先日は近くの公園まで花見・・。(おそらくこの記事が投稿される一か月前)
すでにこの公園にはウイークデイに義母と家内と息子の三人で来たようですが、小生と来たいという息子の要望があったようです。花見と共に一緒に公園内を散策したかったようです。散策しながら桜以外の花見・・、まずはヤマブキ。
タチツボスミレ。
キイチゴ。
キブシ。
クロモジ。 花には疎い、もとい花にも疎い小生は家内に「これはなんという花?」と尋ねながらの散策。息子は上機嫌で道案内をしてくれました。
さて大日本魚類画集の作品をなんとなく蒐集し始めていますが、まだまだすべて集めるには時間と費用がかかりそうです。おそらくすべて揃うのは生きているうちには無理かもしれません。また発刊当時の説明書が付いている作品も意外に市場には多いのですが、これもらのすべて説明書を揃えるとなるとどうもマニアックなことになりそうですね。
ところで蒐集して気がついたのは、最初の頃に発刊した作品が市場に出回る作品数が多いわりに、後半以降に発刊された作品が出回る数が少ないことです。なぜなのでしょう??
後に解ってきたのですが、前半は500部限定、後半は300部限定になっています。需要と供給のバランスか? 世情も大きく影響したのでしょう。
**さらに最初頃の作品のほうが出来がいいらしいようです。紙質も違うような気がしますが、これは発刊時期が次第に戦時中になっていくことに関連しているように思います。
大日本魚類画集 NO119 マツカサウオ図 大野麥風画
紙本淡彩額装 版画 1942年11月第1回
画サイズ:縦280*横400(版木サイズ:272*3902) 発刊当時のタトウ付
発刊当時のタトウが遺っている貴重な作品と思われますが、画集の版木部分のサイズは270*391と誤差は範囲でしょうがミリ単位でサイズが違います。また前述のように紙質が本紙、資料ともども薄い材質となっていますが、この辺りは後刷か否かの確認が必要かもしれません。
大日本魚類画の作品には保存状態の悪い作品が多く、少しでもヤケなどのある作品は避けた方がいいようです。これほどきれいな版画シリーズにはヤケのある作品は致命傷のように思われます。
マツカサウオは発光魚として知られていますが、それが判明したのは意外に遅く、1914年に富山県魚津町(現・魚津市)の魚津水族館で停電となった時、偶然見つけられたそうです。
発光器は下顎に付いていて、この中に発光バクテリアを共生させているようですが、どのように確保するのかは不明で、薄い緑色に発光し、日本産はそれほど発光力は強くないとされますが、オーストラリア産の種の発光力は強いとされるようです。しかし、発光する理由まではまだよく判っておらず、チョウチンアンコウなどのように餌を惹きつけるのではないかという可能性があると推察されています。
夜行性で体色は薄い黄色ですが、生まれたての幼魚は黒く、成長するにつれて次第に黄色味を帯びた体色へと変わっていきますが、成魚になると黄色味も薄れ、薄黄色となるそうです。昼間は岩礁の岩の割れ目などに潜み、夜になると餌を求めて動き出す夜行性です。
背鰭と腹鰭は強力な棘となっており、外敵に襲われた時などに背鰭は前から互い違いに張り出して、腹びれは体から直角に固定することができるそうです。生きたまま漁獲後、クーラーボックスで暫く冷やすとこの状態となり、魚を板の上にたてることができるとのこと。驚くことにこの状態の時には鳴き声を聞くこともできるとか・・。
和名の由来通り、マツの実のようにややささくれだったような大きく、固い鱗が特徴で、その体は硬く、鎧を纏ったような姿ゆえに英語ではKnight Fish、Armor Fishと呼び、パイナップルにも似た外観からPinapple fishと呼ぶときもあるようです。
日本でもその固い鱗に被われた体からヨロイウオ、鰭を動かすときにパタパタと音を立てることからパタパタウオとも呼ぶ地方もあるそうです。
体は比較的小さく、成魚でもせいぜい15cm程で、体に比べ、目と鱗が大きく、その体の構造はハコフグ類にも似ています。そして、その体の固さから動きは遅く、遊泳力は緩慢で、体の柔軟性も失われています。 餌は主に夜行性のエビなどの甲殻類だといわれる。
なお味はよく、食用とされています。
本作品は運よく説明書が付いています。封筒が京都版画院となっていますが、大日本魚類画集を発刊した西宮書院は現在の京都版画院・・??
