平成29年に明治期の日本画家である渡辺省亭の100回忌にあたるに際し、これまで大きく取り上げられることのなかった省亭の展覧会(回顧展)が複数の会場で開催されました。なお渡辺省亭について詳しく解説が書かれている公式サイトも既にオープンしているようです。日曜美術館でも紹介されたり、本が刊行されたりと近年になって渡辺省亭が見直されているようです。
当方では以前から機会あるごとに渡辺省亭の作品を少しずつ蒐集していたので、嬉しい限りですが、逆にいい作品が入手しづらくなっているのが痛手です。
本日は下記の作品をインターネットオークションで落札したので紹介します。骨董商からの入手はお値段が高くなり難しくなったので、インターネットオークションでの入手となりましたが、以前は数万円で落札できた作品が今では二桁台の落札金額となっています。
本ブログでは数点の「五位鷺」を描いた作品を紹介していますが、「五位鷺」がよく画題になるのはその名の由来に関係するのかもしれません。
*五位鷺の名の由来:『平家物語』(巻第五 朝敵揃)の作中において、醍醐天皇の宣旨に従い捕らえられたため正五位を与えられたという故事が和名の由来になっている。
月下五位鷺図 渡辺省亭筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 誂箱
全体サイズ:縦1900*横580 画サイズ:縦1097*横417
その都度渡辺省亭の画歴は説明していますが、改めて渡辺省亭の画歴を下記に記しておきます。
***************************************
渡辺省亭の画歴説明
生い立ち:菊池容斎の門人。本姓は吉川、名は義復(よしまた)、俗称は良昭、幼名は貞吉、後に政吉。通称は良助。省亭は号。一昔前は専門家でも「しょうてい」と読んでいるが、省亭の末裔にあたる人々は「せいてい」と読んでおり、渡欧中の省亭に触れたフランスの文献でも「Sei-Tei」と紹介されていることから、「せいてい」が正しいとされています。なお息子に俳人の渡辺水巴がいます。
*たまに渡辺水巴による渡辺省亭の作品に鑑定箱の作品があります。渡辺水巴は渡辺省亭の作品に関して「いい作品は非常に稀である。」と述べていました。贋作の多さや駄作の多さを物語っているのでしょう。
渡辺水巴による渡辺省亭の作品については下記の記事があります。
**「渡辺省亭(せいてい)−欧米を魅了した花鳥画−」(2021年3月27日〜5月23日、東京芸術大学大学美術館)では、企画準備の段階から、国内には残っていないと思われていた多数の作品が発見された。なかでも驚きは、省亭が死の直前まで筆入れをしていた絶筆「春の野邊(のべ)」の存在が確認されたことだ。
なおこの幻の絶筆作品は小生も観てきたのですが東京会場では公開できていなかったようです。
本展の企画者である古田亮・東京芸術大学大学美術館教授に、吉報がもたらされたのは、5月9日にNHK「日曜美術館」が省亭の特集を放送した翌日。なんと、1919(大正7)年4月2日、数え68歳で没した省亭が死の5日前、あとは仕上げと落款というところまで描きながらも未完になった「春の野邊」の所在が分かったというのだ。番組で絶筆の古い写真が紹介されたことが情報提供のきっかけになった。省亭展は4月25日からの緊急事態宣言に伴う臨時休館で、再開できないまま閉幕を迎えた。肩を落とす関係者に絶筆発見のニュースは大きな喜びとなった。
明治末から大正期の美術界は、文展や院展を中心に大作名作が次々と発表され、まさに展覧会の時代。しかし晩年の省亭は、われ関せずと浅草三筋町の画室にこもり、注文に応じて四季折々の風情や花鳥を描いていた。「春の野邊」は二点描かれている。縦長でタンポポを前景に配した一点は洋室用。レンゲソウが揺れる横長のもう一点は和室用。二点とも写真は『評伝 渡邊省亭 晴柳の影に』(古田あき子さん著)に掲載されている。今回発見されたのは後者の横長の絵だ。
省亭の没後、未完の二点は長男で俳人の渡辺水巴(すいは)のもとに残されたが、二つの家庭を持ち、晩年に道楽を尽くした亡父の負債返済のため、水巴は作品を手放さざるを得なかった。縦長の絵は質入れされ、横長の絵は信州の実業家・神津猛(こうづたけし)(1882〜1946)に譲られた。神津は島崎藤村の支援者として知られ、俳句の師である水巴のことも物心両面で支えていた。その後、百年以上大事に保管されていたことが今回判明した。所蔵者から持ち込まれた作品を真作と判断した古田教授はこう語る。
「落款がないとはいえ省亭の卓抜な筆致が見て取れます。水巴による箱書きや来歴からも絶筆であることは間違いありません。展覧会を開催したかいがありました」
もうひとつの「春の野邊」は、いまどこにあるのだろうか。質入れされた後、関東大震災で奇跡的に焼け残ったことを知った水巴が、1924年に多額の利子を払って受け出したことまでは分かっている。「ゆうべ受け出した亡父の絶筆を柱に掛けた。たちまち二階が春の野辺になって蓮華草(れんげそう)や蒲公英(たんぽぽ)が亡父一流の好い色に咲いている。白く塗られただけで仕上がらなかった二羽の蝶々(ちょうちょ)が、夢というものを象徴しているように寂しい。この一幅は、この蝶々だけが未完成である」
