夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

和漢諸名家筆蹟縮図 第一巻 寺崎廣業筆

2018-09-21 00:01:00 | 日本画
急に母が亡くなって、東京の病院で看取ってからすぐに郷里に遺体を送る手配。遺体を送る手段は陸路と空路がありますが、今回は郷里に早く着く陸路を選びました。亡くなった当日の昼には遺体を送り出してから、地元での手配をしながら帰郷の準備をして夕方には家内と息子と新幹線に飛び乗りました。新幹線で新青森に着いてからは在来線に乗り換えてさらに弘前で乗り継ぎました。



弘前のホームでは夜遅くなり寂しい旅ですが、家族というのは有難いものです。悲しい旅でも気が安らぐ時があります。

さて本日紹介する作品はもともとは母の実家にて所蔵していた作品ですが、一度手放されることになりそうだったのですが、知り合いからの紹介で縁あって当方の所蔵となりました。本作品は寺崎廣業を語る上でなくてはならない資料的価値のある作品です。



和漢諸名家筆蹟縮図 寺崎廣業筆
水墨淡彩巻物三巻 鳥谷幡山昭和29年鑑定箱入二重箱 
高さ283*長さ畳4畳分/巻



改めてわが郷土出身の画家である寺崎廣業の経歴を下記に記しておきます。

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寺崎広業:放浪の画家といわれた寺崎広業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれた。寺崎家も藩の重臣であった。父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられた。幼児から絵を好みすぐれていたというが貧しく、10代半ば独り秋田に帰り牛島で素麺業をやったりしたという。

秋田医学校にも入ったが学費が続かなかった。結局好きな絵の道を選び、16歳で手形谷地町の秋田藩御用絵師だった狩野派の小室秀俊(怡々斎)に入門、19歳で阿仁鉱山に遊歴の画家第一歩を印したが、鹿角に至った時戸村郡長の配慮で登記所雇書記になった。生活はようやく安定したが絵への心は少しも弱まらなかった。広業には2人の異父弟佐藤信郎と信庸とがいたが、東京小石川で薬屋を営んでいた信庸のすすめで上京した。1888年(明治21年)春23歳のことである。

上京すると平福穂庵、ついで菅原白龍の門をたたいた。広業は4か月でまた放浪の旅に出るが、穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていた。足尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓し美人画で名を挙げた。

1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をした。ここで諸派名画を模写し広業の総合的画法の基礎を築いたといわれる。1892年(明治25年)に結婚し向島に居を構えた。

火災に遭って一時長屋暮らしをしたこともあったが、1898年(明治31年)東京美術学校助教授に迎えられた。翌年、校長の岡倉天心排斥運動がおこり、天心派の広業は美校を去った。天心と橋本雅邦は日本美術院を興し、橋本門下の横山大観・下村観山らと広業もこれに参加した。1900年(明治33年)には秋田・大曲・横手に地方院展を開催、故郷に錦を飾った。

広業は翌1901年(明治34年)年、美術学校教授に復し天籟散人と号し、また天籟画塾を設け、野田九浦、正宗得三郎、中村岳陵、牧野昌広ら300人ほどの門下を育成している。

1904年(明治37年)には日露戦争の従軍画家となり、その経験を生かして木版画による戦争絵、美人画、花鳥画を多く描いており、軍神橘大隊長と知り合ったが健康を害して3か月で帰国した。

1907年(明治40年)には第1回文展が開催されて日本画の審査員となり、自ら大作「大仏開眼」を出品した。1912年(大正元年)の文展には「瀟湘八景」を出して同名の大観の作品とならび評判作となった。

1913年(大正2年)には美術学校の日本画主任となり、1917年(大正6年)6月11日には帝室技芸員を命ぜられ、芸術家として斯界の最上段に立つようになった時、病気になる。広業は1919年(大正8年)2月、54歳を一期に世を去った。異父弟佐藤信郎が耳鼻咽喉科医として脈を取るという印象的な場面であったという。村松梢風の『本朝画人伝』によれば咽喉癌であった。その葬儀に三千人も会葬したほど、かつての放浪の画家といわれた。

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整理すると

久保田藩に重臣の子→廃藩置県で事業を起こすも失敗→麵屋の手伝い→医者を目指すも学費が続かず→狩野派の小室秀俊に入門→阿仁鉱山→鹿角で登記所雇書記→上京し平福穂庵に入門→東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵を描く→→美人画で名を成す→結婚し向島へ転居→火災→東京美術学校助教授→岡倉天心排斥運動→日本美術院に参加→美術学校教授に復帰→天籟画塾を設立→日露戦争の従軍画家→文展審査員→地位の確立→帝室技芸員→咽頭がん罹患→死亡

まさしく放浪の画家? 