調べてみると戦災にあった発行元の西宮書院は、戦後京都に移って京都版画院と名称を変えて活動を続け、現在の京都版画院となっていいるようです。戦前の西宮書院からは山川秀峰や大野麦風、和田三造など著名な絵師が作品を発表していたようです。
栞の添付から後摺ではないように思いますが確証はありません。
近代の版画は初版刷、生存中の刷り、後刷など摺の時期については、非常に判断が難しく、面倒なことに評価が全く違います。版画は基本的にはマニアックな世界ですのでちょっと距離を置いています。現在は川瀬巴水、吉田博など人気がある版画作品ですが、初版刷、生存中の刷り、後刷などの区分けなど蒐集する側にはものすごい労力が要るのでしょうね。
その点、大日本魚類画集については贋作や後摺が見られません。おそらくその200度摺というのは後世では無理だったのでしょう。また蒐集するにつれて当時の関わった人々のいろんなことが解ってくるのも楽しみです。
すでにこの公園にはウイークデイに義母と家内と息子の三人で来たようですが、小生と来たいという息子の要望があったようです。花見と共に一緒に公園内を散策したかったようです。散策しながら桜以外の花見・・、まずはヤマブキ。
タチツボスミレ。
キイチゴ。
キブシ。
クロモジ。 花には疎い、もとい花にも疎い小生は家内に「これはなんという花?」と尋ねながらの散策。息子は上機嫌で道案内をしてくれました。
さて大日本魚類画集の作品をなんとなく蒐集し始めていますが、まだまだすべて集めるには時間と費用がかかりそうです。おそらくすべて揃うのは生きているうちには無理かもしれません。また発刊当時の説明書が付いている作品も意外に市場には多いのですが、これもらのすべて説明書を揃えるとなるとどうもマニアックなことになりそうですね。
ところで蒐集して気がついたのは、最初の頃に発刊した作品が市場に出回る作品数が多いわりに、後半以降に発刊された作品が出回る数が少ないことです。なぜなのでしょう??
後に解ってきたのですが、前半は500部限定、後半は300部限定になっています。需要と供給のバランスか? 世情も大きく影響したのでしょう。
**さらに最初頃の作品のほうが出来がいいらしいようです。紙質も違うような気がしますが、これは発刊時期が次第に戦時中になっていくことに関連しているように思います。
大日本魚類画集 NO119 マツカサウオ図 大野麥風画
紙本淡彩額装 版画 1942年11月第1回
画サイズ:縦280*横400(版木サイズ:272*3902) 発刊当時のタトウ付
発刊当時のタトウが遺っている貴重な作品と思われますが、画集の版木部分のサイズは270*391と誤差は範囲でしょうがミリ単位でサイズが違います。また前述のように紙質が本紙、資料ともども薄い材質となっていますが、この辺りは後刷か否かの確認が必要かもしれません。
大日本魚類画の作品には保存状態の悪い作品が多く、少しでもヤケなどのある作品は避けた方がいいようです。これほどきれいな版画シリーズにはヤケのある作品は致命傷のように思われます。
マツカサウオは発光魚として知られていますが、それが判明したのは意外に遅く、1914年に富山県魚津町(現・魚津市)の魚津水族館で停電となった時、偶然見つけられたそうです。
発光器は下顎に付いていて、この中に発光バクテリアを共生させているようですが、どのように確保するのかは不明で、薄い緑色に発光し、日本産はそれほど発光力は強くないとされますが、オーストラリア産の種の発光力は強いとされるようです。しかし、発光する理由まではまだよく判っておらず、チョウチンアンコウなどのように餌を惹きつけるのではないかという可能性があると推察されています。
夜行性で体色は薄い黄色ですが、生まれたての幼魚は黒く、成長するにつれて次第に黄色味を帯びた体色へと変わっていきますが、成魚になると黄色味も薄れ、薄黄色となるそうです。昼間は岩礁の岩の割れ目などに潜み、夜になると餌を求めて動き出す夜行性です。
背鰭と腹鰭は強力な棘となっており、外敵に襲われた時などに背鰭は前から互い違いに張り出して、腹びれは体から直角に固定することができるそうです。生きたまま漁獲後、クーラーボックスで暫く冷やすとこの状態となり、魚を板の上にたてることができるとのこと。驚くことにこの状態の時には鳴き声を聞くこともできるとか・・。
和名の由来通り、マツの実のようにややささくれだったような大きく、固い鱗が特徴で、その体は硬く、鎧を纏ったような姿ゆえに英語ではKnight Fish、Armor Fishと呼び、パイナップルにも似た外観からPinapple fishと呼ぶときもあるようです。
日本でもその固い鱗に被われた体からヨロイウオ、鰭を動かすときにパタパタと音を立てることからパタパタウオとも呼ぶ地方もあるそうです。
体は比較的小さく、成魚でもせいぜい15cm程で、体に比べ、目と鱗が大きく、その体の構造はハコフグ類にも似ています。そして、その体の固さから動きは遅く、遊泳力は緩慢で、体の柔軟性も失われています。 餌は主に夜行性のエビなどの甲殻類だといわれる。
なお味はよく、食用とされています。
本作品は運よく説明書が付いています。封筒が京都版画院となっていますが、大日本魚類画集を発刊した西宮書院は現在の京都版画院・・??
調べてみると戦災にあった発行元の西宮書院は、戦後京都に移って京都版画院と名称を変えて活動を続け、現在の京都版画院となっていいるようです。戦前の西宮書院からは山川秀峰や大野麦風、和田三造など著名な絵師が作品を発表していたようです。
栞の添付から後摺ではないように思いますが確証はありません。
近代の版画は初版刷、生存中の刷り、後刷など摺の時期については、非常に判断が難しく、面倒なことに評価が全く違います。版画は基本的にはマニアックな世界ですのでちょっと距離を置いています。現在は川瀬巴水、吉田博など人気がある版画作品ですが、初版刷、生存中の刷り、後刷などの区分けなど蒐集する側にはものすごい労力が要るのでしょうね。
その点、大日本魚類画集については贋作や後摺が見られません。おそらくその200度摺というのは後世では無理だったのでしょう。また蒐集するにつれて当時の関わった人々のいろんなことが解ってくるのも楽しみです。