この作品の所在は、現在は分かっていない。省亭の未完の夢を追って、その全貌を明らかにする調査研究は続いている。
さて画歴の続きです。
詳細の生い立ち:代々秋田藩の廻船問屋を務める吉川家に、吉川長兵衛の次男として、江戸神田佐久間町に生まれる。父は、前田夏蔭の門人で和歌を嗜んでいた。8歳の時、父が没し兄に養われています。13歳の時、牛込の質屋に奉公に出るが、絵ばかり描いてそれがなかなか上手かったため、店の主人が親元を説得し、16歳で容斎に弟子入りしています。
容斉の教育:同門に松本楓湖や梶田半古、鈴木華邨、三島蕉窓らがいます。容斎の指導は一風変わっており、そして極めて厳しかったようです。入門してから3年間は絵筆を握らせてもらえず、「書画一同也」という容斎の主義で、容斎直筆の手本でひたすら習字をさせられています。楷書は王羲之、かなは藤原俊成を元にしたものであったという。のちの省亭作品に見られる切れ味の良い筆捌は、この修練によって培われたと言えるのでしょう。
ところが3年経つと、容斎は反対に放任主義を取ります。容斎の指導は粉本は自由に使わせながらも、それを元にした作品制作や師風の墨守を厳しく戒め、弟子たちに自己の画風の探求と確立を強く求めました。弟子時代の逸話として、容斎は省亭を連れて散歩し自宅へ帰ってくると、町で見かけた人物の着物や柄・ひだの様子がどうだったか諮問し、淀みなく答えないと大目玉食らわしたという。後年、省亭は以後見たものを目に焼き付けるようになり、これが写生力を養うのに役立ったと回想しています。こうした厳しい指導の中で、省亭は容斎が得意とした歴史人物画ではなく、柴田是真に私淑し、花鳥画に新機軸を開いていきます。一説に、元々省亭は是真に弟子入りしようとしたが、菊池容斎の方がいいだろうという是真の紹介で、容斎に入門することになったという。こうして容斎のもとで計6年間学んだ後、22歳で画家として自立、同年には父と同門で莫逆の友であった渡辺光枝(良助)が没したため、渡辺家の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継いでいます。
*この作品は注文に応じて筆早く描かれた作品のように思われます。木に止まる脚の描き方がちょっと雑とも思います。家内はこの点を観て「怪しい・・・」と・・・。
図案家として:24歳、明治8年(1875年)美術工芸品輸出業者の松尾儀助に才能を見出され、輸出用陶器などを扱っていた日本最初の貿易会社である起立工商会社に就職。濤川惣助が手掛ける七宝工芸図案を描き、この仕事を通じて西洋人受けする洒脱なセンスが磨いています。明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会で、起立工商会社のために製作した金髹図案で花紋賞牌(三等賞)を受賞。更に翌年のパリ万国博覧会で、同社から出品した工芸図案が銅牌を獲得。これを機に、起立工商会社の嘱託社員としてパリに派遣されました。これは日本画家としては初めての洋行留学です。メンバーは副社長の若井兼三郎ら7名で、その中には林忠正もいます。省亭はこの時洋装ではなく、「法被股引」姿で欧州へ出かけたとそうです。
印象派との交流:パリ滞在期間は2年強から3年間と正確には不明ですが、この時期省亭は印象派周辺のサークルに参加しています。エドモン・ド・ゴンクールの『日記』によると、1878年10月末から11月末頃に、省亭がエドガー・ドガに鳥の絵をあげたと逸話があります。また、同じくゴンクールの「ある芸術家の家」では、省亭がこの時の万博に出品した絵を、エドゥアール・マネの弟子のイタリア人画家が描法の研究のため購入したと伝えています。他にも印象派のパトロンで出版業者だったシャルパンティエが、1879年4月に創刊した『ラ・ヴィ・モデルヌ』という挿絵入り美術雑誌には、美術協力者の中に山本芳翠と共に省亭も記載され、省亭は彼らとの交流の中で、特にブラックモン風の写実表現を取り込み、和洋を合わせた色彩が豊かで、新鮮、洒脱な作風を切り開いたようです。
帰国後の活躍:明治14年(1881年)第二回勧業博覧会では「過雨秋叢図」で妙技三等賞を受賞。明治17年(1885年)からはフェノロサらが主催した鑑画会に参加、明治19年(1887年)の第二回鑑画会大会に出品した「月夜の杉」で二等褒状。これらの作品は所在不明で、図様すら分っていません。しかし、明治26年(1893年)のシカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、殆どの展覧会へ出品しなくなります。その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと説明されますが、明治37年のセントルイス万国博覧会には出品し、金牌を受賞したとする資料もあります。
