
本日は55年以上前に亡くなった父の命日です。中学1年の時だからもうそんなになる・・。
さて椿貞雄の作品は本日紹介する作品で2作品目となり、いずれも日本画の作品となります。先週末に投稿した「柿」の絵の続き??
柿と葡萄 椿貞雄筆
紙本淡彩紙装軸→額装
全体サイズ:縦820*横541 画サイズ:縦327*横417→額装

あらためて椿貞雄の画歴は下記ととおりとなります。
************************************
椿 貞雄:(つばき さだお)1896年2月10日 ~1957年12月29日。大正~昭和の洋画家。
1896年(明治29年)、山形県米沢市に生まれる。医師を目指し早逝した長兄の影響で画家を志すようになりました。
1914年(大正3年)に上京し、岸田劉生の個展を見て衝撃を受け、彼に会いに行こうと決意し、自作の油絵を携えて劉生の自宅に向かい、ここで自画像を褒められたことから、劉生との交流が始まります。椿は生涯劉生に師事し、劉生の画風に強く影響されながら作品を制作しました。
武者小路実篤をはじめとする白樺派のヒューマニズムに影響を受けた劉生は「油絵という西欧伝来の画法を用いて日本人の心を描く」という理想を抱いていました。椿はその理想に共鳴し、1915年、劉生とともに草土社の結成に参加することになります。この頃の椿の代表作に『冬枯れの道』があります。この後も春陽会、大調和会と画壇ではつねに劉生と行動をともにしました。
1917年劉生が結核の療養目的で神奈川県鵠沼に転居すると自らもそこに移り住み、頻繁に互いの家を往き来しました。 白樺派のヒューマニズムに影響を受けた劉生は「油絵という西欧伝来の画法を用いて日本人の心を描く」という理想を抱いており、椿はその理想に共鳴し、ともに草土社の創立に参加しています。草土社の画家たちは草や土までを克明に描き出すことで「内なる美」を描くことを目指しており独自の美術運動を展開しました。
1920年頃より劉生は東洋絵画に強い関心を抱き、日本画の制作も行っています。椿も日本画制作を開始し、代表作には『冬瓜図』があります。また、劉生の『麗子像』に影響されて幼女をデロリの表現を取り入れながら描く『童女像 (毛糸の肩掛をした菊子)』などの作品を発表しました。
1926年、船橋尋常高等小学校の図画教師として採用されたことで千葉県船橋市に転居。
1927年、慶応義塾幼稚舎の図画教師として勤務。
1929年に劉生が亡くなると椿はひどく悲しみ、制作に行き詰まるほどの状態となります。心配した周囲のものに洋行を勧められ、パリで個展を開催。帰国後は劉生の影響を感じさせないのびのびとした作風となり、日本の雄大な自然を明るくおおらかな作品に仕上げた『桜島』などの作品を描いています。劉生亡き後、椿はその理念の正当な継承者となります。自らの言葉「画道精進」に象徴されているように、生涯を閉じるまで、日本人の油絵を描き、写実の道を追及し続けました。
戦後、孫に囲まれた平和な暮らしが訪れると、それまでの重厚な色調に明るい大らかさが加わるようになりました。家族への愛情の中に新しい表現を見出したのでしょう。『祖母と孫』に代表される孫を温かい眼差しで描いた作品も多く残しており、義兄である白樺派同人、長與善郎は、椿が描いた愛情あふれる家族の肖像に対し、「愛情の画家・椿」という一文を草しました。そうした椿の暮らしぶりは彼の日記にも遺されています
1957年、千葉県船橋市で亡くなる。享年61歳。
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本作品は粗末な紙表具になっていた作品です。

落款はなく、印章のみです。

上述のように椿貞雄は、岸田劉生に師事し、油彩画を学ぶことから始まりました。二人は若い頃、近くに居を構え、画架を並べ作画に励みました。その後、椿は大正15(1926)年30歳の時、船橋尋常高等小学校の図画教員となったことをきっかけに船橋へ移り住み、61歳で死去するまで、この地で制作活動を行ないました。岸田劉生は洋画家として知られていますが、大正9(1920)年頃から東洋的傾向を強め、日本画の制作を始めます。劉生に続いて、椿も日本画に取り組みました。椿の作品は、墨で描き水彩絵具で着色していることが特徴であり、美術評論家・東珠樹はこれらの作品を「墨彩画」と呼んでいます。

岸田劉生と椿貞雄は机を並べて画業に励むことから始まり、少女像、自画像、静物画の油彩作品、そして日本画と岸田劉生の後を追うように同じような道を歩んだ椿貞雄を岸田劉生の亜流と揶揄されることもありますが、その画業は近年再評価されているようです。

たしかに岸田劉生の亡き後は制作に行き詰まるほどの状態になるなど、二人は一心同体ともいうべき仲でありましたが、「油彩による東洋の写実」に向き合うという絵への姿勢は不変で椿貞雄の画業もまた評価されるべきものです。

両者の日本画についても評価は高く、平成30年には船橋所蔵作品展が開催されています。

椿の代表的な画題のひとつが、冬瓜。冬瓜は南九州など暖かい地域で育つため、米沢育ちの椿は、劉生に教わるまで冬瓜を知らなかったそうです。肺結核と診断された劉生が、戸外での制作を断念して静物画を描くようになると、椿も静物画へ。冬瓜のごろっとした量感と、表面に粉をふいた質感を確実に捉えるため、毎年冬瓜を買い集めては写生を繰り返しました。静物と周囲との関係にも気を配り、その表現には文人画から学んだ手法も取り入れたそうです。

