七福神の絵をそれなりの画家の作品で揃えようと思うと結構難しいものです。
すべてが描かれた作品ではなく個々の作品では難しいです。集めてみようと思ったことはありませんが、興味のある方はチャレンジしてみたらいかがでしょうか?
福禄寿會図 伝中西耕石筆
絹本着色 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1990*横545 画サイズ:縦1325*横420
よく描かれた吉祥図です。
賛は「福禄寿會 耕石時年七十有一」とあり、明治11年(1878年)頃の製作と思われます。
巻き止めには「福禄寿會(美保出生祝) 明治13年8月」と記されており、描かれてから2年後ということになります。
求めに応じて中西耕石が女子誕生のために描き、巻き止めにその後記したのか、描いた中西耕石には誕生祝という意図が無かったのかは今となっては不明です。
女の子の誕生のお祝いの求めに応じて中西耕石が描いたように思えますが、私見によると其の目的に描いたようには思えません。
その理由は以下によります。
不老長寿の桃や霊芝などが描かれていますが、「福禄寿會図」とはどういう意味でしょうか?
まずは福禄寿とは・・、インターネットで調べますと
福禄寿(ふくろくじゅ) :七福神の一つ。福禄人ともいう。幸福と封禄と長寿を兼ね備えるという中国の福神。短身長頭で経巻を結んだ杖(つえ)を持つ姿に表現される。南極星の化身という説もあり、また寿老人と混同されることもままある。日本に導入されたのは、おもに禅宗の流布と関連する水墨画の題材としてであり、やがて七福神の一つに数えられるに至ったが、独自の福神としては一般の信仰対象にならなかった。
中国では、鶴・鹿・桃を伴うことによって、福・禄・寿を象徴する三体一組の神像や、コウモリ・鶴・松によって福・禄・寿を具現化した一幅の絵などが作られ広く用いられた。また、背が低く、長頭で長い髭をはやし、杖に経巻を結び、鶴を伴っている像とされています。
道教で強く希求される3種の願い、すなわち幸福(現代日本語でいう漠然とした幸福全般のことではなく血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(単なる長生きではなく健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものです。
宋の道士天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、七福神の寿老人と同体、異名の神とされることもあります。福禄人(ふくろくじん)とも言われています。
では本作品は「宋の道士天南星」、「七福神の寿老人」と福禄寿の3人を描いたものが本作品なのでしょうか?
もっと調べてみると面白いことが解ってきました。福禄寿はもともと3人であったということです。
インターネットによると
『福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、三体一組の神であったそうです。
中国において明代以降広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた「三星図」を飾る風習がああり、
1.福星は木星(十二次では歳星)とされ、多くは裕福な官服を着た黒髪の姿で三者の中心に描かれる。
2.禄星は「禄」 lù が「緑」 lù と同音のため緑色の服装で、豊かさを表す金銭や嬰児を抱いた姿で描かれることが多い。
3.寿星は南極老人星(カノープス)とされ、容貌は時期によって諸説あるが近代以降は禿げた長大な頭に白ひげをたくわえた老人とされることが多く、また厳密にはもともとこの寿星(南極老人)が単独で日本に伝わったのが寿老人である。
三星図は実にさまざまな形態で描かれるが、三者それぞれを人の姿ではなく意味や音韻に関連性がある象徴物として描くものも多く、そのバリエーションは多岐にわたる。中には、寿星だけを老人の姿で描き、その左右に福星を蝙蝠として(「福」 fú と「蝠」 fú が中国では同音のため)、禄星を鹿として(「禄」 lù と「鹿」 lù がやはり同音のため)描いたものなどもあり、こういった伝来物が日本人には二物を伴った一人の神に見えたため、日本においては福禄寿を三人ではなく一人の神格とする認識が流布したと考えられる。』
