本日より仕事始めで6時前には出勤です。一昨日帰京したばかりでブログの原稿に手を付ける時間もなく、昨年末に書き上げた原稿そのままにとりあえず本日は投稿します。帰省も慌ただしく、今年もなんやかんやと忙しい日々になりそうです。
古そうな京焼の作品には香炉が意外多いように感じます。香を焚く習慣が広く見られるからなのでしょうか? その代表例が京焼の香炉なのですが、時代が遡ると「古清水焼」と単に「清水焼」という分類に突き当たります。その違いは微妙かと思いますが、それはそれで根拠のあるもののようです。
このあたりをテーマにした作品は本ブログでもいくつかの作品を紹介しましたが、改めて本日はそのような話題をもとに作品を紹介します。
古?清水焼 色絵龍鳳凰青海波文七宝繋透彫灯篭形香炉
合箱入
幅155*奥行150*高さ195
本日紹介するこの作品は江戸後期頃から明治にかけての頃の作か? 古清水焼か清水焼かの境目に位置する作品のように思えますが。基本的には古清水焼に分類するのには抵抗のある方が多かろうと思います。
そもそも「古清水」という名称は、制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。
一般的には、野々村仁清以後 奥田穎川(1753~1811年)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称します。
なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。
野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造しましたが、その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成されたと言っていいでしょう。
野々村仁清の作品は色絵ではありませんが、本ブログのでは「さび絵」(野々村仁清は色絵より下記の作品のような「さび絵」の作品に真髄があるという評価もあります。)の作品を紹介しています。
瀬戸写菖蒲錆絵茶入 伝野々村仁清作
仕覆付 金森宗和箱書 二重箱
高さ105*最大胴径55*口径31*底径34
粟田口の窯にはじまる京都の焼物は,金森宗和(1584~1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(生没年未詳)によって大きく開花します。仁清は,粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。また当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。その後,寛永期(1624~44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品は後に「古清水」と呼ばれるようになります。
それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658~61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(1663~1743)の出現によって画期をむかえることとなります。乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として,世上の好評を博しました。しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。
町売りが主流となりつつあった明和年間(1764~72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,ほとんどの者が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。そんな中,五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。
江戸初期には,肥前有田(ありた,佐賀県西松浦郡有田地方)などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804~30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。そんな中,京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(1753~1811)です。
氏素性の解らぬ作品 呉州赤絵写五角鉢 伝奥田潁川作
時代箱(菓子鉢 唐絵鉢)入
全体サイズ:幅155*155*高さ70
頴川の門人には青木木米を筆頭に仁阿弥道八,青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(1765~1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。しかし,幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。
柿本人麻呂像 伝仁阿弥道八造
塗古保存箱
幅230*高さ250*奥行き135
幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(1824~84)によって制作された「京薩摩」が海外で大きく評価されました。しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。しかし,その後は,伝統的な高級品趣向,技術的な卓越さ,個人的・作家的な性格を強めながら生産を継続し,六代目清水六兵衛など多くの陶芸家を輩出しました。
角花紋花瓶 伝高橋道八作
共箱
口径角*胴幅60角*底径角*高さ220
第2次大戦後には清水焼団地(山科区川田清水焼団地町)などへと生産の地を広げ,走泥社(そうでいしゃ)が新しい陶芸運動を行うなど陶芸の地として世界的に知られるようになり,昭和52年3月に「京焼・清水焼」として通産省より伝統的工芸品の指定を受けるに至っています。
清水焼と古清水焼の見分け方は当方では明確には解りませんが、経験上は下記のことが言えると思います。
近現代の清水焼の釉薬は大変透明感が強くさらさらしているようです。文様が緑色の下に生地の貫入が透けて見えている作品が多いようです。
下記の作品は「古清水焼」として入手した作品ですが、おそらく近代に近い作でしょう。古清水には分類されない作品のように思います。
