夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

根強い人気の画家 寒山人家図 山元春挙筆 その15

2021-08-23 00:01:00 | 掛け軸
BS朝日のテレビ番組「百年名家 築100年の家を訪ねる旅」で2021年6月27日(日)に放映された「日本画の巨匠が残した珠玉の数寄屋建築~琵琶湖の畔 山元春挙「記恩寺 蘆花浅水荘」」を観た方が多いかもしれません。続編が2021年7月4日(日)にあるようです。



山元春挙の画家とは別の一面が解ったような気がする番組でしたね。その中で縁側の天井に20メートル近い北山杉が使われていました。さすがに少し細めの材料です。



当では義父が建てた家の応接室から座敷の縁側までにも一本の北山杉が使われているようです。外から見ると軒下のサッシュの上に使われており、残念ながら丸太全体を見せる使い方ではないです。



蘆花浅水荘の材料と比較して太さは倍、長さは短めでおそらく15メートルほどか? 縁側の内側から見ると下記の写真のようになりますが、観る人がみないと北山杉の丸太とはわからないかもしれませんね。



約15メートル亥、これが現代では限界?のようで、そもそも近所の運搬ではトレーラーに積んで運ぶのに運搬の認可ができないようです。



下記写真の出窓の上の壁際にある材がそうですが、これが次の座敷の縁側まで通っています。私なら通しで見せる使い方をしますね。



他の構造部材は庭内にあったという欅であり、仕上げ材もすべて庭内にあった材料のようです。



エアコンの収納スペースは欅の無垢材です。



腰板は桑かな? この幅の材料は今はあるのかな??



玄関にはやはり北山丸太杉が使われています。私なら玄関ドアも木製にするかな??



上がり框は欅・・、今ではプリントや貼物が多くなり、本物の見分けが解る御仁はなかなかいませんね。



さて 蘆花浅水荘の主であった山元春挙は、雄大な山岳風景を題材に写実的で壮大なスケールの作品を次々と発表し、新時代の到来を感じさせる革新的な画家として人気を博しました。明治天皇に好んだという山元春挙の作品は展示室に飾るとやはり堂々とした感じが出ます。



寒山人家図 山元春挙筆 その15
絹本水墨軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横630*縦2060 画サイズ:横500*縦1380

 

山元春挙を表現するならば「迫力あるの風景画」、「中国絵画を学び、その源泉は中国絵画」、「故事、先人の絵を基に新風を興す画風」、「山岳風景での新機軸」、「山元春挙流の青緑山水図 こだわったのは青と緑」、そして「描いたは理想の世界」ということでしょうか?



本作品は明治期の初期の頃の作か?



福田平八郎が雪をスケッチするために滋賀県北西岸の今津に出かけたおり、帰路にて偶然に山元春挙と出会ったことがあり、今津に雪の写生に行ってきたと伝えると「君は花鳥画を描いているのだから、今津の雪は駄目ですね。ふうわりとした積もり方はしない。ふわ~とした雪を描くなら三方を山に囲まれた風の少ない京都だ。」と示唆され、山元春挙の自然に対する着眼の鋭さに感銘を受けたという福田平八郎の文章があります。



あらためて山元春挙の画歴は下記のとおりです。

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山元春挙:(やまもと しゅんきょ)明治4年11月24日(1872年1月4日) ~昭和8年(1933年)7月12日)。
明治から昭和初期にかけて活動した円山四条派の日本画家。

滋賀県滋賀郡膳所町(現在の大津市中庄付近)で生まれる。祖父は、戦前の修身教科書において勤勉な商人の鏡として紹介された高田善右衛門。本名は金右衛門。幼名は寛之助。別号に円融斎、一徹居士。

打出小学校卒業後、12.3歳で遠縁にあたる京都の日本画家野村文挙に入門、その後文挙が上京したため、明治18年(1885年)文挙の師森寛斎に学ぶ。翌年の京都青年絵画共進会に「呉孟」「菊に雀」を出品、一等褒状を受ける。