とのことで多少描く位置や着ている服に違いはあるもののこの「福星・禄星・寿星」を描いたものでしょう。
調べると結構面白いものです
右下には遊印が押印されています。
ところで富岡鉄斎の作品にほぼ同じ構図の作品があります。
清澄寺所蔵 「福禄寿会図」 鉄斎85歳作品
鉄斎が85歳ということから大正10年(1920年)作品であり、本作品のあとの製作ということになります。さてここで大きな疑問がでてまいります。あまりにも両作品の構図が似ていることです。古くからこのような図があったのか、はたまた後日、鉄斎の作品を模して、中西耕西に贋作を製作しかという疑いが出てきます。もしくは中西耕石ではない別の「耕石」という画家が鉄斎を模したのか・・?? とすると先に述べた巻き止めの記述も怪しくなります。
真実はいずれ後日ということに・・。
中西 耕石:1807年(文化4年) - 1884年(明治17年)1月9日)江戸時代後期から明治時代の日本画家。筑前国芦屋中小路(福岡県芦屋町)出身。名を寿平、後に寿。字は亀年。別号に竹叟、筌岡など。山水画、花鳥画に優品を残した。生家は陶工とも紺屋とも言われるがはっきりしない。
若くして上洛し、京都で松村景文に師事し四条派を学ぶと、大坂に出て漢学の篠崎小竹の門下となり、再び京都に戻ると小田海僊に南画を学び名声を得て、1882年(明治15年)には、京都府画学校の教授に就任した。
第1回内国絵画共進会で銅賞、第2回共進会では画学校設立に尽力した功績で絵事功労賞を受賞する。
日根対山と前田暢堂の3人で対暢耕とよばれた。日根対山と南画界の双璧と称される。門下に巨勢小石、吉嗣拝山、木村耕巌、藤堂候等
参考作品との比較
思文閣 墨蹟資料目録 「和の美」第423号 作品NO47「厳居高士図」 評価金額25万
ん~、この値段で買う人はいるのでしょうか
すべてが描かれた作品ではなく個々の作品では難しいです。集めてみようと思ったことはありませんが、興味のある方はチャレンジしてみたらいかがでしょうか?
福禄寿會図 伝中西耕石筆
絹本着色 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1990*横545 画サイズ:縦1325*横420
よく描かれた吉祥図です。
賛は「福禄寿會 耕石時年七十有一」とあり、明治11年(1878年)頃の製作と思われます。
巻き止めには「福禄寿會(美保出生祝) 明治13年8月」と記されており、描かれてから2年後ということになります。
求めに応じて中西耕石が女子誕生のために描き、巻き止めにその後記したのか、描いた中西耕石には誕生祝という意図が無かったのかは今となっては不明です。
女の子の誕生のお祝いの求めに応じて中西耕石が描いたように思えますが、私見によると其の目的に描いたようには思えません。
その理由は以下によります。
不老長寿の桃や霊芝などが描かれていますが、「福禄寿會図」とはどういう意味でしょうか?
まずは福禄寿とは・・、インターネットで調べますと
福禄寿(ふくろくじゅ) :七福神の一つ。福禄人ともいう。幸福と封禄と長寿を兼ね備えるという中国の福神。短身長頭で経巻を結んだ杖(つえ)を持つ姿に表現される。南極星の化身という説もあり、また寿老人と混同されることもままある。日本に導入されたのは、おもに禅宗の流布と関連する水墨画の題材としてであり、やがて七福神の一つに数えられるに至ったが、独自の福神としては一般の信仰対象にならなかった。
中国では、鶴・鹿・桃を伴うことによって、福・禄・寿を象徴する三体一組の神像や、コウモリ・鶴・松によって福・禄・寿を具現化した一幅の絵などが作られ広く用いられた。また、背が低く、長頭で長い髭をはやし、杖に経巻を結び、鶴を伴っている像とされています。
道教で強く希求される3種の願い、すなわち幸福(現代日本語でいう漠然とした幸福全般のことではなく血のつながった実の子に恵まれること)、封禄(財産のこと)、長寿(単なる長生きではなく健康を伴う長寿)の三徳を具現化したものです。
宋の道士天南星の化身や、南極星の化身(南極老人)とされ、七福神の寿老人と同体、異名の神とされることもあります。福禄人(ふくろくじん)とも言われています。
では本作品は「宋の道士天南星」、「七福神の寿老人」と福禄寿の3人を描いたものが本作品なのでしょうか?
