本ブログを読まれた方からのコメント「儒学者の松崎慊堂に賛を乞うたのかもしれません」にて新たなことが解りました。情に厚く、弟子の渡辺崋山が下獄したとき、身の危険をも顧みず、赦免を求めて東奔西走した儒学者です。
写真も写りが悪かったので、再度撮影し投稿します。
美人図 祇園井特筆
絹装軸絹本着色
画サイズ:305*960
本作品はかなり汚れた状態であったものを表具し直したものであり、鉛筆かボールペンのいたずら書きは完全には消えませんでした。
仙台の骨董市からの購入です。痛んでいたのでそれほど高価ではなかったと記憶しています。
下唇を緑に、上唇は赤く塗っているのは、当時流行した化粧方法です。
また、上方浮世絵の特徴でもある。洋犬を抱いた絵図は珍しく、着物や女性の描きの微細さからも井特の傑作のひとつといえます。
賛の読みは「小姑是阿姐大姑是阿娘 但愁末嫁日不慣噢吾朗 門沢老人題」であり、意味は「下の娘はよいお姉ちゃん、上の娘はこれまたお嬢さま、二人は美人ですが、ただ心配なのは二人とも男の事となると様子を伺い、こばみいまだに嫁に行くこともなく、末が案じられる」と解釈されるようです。「はやく嫁に行って欲しい」というニュアンスか?
当作品は「字日伯立」の白文方印と「せいとく」の朱文千鳥形印を用い。皇都(京都)井特と落款されています。「せいとく」の印の欠損が見られるのは後期作品であり、真作に相違ないと判断されます。
「明澤老人」については投稿後にコメントをいただき、下記に記載される人物のようです。
祇園井特:文政10年(1827年)に没している上方浮世絵師。通称井筒屋徳右衛門と称する。京都祇園に住んでいたためこの名で呼ばれている。
円山派の影響を受けているのが作風に見られるが、門人であったかどうかは不明である。芸妓や遊女を中心に、女性の容貌を生々しいまでに写実的に描き、独自の美人画を生み出した。その美人画は、美化された今までの美人画とは違い、醜さも、乱れも、ありのままにさらけ出している。
アクが強いだけに、好き嫌いも激しく、気持ち悪いという評価もある。だが、逆に今の時代に合い高い評価を受けているのも事実である。多くの肉筆画を残しているにもかかわらず、人物についての記録がなく、その生涯は謎に包まれている。
ブログへのコメント
「印が「明復」と読めますので著賛者は儒学者の松崎慊堂の可能性があると思います。この作品の印とは別印ですが慊堂は主に字の「明復」印を使ったようです。
落款も「羽澤老人題」とも読めます。1822年(文政5年)から江戸目黒の羽澤に隠遁しましたので何らかの関係があるのかもしれません。もしそうなら著賛したのは井特の死後7年以上たってからのことになりますね。井特の絵の当時の所有者が何かの機会に、
当代随一と言われた儒学者の松崎慊堂に賛を乞うたのかもしれません。
肖像画等でも絵が描かれてだいぶ経ってからの著賛はよくあることです。もし仮説が正しければ、あの慊堂が美人画賛とはなかなかレアではないでしょうか。もしかしたら当時の所有者は彼の知人っだったとか!?いろいろ仮説(妄想)はふくらみますが・・。」
松崎 慊堂(まつざき こうどう):明和8年9月29日(1771年11月5日)~天保15年4月21日(1844年6月6日))は江戸時代後期の儒学者。名は密または復。字は退蔵・明復。別号は益城。諡号を五経先生という。墓所は東京都目黒区の長泉院。肥後国益城郡木倉村(現・熊本県上益城郡御船町)に生まれる。
祖父は米光氏の源蔵という農夫だった。恵芳と名のる僧が源蔵の姉娘のもとに住みつき、この夫婦の間にできた松五郎という子が後年の松崎慊堂である。11歳頃に浄土真宗の寺へ小僧として預けられたが、生まれつき読書が好きで学問で身を立てるために13歳頃に国元から江戸に出奔し、浅草称念寺の寺主・玄門に養われ、1790年(寛政2年)昌平黌に入る。さらに林述斎の家塾で佐藤一斎らと学び1794年(寛政6年)に塾生領袖となる。
