なんとも不甲斐ないサッカーの試合・・。完全に相手方の狙いの術中にはまった感があるし、同じ失敗を繰り返していたようですね。仕事も近々に同じ展開の様相がありなんとも不甲斐ない・・・・。
さて我が郷里の洋画家、伊勢正義の作品を久方ぶりに紹介します。伊勢正義の作品も「その11」となりました。伊勢正義についての紹介は他のブログの記事も参考にしてください
港 伊勢正義画 その11
油彩額装 左下サイン
画サイズP10号:横530*縦409 全体サイズ:横743*縦618
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伊勢正義:1907-1985 昭和時代の洋画家。明治40年2月28日生まれ。藤島武二に師事。光風会展や帝展,第二部会展で受賞。昭和11年猪熊弦一郎,小磯良平らと新制作派協会(現新制作協会)を結成。戦後も同協会で活躍。昭和60年11月18日死去。78歳。秋田県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「バルコン」「キャバレー」など。
新制作協会会員の洋画家伊勢正義は、11月18日腎不全のため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。明治40(1907)年2月28日秋田県鹿角郡(大館市白沢)に生まれる。転勤の多かった父に伴い、各地を転々としたが、少年時代を小坂町で過ごした。当時の小坂町は鉱山の最盛期で、秋田県で北辺の土地でありながら、中央から直接文化が流れ込み、近代的・都会的な雰囲気が満ち溢れていた。演劇などの文化活動も盛んに行われ、芸術方面の関心が高い町だったと思われる。伊勢正義を同じ、日本画家の福田豊四郎(1904年~1970年)も同郷である。
昭和6年東京美術学校西洋画科卒業。藤島武二に師事。同8年20回光風会展に「女性」他3点を出品しK夫人賞を受け、翌九年光風会会員となり、同年の15回帝展に「カルトン」が初入選する。同10年22回光風会展に「無花果のある静物」他2点を出品、最初の光風特賞を受賞した。同10年松田改組に伴う第二部会展に「集ひ」を出品し、特選、文化賞を受けたが、翌年同志と官展を離れ、同年猪熊弦一郎、佐藤敬らと新制作派協会を結成、第1回展に「バルコン」「キャバレー」を出品した。同12年日動画廊で初の個展を開催。その後新制作協会の主要メンバーとして同協会展に制作発表を行い、近年はアラブ、アフリカの生活を題材にした作品で知られていた。また、日本貝類学会会員、国際教育振興会理事でもあった。
戦前の混乱期、また画壇の紛糾していた時代に製作活動を続けていた画家です。改めて見直すべき洋画家のひとりと言えるでしょう。
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我が郷里の近くには福田豊四郎もおり、戦後の日本を代表する日本画家と洋画家が同郷というのは非常の幸運なことです。こうして蒐集することで同郷の眼を通して作品を愉しむことができるからです。
左下のサインから「1969年(昭和44年)、62歳の時の作品。」と推定されます。
郷里の画家には日本画にはさらに平福父子、寺崎廣業らの日本画家がいます。郷里の画家の作品の蒐集は愉しいものです。少し憂さ晴らしの気分転換・・。
さて我が郷里の洋画家、伊勢正義の作品を久方ぶりに紹介します。伊勢正義の作品も「その11」となりました。伊勢正義についての紹介は他のブログの記事も参考にしてください
港 伊勢正義画 その11
油彩額装 左下サイン
画サイズP10号:横530*縦409 全体サイズ:横743*縦618
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伊勢正義:1907-1985 昭和時代の洋画家。明治40年2月28日生まれ。藤島武二に師事。光風会展や帝展,第二部会展で受賞。昭和11年猪熊弦一郎,小磯良平らと新制作派協会(現新制作協会)を結成。戦後も同協会で活躍。昭和60年11月18日死去。78歳。秋田県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「バルコン」「キャバレー」など。
新制作協会会員の洋画家伊勢正義は、11月18日腎不全のため東京都目黒区の東邦医大付属大橋病院で死去した。享年78。明治40(1907)年2月28日秋田県鹿角郡(大館市白沢)に生まれる。転勤の多かった父に伴い、各地を転々としたが、少年時代を小坂町で過ごした。当時の小坂町は鉱山の最盛期で、秋田県で北辺の土地でありながら、中央から直接文化が流れ込み、近代的・都会的な雰囲気が満ち溢れていた。演劇などの文化活動も盛んに行われ、芸術方面の関心が高い町だったと思われる。伊勢正義を同じ、日本画家の福田豊四郎(1904年~1970年)も同郷である。
昭和6年東京美術学校西洋画科卒業。藤島武二に師事。同8年20回光風会展に「女性」他3点を出品しK夫人賞を受け、翌九年光風会会員となり、同年の15回帝展に「カルトン」が初入選する。同10年22回光風会展に「無花果のある静物」他2点を出品、最初の光風特賞を受賞した。同10年松田改組に伴う第二部会展に「集ひ」を出品し、特選、文化賞を受けたが、翌年同志と官展を離れ、同年猪熊弦一郎、佐藤敬らと新制作派協会を結成、第1回展に「バルコン」「キャバレー」を出品した。同12年日動画廊で初の個展を開催。その後新制作協会の主要メンバーとして同協会展に制作発表を行い、近年はアラブ、アフリカの生活を題材にした作品で知られていた。また、日本貝類学会会員、国際教育振興会理事でもあった。
戦前の混乱期、また画壇の紛糾していた時代に製作活動を続けていた画家です。改めて見直すべき洋画家のひとりと言えるでしょう。
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我が郷里の近くには福田豊四郎もおり、戦後の日本を代表する日本画家と洋画家が同郷というのは非常の幸運なことです。こうして蒐集することで同郷の眼を通して作品を愉しむことができるからです。
左下のサインから「1969年(昭和44年)、62歳の時の作品。」と推定されます。
郷里の画家には日本画にはさらに平福父子、寺崎廣業らの日本画家がいます。郷里の画家の作品の蒐集は愉しいものです。少し憂さ晴らしの気分転換・・。