大原女図 島崎柳塢筆 その3
絹本水墨着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1930*横650 画サイズ:縦1240*横510
島崎柳塢の作品は、東京国立博物館蔵として代表作「美音」のほかに下記の作品が所蔵されています。
「同い年」 島崎柳塢筆
東京国立博物館蔵 明治41年(1908) 絹本着色 183×100.6
それほど著名な画家ではありませんが、当方としてはそれゆえちょっと興味の湧く画家の一人です。
忘れるところでした本作品の落款と印章は下記の写真のとおりです。最近はどうも普賢菩薩の象や対となる文殊菩薩にも縁があるようです。(他のブログ参照)
著名な画家の美美人画は蒐集してもなんとなく飽きてきますが、著名でない画家の美人画を数点ずつ蒐集したほうが面白そうですね。まだ当方は現世に煩悩があるようです。
これを契機に当方には普賢菩薩やら文殊菩薩、釈迦三尊の作品が集まりだしました・・・・
さて本日は本日は「島崎柳塢」の作品のその4の紹介となります。とくに本日の作品は「江口の君」を題材にした作品なので、「江口の君」について詳しく述べてみたいと思います。
江口之君図 島崎柳塢筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1930*横550 画サイズ:縦1060*横410
「普賢菩薩」の見立て絵として白像に乗った遊女の図は多くの画家が描いている画題です。
その遊女は「江口の君」・・・。
そのルーツは観阿弥の謡曲「江口」によります。
その謡曲は「西国行脚の旅僧が摂津国江口の里(大阪市東淀川区)に到ると、出会った女が、むかし、西行法師が宿を借りた時の問答歌(下記)を聞かせて、「自分はその時の遊女、江口の君「妙」の化身である」と告げて消え去る。旅僧がその跡を弔っていると、再び先ほどの遊女が侍女と共に舟に乗って現われ、舟遊びの様や歌舞を奏して楽しんでいたが、やがて、遊女(江口の君)は普賢菩薩と化して白雲に乗り西の空に消えていく。」というものです。
謡曲の詳細は下記の通りです。
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観阿弥の謡曲「江口」
諸国を回っている旅の僧が津ノ國の天王寺へ参詣しようと、淀川を舟で下り、江口の里へと着きました。 僧は里の男に『江口ノ君』の旧跡を尋ねて立ち寄ってみます。そこは西行法師が一夜の宿を請うたものの、断られたという古事のある処です。
僧がその時に西行の詠んだ和歌 「 世の中の 厭(いと)ふまでこそかたからめ 仮の宿りを惜しむ君かな 」 を口ずさんでいると、 一人の女人が現れて僧を呼び止め、 「その歌をどのように思われているのか」と問い、 宿を断った真意を申し上げたいと云います。
女人は 「 世を厭ふ人とし聞けば 仮の宿に 心とむなと思ふばかりぞ 」 の返歌と「決して、宿を貸すのを惜しんだのではありません。」と告げ、自分は江口ノ君の霊だと明かして黄昏の中へ消えて行きます。
僧は先の里の男から、江口ノ君が普賢菩薩となって顕現したという奇瑞を聞き、霊の供養を勧められます。夜も更け僧が弔いを始めると、月の澄みわたった川面に舟を浮かべ、二人の遊女を供なった江口ノ君が現れました。 江口ノ君は遊女の境遇を儚い花や雪、雲に例え和歌を詠い、同じように儚い自分達の身を嘆き、棹ノ歌を詠いながら舟遊びを始めます。
川を渡る舟にこの世をわたる因縁を重ね合わせ、「前世の先も来世の先も知り得ず、前果に因って人間界や天上界に生まれることもある」と、世の無常と執着の罪を説き静かに舞を舞ってみせます。
江口ノ君は「煩悩を解脱した清らかな大海には欲の風は吹かず、迷いを起こす波も起きません。 迷いは心を現世に留めるから生じます。心を留めなければ無常を嘆くこともないでしょう。」と仏道を説きます。
「仮の宿りに心を留むな とは悟りへ導くために諌めとして言った私です。 もうこれで帰ります。」と言い終えるやいなや江口ノ君は普賢菩薩へと姿を変え、乗っていた舟は白象(はくじょう)になりました。 そして光輝く白雲に包まれると西の空へと消えて行きました。
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「煩悩を解脱した清らかな大海には欲の風は吹かず、迷いを起こす波も起きません。 迷いは心を現世に留めるから生じます。心を留めなければ無常を嘆くこともないでしょう。」というのが「このような仮の宿(俗)に執着は なさらないように」という歌の意味ということでしょう。
何とはなしに本ブログで紹介した平櫛田中作の「気楽坊」を思い起こしました。「後水尾天皇は、徳川秀忠の娘と政略結婚させられたことに不満で、「世の中は 気楽に暮らせ何ごとも 思えば思う 思わねばこそ」という歌をつくり、気楽坊と名づけた指人形を作らせて、日々のやるせない気持ちを慰めたという。」という逸話から作ったという気楽坊・・。
気楽坊 伝平櫛田中作 その5
共箱
高さ445*幅448*奥行240
この世は執着があるから思い悩む・・・。
さてご存知かと思いますが、西行との問答歌は下記のものです。
問答歌 (新古今和歌集 巻十)
世の中を厭(いと)ふまでこそ難(かた)からめ、かりの宿りを惜しむ君かな:西行
「世を嫌って俗事から離れた暮らしを送る(出家する)ことは難かしいことであろうが、一夜の宿を貸すことぐらいは誰にでもできること、それさえ惜しんで(宿を)貸さない とは、あなたはよほど志の無い方ですね。」