明治24年(1991年)、竹内栖鳳、菊池芳文らと青年絵画懇親会を結成。同年、京都私立日本青年絵画共進会の審査員となり「黄初平叱石図」(西宮市大谷記念美術館蔵)を出品、二等賞銀印となる。

明治27年(1994年)に師寛斎が亡くなり、同年如雲社の委員となる。

明治32年(1899年)京都市立美術工芸学校の教諭となる。翌年、画塾同攻会(1909年に早苗会と改称)を組織し、展覧会を開く。

明治34年(1901年)第7回新古美術品展に出品した「法塵一掃」が1等2席となり、春挙の出世作となる。

明治40年(1907年)文展開設にあたり、竹内栖鳳らと共に審査委員を命ぜられる。

大正6年(1917年)6月11日帝室技芸員に任命される。同年、故郷の近くに別荘・蘆花浅水荘(国の重要文化財)を営み、のち庭内に記恩寺を建立、寛斎と父の像を安置した。

大正8年(1919年)帝国美術院会員となる。この頃、地元膳所焼の復興を目指し、初代伊東陶山・岩崎建三らと新窯を開く。

大正11年(1922年)パリ日仏交換展に「義士隠栖」(三の丸尚蔵館蔵)・「秋山図」を出品し、サロン準会員となる。

大正15年(1926年)フランス政府より、シュヴァリエ・ドラ・レジョン・ドヌール勲章を授与された。

昭和3年(1928年)大嘗祭後の大饗の席に用いる「主基地方風俗歌屏風」を制作する。

昭和8年7月12日死去。享年63。15日従四位に叙せられた。戒名は奇嶽院春挙一徹居士。墓は等持院。

竹内栖鳳と共に、近代京都画壇を代表する画家である。 画風は、四条派の伝統を受け継ぎつつも西洋の刺激を受け、墨彩や色彩表現を豊麗さへと徹底的に純化した表現に特色がある。こうした画風は、千總など絵を享受する京の大店に支持された。明治天皇も春挙のファンで、亡くなる際、床の間に掛かっていたのは春挙の作品だったという。

門下生:春挙門下四天王​ 川村曼舟 小村大雲 庄田鶴友 服部春陽
    植中直斎 歌川豊国 (6代目)  勝田哲 川島梅関 川畑春翠 久保田竹文 小早川秋聲 
    小林春樵 斉内一秀 柴田晩葉 杉本哲郎 高井梅渓 高橋秋華 武田鼓葉 玉舎春輝 
    中島菜刀 中野春郊 中野早雲 西井敬岳 花岡萬舟 林文塘 広本進 古谷一晁 前田一鴬
    梥本一洋 三宅鳳白 村田陶苑 山下竹斎 山元春汀(桜月)- 甥 山本倉丘 渡辺幾春
    
*上記にて下線のある画家は本ブログにて作品紹介されている作品です。

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本作品はまだ荒削りの感のする作品ですね。



初期に当たる明治期の作からでしょうか?



明治末、大正期、昭和になって洗練された画風になってきているように感じます。



忘れ去れた画家とも感じますが、竹内栖鳳や横山大観とも違う画風にまだ根強いファンがいるようです。虎の大橋翆石、山岳の山元春挙ともいえるのでしょう。



このような作品を飾れる床の間のある家が少なくなりました。



共箱の二重箱となっています。

 

落款の字体などから当方の他の所蔵作品「瀑布之図」と同時期と思われます。

  

山元春挙の作品は共箱では落款と印章が表になっていることがあります。そして二重箱の場合は出し入れの擦れでそれらが痛みますので、必ず題字カバーが必要です。題字カバーがない場合は、さらに二重箱の外箱がきつい場合で題字カバーが無理なら紙などを間に挟んでおきましょう。

 

本作品も入手時には擦れており、箱表の印章が判読が難しくなっていました。題字カバーがないと共箱を損ないかねませんね。


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