年末年始はコロナ禍で自宅で過ごしていましたが、息子共々時間を持て余すことになります。そこで宅急便で届いたダンボールで工作となりました。
カッターやハサミ、ガムテープで覆面パトカーの製作・・、段ボールで作ったのは家などもありますが、車はこれで何台目だろうか? パトランプ、サイドミラー、ドアロック、ルームミラーと段々付属の要望が多くなる・・
さて本日の作品紹介は池上秀畝の作品です。池上秀畝の作品紹介はこれで何作品目だろうか? それほど多くはないでしょうが、池上秀畝の得意とするのは鳥を題材にした作品ばかりのように思います。その中でも本作品は当方のお気に入りの作品のひとつです。
お気に入りの作品 夏来 池上秀畝筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2100*横572 画サイズ:縦1275*横426
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池上秀畝(いけがみ しゅうほ):1874年10月10日~1944年(昭和19年)5月26日。明治時代から昭和にかけての日本画家。特に山水・花鳥画を得意としています。
長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生まれ、本名は國三郎。
祖父である「池上休柳」は、家業は番頭に任せて高遠藩御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっています。
父「池上秀華」も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったようです。のちに秀畝が口述筆記させた自伝では、生まれた時からこのような環境だったので、絵の描き方を自然に覚えたと語っています。
明治22年(1889年)15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。「瀧和亭」、「川辺御楯」を訪ねましたが父は気に入らず、結局親戚から紹介され当時無名だった「荒木寛畝」の最初の門人・内弟子となり文人画を学んでいます。
師である荒木寛畝の画歴は下記のとおりです。
荒木寛畝:日本画家。江戸生。姓は田中、幼名は光三郎。荒木寛快に入門、のちその養子となり姓を継ぐ。山内容堂の知遇を受け、土佐藩の絵所預となっています。宮内庁買上げの栄誉を受け、60歳の還暦をすぎてその画名は高まり、従五位に叙せられ、勲六等瑞宝章を授けられ、名実ともに日本画の大家となっています。東美校教授(橋本雅邦の後任で東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任)。帝室技芸員。大正4年(1915)歿、85才。
画塾・読画塾を開いて後進の育成にもあたり、「畝」や「寛」の一字を号に持つ門人が46名、他に女性の門人36名ががいたようです。弟子に、荒木十畝、池上秀畝、、西沢笛畝、広瀬東畝、小村雪岱、三村竹清、三田平凡寺、五島耕畝、鈴木啓処、森白畝、横地一畝、高瀬五畝、上原桃畝、倉石松畝、松下雲畝、江森天寿、永田春水、関啓畝など。
池上秀畝は明治39年(1906年)同じ門下生の大岡豊子(緑畝)と結婚。同年、詩画堂塾と称していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、その会は太平洋戦争で自然解散する昭和17年まで続けられますが、秀畝はその中心人物となりました。
1916年から3年連続で文展特選となるも、1918年同志と共に新結社を結び、文展審査に不満を示し、文展改革の口火を切ることとなります。
1919年、発足したばかりの帝展で無鑑査。1933年、帝展審査員。伝神洞画塾を主宰し後進の指導に尽力しています。
晩年になっても力作を次々と発表しましたが、第二次世界大戦のさなかに狭心症にて70歳で没しています。
戒名は清高院殿韓山秀畝大居士。谷中霊園に葬られ、菩提寺はその近くの天台宗東叡山津梁院。昭和25年(1950年)伊那公園に、池上家三代の絵師を顕彰する『画人三代碑』が建てられています。
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当方にて一番最初に池上秀畝の作品を入手したのは、先代の表具師さんから表具代金の代わりに入手した作品を一万円で譲り受けたもの。もう30年近く前のことです。
本作品は晩年の作と推定しており、晩年の佳作のひとつと言えるでしょう。
箱書きなどは下記のとおりです。
印章については「帝都画伯大観」の印譜資料と比較しています。