*上記に記載の通り、本作品は「諸派名画を模写」:明治22年~24年頃に「諸派名画を模写し広業の総合的画法の基礎を築いたといわれる。」頃の作品か? 

また秋田県立美術館の紹介記事には「明治22年平福穂庵の紹介により入社した東陽堂では古画などの縮図に取り組み、各流派の特徴を学び取りながら腕を上げた。」とあります。

ただしこれらの縮図粉本は火災に遭って失っているとされていた可能性があります。その後の後世の作とも考えられますが、奇跡的に縮図は遺っていたとすると、この遺っている作品を門下の鳥谷幡山が昭和29年に巻物に仕立てと推察されます。



昭和29年に鳥谷幡山により編集され、箱書きされた作品と推察されます。鳥谷幡山の鑑定箱に収められており、塗箱の二重箱が誂えられています。



努力の画家と称されるように天性の資質よりも後世の努力によって名を成した画家と言われています。その努力の痕跡がこの作品で辿ることができます。

第一巻の冒頭からは鳥谷幡山による寺崎廣業の略歴から始まります。



第一巻は人物画を特集したような図柄でまとめられています。



狩野探幽の粉本の縮図から始まっています。



まさしく「和漢諸名家筆蹟縮図」という題にふさわしい内容の作品が羅列されています。



「明治22年平福穂庵の紹介により入社した東陽堂では古画などの縮図に取り組み、各流派の特徴を学び取りながら腕を上げた。」という記録そのままの資料と当方では判断しています。



明治30年頃の火災で今までの作品が失われたとされており、寺崎廣業が「これからは私自身の作ができる。」と前向きの話したという逸話がありますが、粉本縮図は遺っていたのではないかと推察される資料です。



寺崎廣業は後日、横山大観と比する画家として名を成しますが、天才というより放浪、努力の画家と言われています。



この縮図粉本はずべての修業の資料ではなくもっとたくさんあったと思われ、まさしく当時の修業の一端を垣間見る思いです。



狩野派、土佐派、住吉派、四条派、いろんな絵画を縮図に粉本したというのは資料として持ち歩けるようにしたのではないかとも思われます。



過去の作品を粉本したということは、後日粉本主義に陥ったと狩野派が批判されましたが、寺崎廣業はいろんな流派から学びとった技法を己の中で昇華していった画家でもあります。



ただ、横山大観、菱田集草らの朦朧体のように近代画壇を形成した流れで時代が変わる前に亡くなったのは残念です。



また名を成したがゆえに作品を所望されることも多く、作品を乱発したことも評価を下げる原因となり、地元秋田を中心に贋作が横行したことも評価を下げる原因となりました。



現在では寺崎廣業の名を知る人も少なくなりましたが、地元秋田では最近展覧会が開催されており、これからまた評価されることを祈っています。



寺崎廣業は人物画では美人画が有名ですが、この縮図には美人画は一切ありません。美人画を描くことで著名となる契機となりましたが、この縮図は美人画を作成した後での作品と推察されます。



「尾銅山に赴いて阿仁鉱山で知りあった守田兵蔵と再会し、紹介されて日光大野屋旅館に寄寓し美人画で名を挙げた。1年半で帰郷し穂庵の世話で東陽堂の「絵画叢誌」で挿絵の仕事をした。ここで諸派名画を模写し広業の総合的画法の基礎を築いたといわれる。」という記録を読み返してみました。



縮図には出来の良いものもあれば、出来の悪そうなものもありますが、そのまま実写するのではなく、縮図という観点からはかなりの出来と評価されます。



数が数ですので、一巻づつ本ブログで紹介したいと思います。



一点ずつだとかなりの写真の量となり、忙しい合間での撮影ですので、写真の写りの悪いのはご容赦願います。



撮影するのは子供が寝してしまう夜・・、あたふたと広げての撮影です。



巻末の鳥谷幡山の説明を読み解く時間もありません・・



一部を拡大して見てみましょう。









今まで埋もれていた資料です。どこかで再評価されればと思います。まだ第一巻目の紹介ですが、内容が豊富で紹介しきれるかどうか・・。本来は郷里の美術館に展示すべきものでしょうが、今は小生が所蔵するのがふさわしいと思っています。
















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