シミも発生してきていましたが、染み抜きせず、とりあえず額装にしてみました。

軸装の作品ばかりになるとちょっと飾るところが少なくなりますので、最近は額装の作品が増えてきました。
さて椿貞雄の作品は本日紹介する作品で2作品目となり、いずれも日本画の作品となります。先週末に投稿した「柿」の絵の続き??
柿と葡萄 椿貞雄筆
紙本淡彩紙装軸→額装
全体サイズ:縦820*横541 画サイズ:縦327*横417→額装

あらためて椿貞雄の画歴は下記ととおりとなります。
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椿 貞雄:(つばき さだお)1896年2月10日 ~1957年12月29日。大正~昭和の洋画家。
1896年(明治29年)、山形県米沢市に生まれる。医師を目指し早逝した長兄の影響で画家を志すようになりました。
1914年(大正3年)に上京し、岸田劉生の個展を見て衝撃を受け、彼に会いに行こうと決意し、自作の油絵を携えて劉生の自宅に向かい、ここで自画像を褒められたことから、劉生との交流が始まります。椿は生涯劉生に師事し、劉生の画風に強く影響されながら作品を制作しました。
武者小路実篤をはじめとする白樺派のヒューマニズムに影響を受けた劉生は「油絵という西欧伝来の画法を用いて日本人の心を描く」という理想を抱いていました。椿はその理想に共鳴し、1915年、劉生とともに草土社の結成に参加することになります。この頃の椿の代表作に『冬枯れの道』があります。この後も春陽会、大調和会と画壇ではつねに劉生と行動をともにしました。
1917年劉生が結核の療養目的で神奈川県鵠沼に転居すると自らもそこに移り住み、頻繁に互いの家を往き来しました。 白樺派のヒューマニズムに影響を受けた劉生は「油絵という西欧伝来の画法を用いて日本人の心を描く」という理想を抱いており、椿はその理想に共鳴し、ともに草土社の創立に参加しています。草土社の画家たちは草や土までを克明に描き出すことで「内なる美」を描くことを目指しており独自の美術運動を展開しました。
1920年頃より劉生は東洋絵画に強い関心を抱き、日本画の制作も行っています。椿も日本画制作を開始し、代表作には『冬瓜図』があります。また、劉生の『麗子像』に影響されて幼女をデロリの表現を取り入れながら描く『童女像 (毛糸の肩掛をした菊子)』などの作品を発表しました。
1926年、船橋尋常高等小学校の図画教師として採用されたことで千葉県船橋市に転居。
1927年、慶応義塾幼稚舎の図画教師として勤務。
1929年に劉生が亡くなると椿はひどく悲しみ、制作に行き詰まるほどの状態となります。心配した周囲のものに洋行を勧められ、パリで個展を開催。帰国後は劉生の影響を感じさせないのびのびとした作風となり、日本の雄大な自然を明るくおおらかな作品に仕上げた『桜島』などの作品を描いています。劉生亡き後、椿はその理念の正当な継承者となります。自らの言葉「画道精進」に象徴されているように、生涯を閉じるまで、日本人の油絵を描き、写実の道を追及し続けました。
戦後、孫に囲まれた平和な暮らしが訪れると、それまでの重厚な色調に明るい大らかさが加わるようになりました。家族への愛情の中に新しい表現を見出したのでしょう。『祖母と孫』に代表される孫を温かい眼差しで描いた作品も多く残しており、義兄である白樺派同人、長與善郎は、椿が描いた愛情あふれる家族の肖像に対し、「愛情の画家・椿」という一文を草しました。そうした椿の暮らしぶりは彼の日記にも遺されています
1957年、千葉県船橋市で亡くなる。享年61歳。
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本作品は粗末な紙表具になっていた作品です。

落款はなく、印章のみです。

上述のように椿貞雄は、岸田劉生に師事し、油彩画を学ぶことから始まりました。二人は若い頃、近くに居を構え、画架を並べ作画に励みました。その後、椿は大正15(1926)年30歳の時、船橋尋常高等小学校の図画教員となったことをきっかけに船橋へ移り住み、61歳で死去するまで、この地で制作活動を行ないました。岸田劉生は洋画家として知られていますが、大正9(1920)年頃から東洋的傾向を強め、日本画の制作を始めます。劉生に続いて、椿も日本画に取り組みました。椿の作品は、墨で描き水彩絵具で着色していることが特徴であり、美術評論家・東珠樹はこれらの作品を「墨彩画」と呼んでいます。

岸田劉生と椿貞雄は机を並べて画業に励むことから始まり、少女像、自画像、静物画の油彩作品、そして日本画と岸田劉生の後を追うように同じような道を歩んだ椿貞雄を岸田劉生の亜流と揶揄されることもありますが、その画業は近年再評価されているようです。

たしかに岸田劉生の亡き後は制作に行き詰まるほどの状態になるなど、二人は一心同体ともいうべき仲でありましたが、「油彩による東洋の写実」に向き合うという絵への姿勢は不変で椿貞雄の画業もまた評価されるべきものです。

両者の日本画についても評価は高く、平成30年には船橋所蔵作品展が開催されています。

椿の代表的な画題のひとつが、冬瓜。冬瓜は南九州など暖かい地域で育つため、米沢育ちの椿は、劉生に教わるまで冬瓜を知らなかったそうです。肺結核と診断された劉生が、戸外での制作を断念して静物画を描くようになると、椿も静物画へ。冬瓜のごろっとした量感と、表面に粉をふいた質感を確実に捉えるため、毎年冬瓜を買い集めては写生を繰り返しました。静物と周囲との関係にも気を配り、その表現には文人画から学んだ手法も取り入れたそうです。

シミも発生してきていましたが、染み抜きせず、とりあえず額装にしてみました。

軸装の作品ばかりになるとちょっと飾るところが少なくなりますので、最近は額装の作品が増えてきました。