夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

氏素性の分からぬ作品 セント・アイヴスの作? 流黄釉花瓶花瓶 その2 伝バーナード・リーチ作

2024-12-03 00:01:00 | 陶磁器
畑で見つけたトカゲ・・。



畑で見つけた変な大根・・、こちら側はオトコ・・・??



裏はオンナ・・・・??



さてこちらはインターネットオークションで見つけた氏素性の解らぬ作品?



セント・アイヴスの作? 流黄釉花瓶 その2 伝バーナード・リーチ作
高台脇マーク押印 合箱
胴径160*高台径*高さ240



なんとも面白そうな釉薬が気になり入手しました。




もしかしたらバーナードリーチの作品かもしれません。バーナードリーチの陶歴は下記のとおりですが・・・。

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バーナード・リーチ:(1887-1979):香港に生まれますが、生後まもなく母を亡くしたリーチは、日本在住の祖父に引き取られ、京都や彦根で幼少時を過ごしています。

帰英後、美術学校に学んだリーチは、日本への憧れを募らせ、1909(明治42)年に再来日します。白樺派の同人や岸田劉生などに銅版画を教えていましたが、そこで「白樺」最年少の同人であった柳宗悦と親交を深めます。その後招かれた茶会で楽焼に接して激しい興味を抱き、6世尾形乾山に入門、楽焼についで本焼の技法を修得し、本格的な陶工として立つに至ります。富本憲吉が、リーチに触発されて、同じく陶芸に転じたのはよく知られていることです。

柳宗悦を通して濱田庄司とも知り合ったリーチは、1920(大正9)年、濱田と共に帰国、英国のセント・アイヴスに登窯を築いて作陶を行なうことになります。以後ここを本拠としつつ国際的な活躍をつづけ、次第に高い評価を得ます。92年の生涯のうち、長短あわせて11回来日、各地で制作や講演を行い、柳・濱田・河井寛次郎らの民藝運動に寄与。東西文化の融合を陶芸を通して具現しています。著作には数多くの陶工にバイブルと称される A Potter's Book(1955)や、柳宗悦の民藝についての東洋的考察をまとめた The Unknown Craftsman(1972)などがあります。



補足:濱田といっしょにイギリス西南部のコーンウォール州のセント・アイヴスにヨーロッパ最初の登り窯を築いた彼らはセント・アイヴスで西洋と東洋の美や哲学を融合させた陶磁器を作り朝鮮や日本、中国の日用陶器に注目したほかスリップウェアや塩釉、硫化鉛の釉薬ガレナ釉であるといったイギリスやドイツの忘れられつつあった伝統的な日用陶器にも着目してその技法をマスターしています。リーチはデッサン力に優れ、陶器にみごとな絵付けをほどこしました。



リーチは実用より美学的関心を優先させた純粋芸術としての陶芸に対し、実用的な日用陶器を作ることを擁護しました。リーチは陶磁器に重要なのは絵画的な絵柄でも彫刻的な装飾でもなく、日用品としての用を満たす器の形状や触覚だと考えました。このため、リーチの制作スタイルは1950年代から1960年代のミッドセンチュリーのアメリカ合衆国でカウンターカルチャーやモダニズム・デザインに大きな影響を及ぼします。




リーチは近代的で協同組合的なワークショップを運営して、一般大衆向けの手作り陶磁器のラインナップを制作することを切望しており、世界中からリーチ・ポタリーに陶芸家が弟子にやってきて、リーチの様式と信念を世界に広げていきます。




例えば、カナダから来た見習い陶芸家達は1970年代にかけてバンクーバーを中心としたカナダ西海岸に活発な陶芸シーンを形成した。

アメリカ人の弟子たちの中にはウォレン・マッケンジー(WarrenMacKenzie、彼もミネソタ大学で多くの後進の陶芸家に影響を与えた)やバイロン・テンプル(Byron Temple)、クラリー・イリアン(Clary Illian)、ジェフ・ウェストリッチ(Jeff Oestrich)といった陶芸家がいます。

ニュージーランドの陶芸の第一人者レン・キャッスル(Len Castle)も1950年代半ばにイギリスへ旅しリーチと働いて大きな影響を受けました。

また長年リーチの助手だったマイケル・カーデューやオーストリアで陶芸を修めた後にナチスから逃れてイギリスに渡りリーチの影響を受けたルーシー・リーらは、リーチと協力しあるいは競いながらイギリス陶芸の地位向上に努めています。

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1919年(大正8)5月、リーチの仕事場が火事により焼失していますが、原因はリーチによる窯の焚きすぎであったといいます。窯場を失ったリーチに手をさしのべたのが黒田清輝でした。黒田はリーチに経済的援助を申し出、黒田の麻布邸に窯を造り、リーチに提供したのです。窯は安孫子から煉瓦が運ばれ、師・六代乾山の手により築かれました。この麻布時代にリーチは安孫子時代と同様、楽焼、ストーンウェア( 炻器せっき )、磁器などを制作します。特に磁器の上絵付けの技術を磨いたようです。 

1920年(大正9)6月、33歳のリーチは約11年の日本での生活を終え、イギリスに帰国します。子どもに本国で教育を受けさせたかったことと、イギリスの伝統陶芸を研究しようと思ったのが帰国理由であったようです。リーチと母国伝統の陶器スリップウェアに関して、次のようなエピソードが残っています。ある日、奈良から上京した富本憲吉は日本橋丸善で買い求めた洋書『風変わりなイギリス古陶』(チャールズ・ロマックス著、1909年)を携えて、上野桜木町のリーチ宅を訪れました。その本には器の表面に線模様や抽象文様を描く18世紀の陶器スリップウェアの写真が掲載されていました。富本は所持金を使い果たしてしまっていて、奈良に帰るための旅費をリーチに借りようとしたところ、それを見たリーチは興奮して、自分がじっくりと見終わるまでは旅費は貸さないと応じたといいます。結局富本は購入した本をリーチ宅に残したまま奈良に帰らざるを得ませんでした。リーチは異国の地で陶芸に出会いましたが、それまで知らなかった母国の伝統的な陶器にも出会ったのでした。

帰国直前の5月にリーチは柳宗悦と共に朝鮮に旅行しています。滞在は一週間ほどでしたが、リーチは李朝の陶器に魅了されたようです。現地を案内した朝鮮古陶磁研究者・浅川 伯教のりたか はリーチが「朝鮮の青磁のあの淡雪晴れの空の様な柔らかさと湖水の面の様な深さとに見入って、この色を出して見たい、この色の気持が非常に好きだ」と述べたと証言しています。また「自分は朝鮮のものに一番近い」とも話したそうです(鈴木禎宏『バーナード・リーチの生涯と芸術』84頁)。日本で修行したリーチは以後、陶芸家として中国宋代や李氏朝鮮といった大陸の磁器を重要視します。「中国の形、朝鮮の線、日本の色」がリーチの日本における到達点であり、イギリスでの出発点であると考えられています。

帰国に際し、リーチは濱田庄司に渡英を勧めます。同年9月、イングランド南西部のセント・アイブズで陶芸工房「リーチ・ポタリー」を構え、二人は協力して 築窯ちくよう と創作活動に励むことになります。

ところで本作品はバーナードリーチの作品だという確証はまったくありませんのでご了解願います。




あるとしたら高台脇の刻印ですが、片方に印からはセント・アイヴスの窯印だと推定されますが、もう一方の印の判読は解りかねますね。



なんとなく「BL」に見えるのですが、この刻印も簡単に模倣され、贋作もたくさんあるので真贋についてはまったく不明です。

偶然見つけたものたち・・・・???




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