世をいとふ人とし聞けば、かりの宿に心止(と)むなと思ふばかりぞ:江口妙
「俗世を嫌って出家した御方と伺っていましたから、このような仮の宿(俗)に執着は なさらないように。」
もともと「江口ノ君」は平資盛 (すけもり) の娘・妙 (たえ) と謂われています。平家没落の後、乳母を頼って江口の里へ身を寄せるものの、不幸が重なり 遊女になったといわれています。 妙が光相比丘尼として開創した寺、普賢院寂光寺は江口君堂と呼ばれている ここだけが戦禍を免れ、地元では「江口ノ君のお陰」と信仰を集めています。
白像に乗った遊女の図は多くの画家が描いている画題ですが、作品には江口の君を描いた作品もあれば、見立て図も多くあります。見立て図で有名なのは下記の作品です。
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勝川春章「見立江口の君図」
ボストン美術館所蔵
肉筆浮世絵展 江戸東京博物館
勝川春章の肉筆画「見立江口の君図」は、観阿弥の謡曲「江口」に題材をとった(見立てた)、「象に乗った遊女」の絵です。「見立て図」では、謡曲ので遊女江口の君が普賢菩薩と化すさまを、普賢菩薩は白象に乗った姿で表わされることが多いので、「白象に乗った江口の君(=普賢菩薩)」として表現されています。
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本ブログにおいて他の作品の説明においても記していますが、島崎 柳塢の来歴は下記の通りです。
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島崎 柳塢(しまざき りゅうう):慶応元年5月4日(1865年5月28日)~昭和12年(1938年)1月21日)。日本の明治時代から昭和時代の日本画家。特に美人画を能くした。川端画学校教授。
江戸牛込で生まれる。本名は友輔、字は子文、別号に黒水漁史、湘々亭、栩々山人、春岡外史など。
曽祖父は大田南畝の実弟・多田人成。父は酔山と号する清水赤城門下の漢学者で、東京では名門の一つとして知られていたという。幼少から父より漢学を学び、書は高田忠周に、詩を植村蘆洲に学び、小学生時代は夏目漱石と親しかった。
明治12年(1879年)桜井謙吉に洋画を、竹本石亭に南画を学んだあと、松本楓湖に師事する。しかし、明治14年(1881年)第2回内国勧業博覧会で川端玉章の「浜離宮秋景図」を見て感動し、その門人となる。玉章主催の天真画塾で学ぶ傍ら、明治18年(1885年)から同25年(1892年)まで大蔵省印刷局に勤務し、製版印刷技術を身につける。この時紋様図案を熱心に研究したことが、後の風俗美人画でも活されることになる。
明治24年(1891年)村田直景・丹陵親子と、同塾の若手・福井江亭らと日本青年絵画共進会の創立に尽力する。翌年の同会主催の第1回青年絵画共進会では審査員に推挙され、その後も同会の指導者的存在だった。
明治29年(1896年)三井呉服店から委嘱を受け、染色の意匠図案を手がける。同年発足した日本絵画協会にも参加し、有職故実に則した近世風俗画を発表するようになる。
明治30年(1897年)の第3回絵画共進会では、「春園」で二等褒状を受ける。しかし、日本絵画協会が次第に東京美術学校の若手で占められるようになり、翌31年(1898年)望月金鳳らの呼びかけに応じて日本画会の設立に参加し、その幹部となる。以後、日本美術院には参加せず、むしろ旧派の日本美術協会へ移る。日本美術院の観念的理想主義に対し、自然主義を唱えた无声会に参加し、ここで力作を発表した。
明治40年(1907年)東京勧業博覧会では「美音」で二等賞を受賞。明治45年(1912年)『柳塢半切畫集』を画報社から出版。文展には毎回出品したが、帝展改組後は関わりを持たなかった。
昭和12年(1938年)日暮里の自宅で没した。享年71。
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ちなみに本ブログで紹介された作品は下記の3作品です。
嬌羞 島崎柳塢筆 その1
絹本水墨着色軸装 軸先塗 共箱
全体サイズ:縦1917*横393 画サイズ:縦1100*横363
萩花麗人図 島崎柳塢筆 その2
紙本水墨着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1730*横550 画サイズ:縦1090*横410
瀧下大原女図 島崎柳塢筆 その3
絹本水墨着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1930*横650 画サイズ:縦1240*横510
島崎柳塢の作品は、東京国立博物館蔵として代表作「美音」のほかに下記の作品が所蔵されています。
「同い年」 島崎柳塢筆
東京国立博物館蔵 明治41年(1908) 絹本着色 183×100.6
それほど著名な画家ではありませんが、当方としてはそれゆえちょっと興味の湧く画家の一人です。
忘れるところでした本作品の落款と印章は下記の写真のとおりです。最近はどうも普賢菩薩の象や対となる文殊菩薩にも縁があるようです。(他のブログ参照)
著名な画家の美美人画は蒐集してもなんとなく飽きてきますが、著名でない画家の美人画を数点ずつ蒐集したほうが面白そうですね。まだ当方は現世に煩悩があるようです。
これを契機に当方には普賢菩薩やら文殊菩薩、釈迦三尊の作品が集まりだしました・・・・