夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

平福穂庵 その2 田楽 

2011-05-12 06:03:02 | 日本画
田楽 平福穂庵筆
紙本水墨淡彩絹装欄間額 画サイズ:縦295*横680



本作品は盛岡の骨董店「古陶庵」より購入したものです。購入金額は¥50,000円。当時(15年前)は掘り出し物と思って購入しましたが、今では3万以下でしょう。しかも表具の改装費用も後日かかりました。

秋田の旧家の押入れからうぶの状態で出てきたものとのこと。何気なく店に置いてあったものを思わず穂庵と確信し入手しました。



もとも欄間でしたが、表具が大分痛んでいたので改装しました。穂庵の筆に勢いのある作風の頃の作品。画力の非凡さが窺い知れる一作といえます。落款は「穂庵小芸」と読めます。





平福穂庵:弘化元年(1844),角館町染物業の太治右衛門(号:文浪)ときくの一人息子として生まれた。幼い頃から絵を描くことに興味を示し、父から絵を学んだ。

本格的に絵を学ぶようになったのは,父の師でもありこの地方の円山四条派の描き手として知られていた武村文海についた7歳からである。このころ既に「地蔵詣り」の図で,近所の人々を巧みに描き分け,その天与の才を示している。

名を芸,順蔵といい,10才の時にすでに文池という号をもらっていた。のちに穂庵と改めた。 11才のころ,ある僧の依頼を受けて毘沙門天や天台大師の像を描いて人を驚かしたという。穂庵の画業や学識形成を語る上で欠くことが出来ないのが12歳から5年間にわたる久保田(秋田)での学びの日々であった。角館出身の儒者森田宅に寄寓し,藩校「明徳館」に通った。漢詩の上達は特にめざましかった。

ある時,穂庵は中国の好画題としてよく描かれ,熟達した画師でも難しいとされた西園雅集図を穂庵が描くことになった。子どもに描けるわけがないといった,周囲の嘲笑に奮激した穂庵の作品は,同輩の塾生の認めるところとなった。

さらに17歳の時,秋田の西報寺の僧と秋田に滞在中の南画家に同行して京都に修業に行った。角館から仙岩峠を越え,中尊寺,松島,日光に立ち寄り,江戸に数日滞在してから京都に入った。22歳まで幕末の争乱の京都に遊学し,社寺に伝わる古画の模写や風物写生などを通して自己研鑽に努めている。しかし京都は不穏のちまたとなったため,父と共に北陸道をまわって明治元年に角館に戻った。明治維新の波が地方にも押し寄せてきて,穂庵は明治5年(1872)北海道に渡り,アイヌの生活を観察し,多くの写生画を残した。このときの実物写生が後の穂庵の独特な画法を生み出した。その後,秋田にもどり盛んに画作活動を行った。そして明治13年,こうして培ったリアリズムに基づく表現方法と古い形式にとらわれない描写で世に問うたのが「乞食図」の連作である。一つは明治13年(1880),秋田市で開かれた第3回秋田勧業博覧会に出品され,一等賞になったもう一つの作品も第2回観古美術会で褒状となるなど,穂庵の名を一気に高めた。


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2 コメント

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Unknown (越後獅子)
2011-05-12 12:41:18
はじめまして。
春が来た喜びが感じられる楽しい絵ですね。
雪国住まいの実感です。
 骨董談義さんのようにたくさんありませんが、主に江戸期の肉筆絵を収集しています。
 絵師について調べたり、美術館・博物館で
鑑賞するということも楽しい時間なのですが、
ときどきじっくりと一人で一幅の絵を観ていたいということがきっかけです。
 また時々立ち寄らせてください。 
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よろしく (夜噺骨董談義)
2011-05-13 07:03:59
越後獅子さん、ようこそ。
そうですね、美術館・博物館で観るのと自分のものを鑑賞するのとはかなり違います。美術館・博物館では決して理解できないものが実物にはありますし、自分で所有しないと解り得ないものがありますから。
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