印章は一致すると判断して相違ないでしょう。
現在では池上秀畝のファンの方は数少ないでしょうが、それでも根強い人気があるようです。
カッターやハサミ、ガムテープで覆面パトカーの製作・・、段ボールで作ったのは家などもありますが、車はこれで何台目だろうか? パトランプ、サイドミラー、ドアロック、ルームミラーと段々付属の要望が多くなる・・
さて本日の作品紹介は池上秀畝の作品です。池上秀畝の作品紹介はこれで何作品目だろうか? それほど多くはないでしょうが、池上秀畝の得意とするのは鳥を題材にした作品ばかりのように思います。その中でも本作品は当方のお気に入りの作品のひとつです。
お気に入りの作品 夏来 池上秀畝筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2100*横572 画サイズ:縦1275*横426
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池上秀畝(いけがみ しゅうほ):1874年10月10日~1944年(昭和19年)5月26日。明治時代から昭和にかけての日本画家。特に山水・花鳥画を得意としています。
長野県上伊那郡高遠町(現在の伊那市)に紙商兼小間物屋の次男として生まれ、本名は國三郎。
祖父である「池上休柳」は、家業は番頭に任せて高遠藩御用絵師に狩野派を学び、慶応2年(1866年)には自らの画論『松柳問答』を刊行、その翌年亡くなっています。
父「池上秀華」も、岡本豊彦から四条派を学び、祖父と同様、俳句や短歌を詠み、茶道や華道に凝るといった趣味三昧の生活ぶりだったようです。のちに秀畝が口述筆記させた自伝では、生まれた時からこのような環境だったので、絵の描き方を自然に覚えたと語っています。
明治22年(1889年)15歳で小学校を卒業後、本格的に絵師になるために父と共に上京。「瀧和亭」、「川辺御楯」を訪ねましたが父は気に入らず、結局親戚から紹介され当時無名だった「荒木寛畝」の最初の門人・内弟子となり文人画を学んでいます。
師である荒木寛畝の画歴は下記のとおりです。
荒木寛畝:日本画家。江戸生。姓は田中、幼名は光三郎。荒木寛快に入門、のちその養子となり姓を継ぐ。山内容堂の知遇を受け、土佐藩の絵所預となっています。宮内庁買上げの栄誉を受け、60歳の還暦をすぎてその画名は高まり、従五位に叙せられ、勲六等瑞宝章を授けられ、名実ともに日本画の大家となっています。東美校教授(橋本雅邦の後任で東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授に就任)。帝室技芸員。大正4年(1915)歿、85才。
画塾・読画塾を開いて後進の育成にもあたり、「畝」や「寛」の一字を号に持つ門人が46名、他に女性の門人36名ががいたようです。弟子に、荒木十畝、池上秀畝、、西沢笛畝、広瀬東畝、小村雪岱、三村竹清、三田平凡寺、五島耕畝、鈴木啓処、森白畝、横地一畝、高瀬五畝、上原桃畝、倉石松畝、松下雲畝、江森天寿、永田春水、関啓畝など。
池上秀畝は明治39年(1906年)同じ門下生の大岡豊子(緑畝)と結婚。同年、詩画堂塾と称していた寛畝塾は、新たに詩画会を起こし、その会は太平洋戦争で自然解散する昭和17年まで続けられますが、秀畝はその中心人物となりました。
1916年から3年連続で文展特選となるも、1918年同志と共に新結社を結び、文展審査に不満を示し、文展改革の口火を切ることとなります。
1919年、発足したばかりの帝展で無鑑査。1933年、帝展審査員。伝神洞画塾を主宰し後進の指導に尽力しています。
晩年になっても力作を次々と発表しましたが、第二次世界大戦のさなかに狭心症にて70歳で没しています。
戒名は清高院殿韓山秀畝大居士。谷中霊園に葬られ、菩提寺はその近くの天台宗東叡山津梁院。昭和25年(1950年)伊那公園に、池上家三代の絵師を顕彰する『画人三代碑』が建てられています。
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当方にて一番最初に池上秀畝の作品を入手したのは、先代の表具師さんから表具代金の代わりに入手した作品を一万円で譲り受けたもの。もう30年近く前のことです。
本作品は晩年の作と推定しており、晩年の佳作のひとつと言えるでしょう。
箱書きなどは下記のとおりです。
印章については「帝都画伯大観」の印譜資料と比較しています。
印章は一致すると判断して相違ないでしょう。
現在では池上秀畝のファンの方は数少ないでしょうが、それでも根強い人気があるようです。