もっと調べてみると面白いことが解ってきました。福禄寿はもともと3人であったということです。
インターネットによると
『福禄寿はもともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、三体一組の神であったそうです。
中国において明代以降広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた「三星図」を飾る風習がああり、
1.福星は木星(十二次では歳星)とされ、多くは裕福な官服を着た黒髪の姿で三者の中心に描かれる。
2.禄星は「禄」 lù が「緑」 lù と同音のため緑色の服装で、豊かさを表す金銭や嬰児を抱いた姿で描かれることが多い。
3.寿星は南極老人星(カノープス)とされ、容貌は時期によって諸説あるが近代以降は禿げた長大な頭に白ひげをたくわえた老人とされることが多く、また厳密にはもともとこの寿星(南極老人)が単独で日本に伝わったのが寿老人である。
三星図は実にさまざまな形態で描かれるが、三者それぞれを人の姿ではなく意味や音韻に関連性がある象徴物として描くものも多く、そのバリエーションは多岐にわたる。中には、寿星だけを老人の姿で描き、その左右に福星を蝙蝠として(「福」 fú と「蝠」 fú が中国では同音のため)、禄星を鹿として(「禄」 lù と「鹿」 lù がやはり同音のため)描いたものなどもあり、こういった伝来物が日本人には二物を伴った一人の神に見えたため、日本においては福禄寿を三人ではなく一人の神格とする認識が流布したと考えられる。』
とのことで多少描く位置や着ている服に違いはあるもののこの「福星・禄星・寿星」を描いたものでしょう。
調べると結構面白いものです
右下には遊印が押印されています。
ところで富岡鉄斎の作品にほぼ同じ構図の作品があります。
清澄寺所蔵 「福禄寿会図」 鉄斎85歳作品
鉄斎が85歳ということから大正10年(1920年)作品であり、本作品のあとの製作ということになります。さてここで大きな疑問がでてまいります。あまりにも両作品の構図が似ていることです。古くからこのような図があったのか、はたまた後日、鉄斎の作品を模して、中西耕西に贋作を製作しかという疑いが出てきます。もしくは中西耕石ではない別の「耕石」という画家が鉄斎を模したのか・・?? とすると先に述べた巻き止めの記述も怪しくなります。
真実はいずれ後日ということに・・。
中西 耕石:1807年(文化4年) - 1884年(明治17年)1月9日)江戸時代後期から明治時代の日本画家。筑前国芦屋中小路(福岡県芦屋町)出身。名を寿平、後に寿。字は亀年。別号に竹叟、筌岡など。山水画、花鳥画に優品を残した。生家は陶工とも紺屋とも言われるがはっきりしない。
若くして上洛し、京都で松村景文に師事し四条派を学ぶと、大坂に出て漢学の篠崎小竹の門下となり、再び京都に戻ると小田海僊に南画を学び名声を得て、1882年(明治15年)には、京都府画学校の教授に就任した。
第1回内国絵画共進会で銅賞、第2回共進会では画学校設立に尽力した功績で絵事功労賞を受賞する。
日根対山と前田暢堂の3人で対暢耕とよばれた。日根対山と南画界の双璧と称される。門下に巨勢小石、吉嗣拝山、木村耕巌、藤堂候等
参考作品との比較
思文閣 墨蹟資料目録 「和の美」第423号 作品NO47「厳居高士図」 評価金額25万
ん~、この値段で買う人はいるのでしょうか