1802年(享和2年)に掛川藩校教授となり、1811年(文化8年)には朝鮮通信使の対馬来聘に侍読として随行し、1815年(文化12年)に致仕。1822年(文政5年)から江戸目黒の羽沢・石経山房(木倉山房)に隠退して、塾生の指導と諸侯への講説にあたった。
温厚誠実な人柄で蛮社の獄により捕らえられていた、門人・渡辺崋山の身を案じて1840年(天保10年)に病をおして建白書を草し、老中・水野忠邦に提出する。慊堂は建白書の中で、崋山の人となりを述べ、彼の『慎機論』が政治を誹謗した罪に問われているとのことだが、元来政治誹謗の罪などは聖賢の世にあるべき道理がないということを、春秋戦国・唐・明・清の諸律を参照して証明し、もし公にしない反古を証拠に罪を問うならば誰が犯罪者であることを免れようか、と痛論した。
この文書の迫力でまず水野忠邦が動かされ、崋山は死一等を減ぜられたという。他の門人として、塩谷宕陰・安井息軒などがいる。文政・天保年間で大儒と称せられたのは佐藤一斎と慊堂だったが、実際の学力においては一斎は慊堂に及ばず、聡明で世事に練達していたから慊堂と同等の名声を維持することができたといわれた。狩谷棭斎らの町人学者と交遊し、はじめ朱子学を学んだがその空理性を嫌い、考証学を構築した。
他の解説より
この人の生涯は波乱万丈です。慊堂の父親は、伊勢あたりから熊本へ来た流れ者で、貧農の母と野合して慊堂が生まれました。慊堂は、幼時から寺に預けられましたが、坊主になるのが嫌で出奔し、江戸へ出ます。そこで得がたき庇護者・師匠と出会い、佐藤一斎という生涯の学友にも出会います。
しかし幸運は続かず、友人が借金のかたに昌平黌の所蔵書籍を質入れした事件に連座して追放となり、同時に内定していた熊本藩への出仕も棒に振ってしまいます。それでも花柳界への出入りをやめられず、窮乏を救ってくれた芸者と結婚したら、その妻はとんでもない吝嗇もちで、生まれた息子もドラ息子。ついに、耐えかねて郊外に別宅を作って別居。妾を囲って、息子をもうけたら、その子は凡庸で若死に。
しかしその一方、慊堂先生は情に厚く、弟子の渡辺崋山が下獄したとき、身の危険をも顧みず、赦免を求めて東奔西走します。同じく崋山の師匠であった佐藤一斎がまったく動こうとしなかったのとは対照的です。川藩儒者となり江戸で開塾。渡辺崋山と鳥居耀蔵両方の師匠だった。崋山助命のために奔走したが、鳥居は悪い奴にだまされていると思っていたようだ。大槻玄沢などとも飲み友達だった。かなり酒豪であったようですがそのせいか晩年は体調を崩した。
実にありがたいコメントです。皆様のコメントによって、当方では全く知りえなかったことが少しずつ解明されていくようです。
写真も写りが悪かったので、再度撮影し投稿します。
美人図 祇園井特筆
絹装軸絹本着色
画サイズ:305*960
本作品はかなり汚れた状態であったものを表具し直したものであり、鉛筆かボールペンのいたずら書きは完全には消えませんでした。
仙台の骨董市からの購入です。痛んでいたのでそれほど高価ではなかったと記憶しています。
下唇を緑に、上唇は赤く塗っているのは、当時流行した化粧方法です。
また、上方浮世絵の特徴でもある。洋犬を抱いた絵図は珍しく、着物や女性の描きの微細さからも井特の傑作のひとつといえます。
賛の読みは「小姑是阿姐大姑是阿娘 但愁末嫁日不慣噢吾朗 門沢老人題」であり、意味は「下の娘はよいお姉ちゃん、上の娘はこれまたお嬢さま、二人は美人ですが、ただ心配なのは二人とも男の事となると様子を伺い、こばみいまだに嫁に行くこともなく、末が案じられる」と解釈されるようです。「はやく嫁に行って欲しい」というニュアンスか?