清水焼 扇面菊花紋様図 番鹿細工香炉
合箱
幅100*奥行き90*高さ163
「古清水」に確実に分類されている作品は青の釉薬などが透けて見えることはなく、ねっとりとした不透明で盛り上がり感がある釉薬が使われています。とくに古い赤はよりどす黒さに近い濃い赤と言われています。
土は硬くてすべすべしていますが、本来古清水の土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするもののようです。基本的に高台の裏などに窯印はまずありません。窯印のあるものは古清水焼より若い物と明確に区別されています。
本ブログでは下記の作品群が「古清水焼」として紹介されています。
古清水焼(栗田焼) 色絵布袋唐子香炉
合箱入
幅170*奥行130*高さ146
松竹梅図茶巾筒 古清水焼
口径48*底径65*高さ75
伝古清水焼(堆朱手) 色絵草花文三足香炉など
合箱入
径80*高さ75
さて本日の作品の紹介写真の戻ります。
上記の作品群に比べて釉薬に透明感があることから時代は下がるように思えます。
瀟洒で華麗な感じのする作品には相違ないですが・・・。
明治以降の作ではないかと推定していますが、入手時の説明では「古清水焼」、「江戸期」でした。
時代が下がる可能性があるとはいえ、このような手の込んだ作品で完品は意外に少ないと思います。よく虫籠の形をした「七宝繋透彫」の作品を見かけますね。
龍と鳳凰文がいいですね。鳳凰なのか朱雀なのかは不明ですが、四方神が描かれる場合は朱雀として鳳凰とは区別して呼ばれているはずですから・・。
ちなみに朱雀は鳳凰であるとも言われていますが、朱雀は多種多様な鳥類の特徴を併せ持った伝説上の生物です。伝説の中での鳳凰の鳳には5彩があり、赤を朱雀・黄を鵷雛・青を鸞・紫を鸑鷟・白を鴻鵠ということから、朱雀は鳳凰から派生したものと考えられているようです。そして、炎から生まれたといわれるフェニックスも同じ要素を持つようです。
各種の言い伝えがあるようですが、龍と鳳凰がともにあらわれると龍鳳呈祥といって、とても縁起が良くおめでたい吉兆だといわれています。食器や中国の縁起物では、よくこの龍と鳳凰の共柄を目にします。
古清水焼の作品で代表的な作例には下記の作品があります。
色絵七宝透文手焙
高:19.8×幅:25.8×奥:17.7㎝
江戸時代中期(18世紀)
京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品
木瓜型に菊唐草を配し,胴と蓋に七宝繋ぎ文の透かし彫りを入れた手焙ですが、竹耳や竹脚をあしらい,内側全面に金箔を押すなど装飾性を高め,高い技巧とともに優雅な趣味を見せています。仁清以来透かし彫りの手法は,京焼の得意とするところですが,本作品の意匠は京都で培われてきた独特のものです。
やはり古清水焼の釉薬は濃い色合いがベースとなっています。さて、本作品が古清水焼と称していいかどうかですが、厳密には呼ばないほうがいいでしょう。ただかなり古清水焼に似通ったデザインになっていることには相違ない作品でしょう。
考察:作品の分類やルーツというのは具体的な作品を例にとると意外に個人では無理があるように思います。個人所有の作品は贔屓目の目線になったり、手近に見本となる作品が少ないせいもあるのでしょう。謙虚に謙虚に後学を積んでいきたいと思います。
今年は謙虚に謙虚に・・・????
古そうな京焼の作品には香炉が意外多いように感じます。香を焚く習慣が広く見られるからなのでしょうか? その代表例が京焼の香炉なのですが、時代が遡ると「古清水焼」と単に「清水焼」という分類に突き当たります。その違いは微妙かと思いますが、それはそれで根拠のあるもののようです。
このあたりをテーマにした作品は本ブログでもいくつかの作品を紹介しましたが、改めて本日はそのような話題をもとに作品を紹介します。
古?清水焼 色絵龍鳳凰青海波文七宝繋透彫灯篭形香炉
合箱入
幅155*奥行150*高さ195
本日紹介するこの作品は江戸後期頃から明治にかけての頃の作か? 古清水焼か清水焼かの境目に位置する作品のように思えますが。基本的には古清水焼に分類するのには抵抗のある方が多かろうと思います。
そもそも「古清水」という名称は、制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前の、また、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。
一般的には、野々村仁清以後 奥田穎川(1753~1811年)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称します。
なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。
野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造しましたが、その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成されたと言っていいでしょう。
野々村仁清の作品は色絵ではありませんが、本ブログのでは「さび絵」(野々村仁清は色絵より下記の作品のような「さび絵」の作品に真髄があるという評価もあります。)の作品を紹介しています。
瀬戸写菖蒲錆絵茶入 伝野々村仁清作
仕覆付 金森宗和箱書 二重箱
高さ105*最大胴径55*口径31*底径34
粟田口の窯にはじまる京都の焼物は,金森宗和(1584~1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(生没年未詳)によって大きく開花します。仁清は,粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。また当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。その後,寛永期(1624~44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品は後に「古清水」と呼ばれるようになります。
それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658~61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(1663~1743)の出現によって画期をむかえることとなります。乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として,世上の好評を博しました。しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。
町売りが主流となりつつあった明和年間(1764~72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,ほとんどの者が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。そんな中,五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。
江戸初期には,肥前有田(ありた,佐賀県西松浦郡有田地方)などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804~30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。そんな中,京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(1753~1811)です。
氏素性の解らぬ作品 呉州赤絵写五角鉢 伝奥田潁川作
時代箱(菓子鉢 唐絵鉢)入
全体サイズ:幅155*155*高さ70
頴川の門人には青木木米を筆頭に仁阿弥道八,青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(1765~1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。しかし,幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。
柿本人麻呂像 伝仁阿弥道八造
塗古保存箱
幅230*高さ250*奥行き135
幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(1824~84)によって制作された「京薩摩」が海外で大きく評価されました。しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。しかし,その後は,伝統的な高級品趣向,技術的な卓越さ,個人的・作家的な性格を強めながら生産を継続し,六代目清水六兵衛など多くの陶芸家を輩出しました。
角花紋花瓶 伝高橋道八作
共箱
口径角*胴幅60角*底径角*高さ220
第2次大戦後には清水焼団地(山科区川田清水焼団地町)などへと生産の地を広げ,走泥社(そうでいしゃ)が新しい陶芸運動を行うなど陶芸の地として世界的に知られるようになり,昭和52年3月に「京焼・清水焼」として通産省より伝統的工芸品の指定を受けるに至っています。
清水焼と古清水焼の見分け方は当方では明確には解りませんが、経験上は下記のことが言えると思います。
近現代の清水焼の釉薬は大変透明感が強くさらさらしているようです。文様が緑色の下に生地の貫入が透けて見えている作品が多いようです。
下記の作品は「古清水焼」として入手した作品ですが、おそらく近代に近い作でしょう。古清水には分類されない作品のように思います。
清水焼 扇面菊花紋様図 番鹿細工香炉
合箱
幅100*奥行き90*高さ163
「古清水」に確実に分類されている作品は青の釉薬などが透けて見えることはなく、ねっとりとした不透明で盛り上がり感がある釉薬が使われています。とくに古い赤はよりどす黒さに近い濃い赤と言われています。
土は硬くてすべすべしていますが、本来古清水の土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするもののようです。基本的に高台の裏などに窯印はまずありません。窯印のあるものは古清水焼より若い物と明確に区別されています。
本ブログでは下記の作品群が「古清水焼」として紹介されています。
古清水焼(栗田焼) 色絵布袋唐子香炉
合箱入
幅170*奥行130*高さ146
松竹梅図茶巾筒 古清水焼
口径48*底径65*高さ75
伝古清水焼(堆朱手) 色絵草花文三足香炉など
合箱入
径80*高さ75
さて本日の作品の紹介写真の戻ります。
上記の作品群に比べて釉薬に透明感があることから時代は下がるように思えます。
瀟洒で華麗な感じのする作品には相違ないですが・・・。
明治以降の作ではないかと推定していますが、入手時の説明では「古清水焼」、「江戸期」でした。
時代が下がる可能性があるとはいえ、このような手の込んだ作品で完品は意外に少ないと思います。よく虫籠の形をした「七宝繋透彫」の作品を見かけますね。
龍と鳳凰文がいいですね。鳳凰なのか朱雀なのかは不明ですが、四方神が描かれる場合は朱雀として鳳凰とは区別して呼ばれているはずですから・・。
ちなみに朱雀は鳳凰であるとも言われていますが、朱雀は多種多様な鳥類の特徴を併せ持った伝説上の生物です。伝説の中での鳳凰の鳳には5彩があり、赤を朱雀・黄を鵷雛・青を鸞・紫を鸑鷟・白を鴻鵠ということから、朱雀は鳳凰から派生したものと考えられているようです。そして、炎から生まれたといわれるフェニックスも同じ要素を持つようです。
各種の言い伝えがあるようですが、龍と鳳凰がともにあらわれると龍鳳呈祥といって、とても縁起が良くおめでたい吉兆だといわれています。食器や中国の縁起物では、よくこの龍と鳳凰の共柄を目にします。
古清水焼の作品で代表的な作例には下記の作品があります。
色絵七宝透文手焙
高:19.8×幅:25.8×奥:17.7㎝
江戸時代中期(18世紀)
京都市立芸術大学芸術資料館収蔵品
木瓜型に菊唐草を配し,胴と蓋に七宝繋ぎ文の透かし彫りを入れた手焙ですが、竹耳や竹脚をあしらい,内側全面に金箔を押すなど装飾性を高め,高い技巧とともに優雅な趣味を見せています。仁清以来透かし彫りの手法は,京焼の得意とするところですが,本作品の意匠は京都で培われてきた独特のものです。
やはり古清水焼の釉薬は濃い色合いがベースとなっています。さて、本作品が古清水焼と称していいかどうかですが、厳密には呼ばないほうがいいでしょう。ただかなり古清水焼に似通ったデザインになっていることには相違ない作品でしょう。
考察:作品の分類やルーツというのは具体的な作品を例にとると意外に個人では無理があるように思います。個人所有の作品は贔屓目の目線になったり、手近に見本となる作品が少ないせいもあるのでしょう。謙虚に謙虚に後学を積んでいきたいと思います。
今年は謙虚に謙虚に・・・????