当作品は「字日伯立」の白文方印と「せいとく」の朱文千鳥形印を用い。皇都(京都)井特と落款されています。「せいとく」の印の欠損が見られるのは後期作品であり、真作に相違ないと判断されます。
「明澤老人」については投稿後にコメントをいただき、下記に記載される人物のようです。
祇園井特:文政10年(1827年)に没している上方浮世絵師。通称井筒屋徳右衛門と称する。京都祇園に住んでいたためこの名で呼ばれている。
円山派の影響を受けているのが作風に見られるが、門人であったかどうかは不明である。芸妓や遊女を中心に、女性の容貌を生々しいまでに写実的に描き、独自の美人画を生み出した。その美人画は、美化された今までの美人画とは違い、醜さも、乱れも、ありのままにさらけ出している。
アクが強いだけに、好き嫌いも激しく、気持ち悪いという評価もある。だが、逆に今の時代に合い高い評価を受けているのも事実である。多くの肉筆画を残しているにもかかわらず、人物についての記録がなく、その生涯は謎に包まれている。
ブログへのコメント
「印が「明復」と読めますので著賛者は儒学者の松崎慊堂の可能性があると思います。この作品の印とは別印ですが慊堂は主に字の「明復」印を使ったようです。
落款も「羽澤老人題」とも読めます。1822年(文政5年)から江戸目黒の羽澤に隠遁しましたので何らかの関係があるのかもしれません。もしそうなら著賛したのは井特の死後7年以上たってからのことになりますね。井特の絵の当時の所有者が何かの機会に、
当代随一と言われた儒学者の松崎慊堂に賛を乞うたのかもしれません。
肖像画等でも絵が描かれてだいぶ経ってからの著賛はよくあることです。もし仮説が正しければ、あの慊堂が美人画賛とはなかなかレアではないでしょうか。もしかしたら当時の所有者は彼の知人っだったとか!?いろいろ仮説(妄想)はふくらみますが・・。」
松崎 慊堂(まつざき こうどう):明和8年9月29日(1771年11月5日)~天保15年4月21日(1844年6月6日))は江戸時代後期の儒学者。名は密または復。字は退蔵・明復。別号は益城。諡号を五経先生という。墓所は東京都目黒区の長泉院。肥後国益城郡木倉村(現・熊本県上益城郡御船町)に生まれる。
祖父は米光氏の源蔵という農夫だった。恵芳と名のる僧が源蔵の姉娘のもとに住みつき、この夫婦の間にできた松五郎という子が後年の松崎慊堂である。11歳頃に浄土真宗の寺へ小僧として預けられたが、生まれつき読書が好きで学問で身を立てるために13歳頃に国元から江戸に出奔し、浅草称念寺の寺主・玄門に養われ、1790年(寛政2年)昌平黌に入る。さらに林述斎の家塾で佐藤一斎らと学び1794年(寛政6年)に塾生領袖となる。
1802年(享和2年)に掛川藩校教授となり、1811年(文化8年)には朝鮮通信使の対馬来聘に侍読として随行し、1815年(文化12年)に致仕。1822年(文政5年)から江戸目黒の羽沢・石経山房(木倉山房)に隠退して、塾生の指導と諸侯への講説にあたった。
温厚誠実な人柄で蛮社の獄により捕らえられていた、門人・渡辺崋山の身を案じて1840年(天保10年)に病をおして建白書を草し、老中・水野忠邦に提出する。慊堂は建白書の中で、崋山の人となりを述べ、彼の『慎機論』が政治を誹謗した罪に問われているとのことだが、元来政治誹謗の罪などは聖賢の世にあるべき道理がないということを、春秋戦国・唐・明・清の諸律を参照して証明し、もし公にしない反古を証拠に罪を問うならば誰が犯罪者であることを免れようか、と痛論した。
この文書の迫力でまず水野忠邦が動かされ、崋山は死一等を減ぜられたという。他の門人として、塩谷宕陰・安井息軒などがいる。文政・天保年間で大儒と称せられたのは佐藤一斎と慊堂だったが、実際の学力においては一斎は慊堂に及ばず、聡明で世事に練達していたから慊堂と同等の名声を維持することができたといわれた。狩谷棭斎らの町人学者と交遊し、はじめ朱子学を学んだがその空理性を嫌い、考証学を構築した。
他の解説より
この人の生涯は波乱万丈です。慊堂の父親は、伊勢あたりから熊本へ来た流れ者で、貧農の母と野合して慊堂が生まれました。慊堂は、幼時から寺に預けられましたが、坊主になるのが嫌で出奔し、江戸へ出ます。そこで得がたき庇護者・師匠と出会い、佐藤一斎という生涯の学友にも出会います。
しかし幸運は続かず、友人が借金のかたに昌平黌の所蔵書籍を質入れした事件に連座して追放となり、同時に内定していた熊本藩への出仕も棒に振ってしまいます。それでも花柳界への出入りをやめられず、窮乏を救ってくれた芸者と結婚したら、その妻はとんでもない吝嗇もちで、生まれた息子もドラ息子。ついに、耐えかねて郊外に別宅を作って別居。妾を囲って、息子をもうけたら、その子は凡庸で若死に。
しかしその一方、慊堂先生は情に厚く、弟子の渡辺崋山が下獄したとき、身の危険をも顧みず、赦免を求めて東奔西走します。同じく崋山の師匠であった佐藤一斎がまったく動こうとしなかったのとは対照的です。川藩儒者となり江戸で開塾。渡辺崋山と鳥居耀蔵両方の師匠だった。崋山助命のために奔走したが、鳥居は悪い奴にだまされていると思っていたようだ。大槻玄沢などとも飲み友達だった。かなり酒豪であったようですがそのせいか晩年は体調を崩した。
実にありがたいコメントです。皆様のコメントによって、当方では全く知りえなかったことが少しずつ解明されていくようです。