挿絵・口絵での省亭:省亭の本分はあくまで肉筆主体の日本画家でしたが、他方で木版画、口絵、挿絵にもその才能を示し、庶民にはその分野で評判が高かった。挿絵の最初は、シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』を坪内逍遥が翻訳した『該撒(しいざる)奇談 自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)』です。明治22年(1889年)刊行の山田美妙の小説『蝴蝶』において裸婦を描いて評判となりますが、後のいわゆる裸体画論争の端緒となっています。翌年に『省亭花鳥画譜』全3巻を刊行、鷺草、桜草、夾竹桃、芍薬、薊などを華麗に描いている。同じ明治23年(1890年)から明治27年(1894年)1月にかけて春陽堂より発行された『美術世界』全25巻では、編集主任として尽力し、『美術世界』は、「現存諸名家の揮毫を乞いて掲載」し「後進に意匠修練の模範」となるべく企画された美術雑誌で、実際に川辺御楯、滝和亭、松本楓湖、三島蕉窓、久保田米僊、菅原白龍、月岡芳年、荒木寛畝、河鍋暁斎、鈴木松年、小林永興、森川曾文、今尾景年、幸野楳嶺、原在泉など流派にとらわれず多くの画家が描いています。末尾の論説は川崎千虎が執筆し、省亭自身は古画の縮模を担当する一方で自作も画家たちの中で最も多く手がけ、最後の第25巻は省亭花鳥画特集となっており、印刷も当代一流の彫師と摺師と協力した美しい多色摺木版で印刷され、明治の美術雑誌の中でも格調高いものとして知られています。
洒脱な画風:渡辺省亭の作品は、対象の正確な描写を即興性高く実現する高い技術、豊かな装飾性、色彩美を特徴とし、さらに西洋風の精緻な表現をバランスよく融合させることによって、現代の眼でみてもなおそのモダンで高い気品を感じることができます。同時代において既に評価が確立している河鍋暁斎や柴田是真の次に注目すべき画家であることに疑いはありません。
印象派への影響:1878年パリ万博に出品した工芸品の図案が受賞し、これを機に現地へ 派遣されます。そこで印象派画家のパトロンのサロンで絵を描くデモンスト レーションを度々行い、その技術は驚愕をもって称賛された。とりわけドガにはその作品を渡したことが確認されており、彼の作品には省亭からの 強い影響を見ることができます。
*この作品の特筆すべきは眼の表現です。実に細かく描かれています。この点が渡辺省亭の真骨頂かな?
七宝の図案家として:その才能を見出され輸出用陶器などを扱っていた起立工商会社に就職。そこで七宝工芸図案を描くとともに、写実的で立体感のある表現や軟らかな表現を生み出すことが可能となる無線七宝という革新的な技法を生み出した濤川惣助を美術面で支えた。現在彼らが手がけた七宝の一部は迎賓館赤坂離宮の壁に30枚はめ込まれている。
***************************************
本作品中の落款と印章は下記のとおりです。
*落款と印章の写真はできる限り別々に遺しておきましょう。いろんな比較の時に扱いやすくなります。
渡辺省亭は鷺を描いた作品を多数遺していますが、本作品は月下に描いた作品で佳作と言えるでしょう。「すきっとした明確な作品」よりもやっとした感じの作品のほうが渡辺省亭らしくと思われます。。過度に「すきっとした明確な作品」には贋作を疑う必要がありますね。
そこで他の作品と比較してみましょう。
参考作品との比較
月下五位鷺図
絹本彩色 120×50cm
上記の「月下五位鷺図」は渡辺省亭の代表作のひとつとされている作品ですが、本作品との共通点は多いようです。渡辺省亭は贋作や模倣作品も多々あるようですが、同じ構図の作品を数多く描いたのも事実のようで、そのことが贋作の可能性を高めているのでしょう。
印章も同じような印が複数あり、真贋の判断を難しくしているようです。本作品の白文朱方印「省」・朱文白方印「亭」の累印も他の例が見当たらず、真贋の判断は後学となりますが、当方では作品の出来から真作に相違ないと判断しています。インターネットオークションでの落札で約10万円でしたが、保管箱などはありませんでした。保管箱がなく、当時のままでの入手は渡辺省亭に作品にはたびたびあることで、近年になって再評価されてはいるものの、これまでは知名度という点ではいまだ一流の画家というなっていなかったのでしょう。より洗練された作品として参考作品は落款の書体から判断しても本作品より後になって描かれたように思いますが詳細は解りません。
当方で所蔵する作品において渡辺省亭が鷺を描いた作品では下記の作品が投稿されています。
菖蒲ニ白鷺図 渡辺省亭筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合箱二重箱
全体サイズ:縦1880*横530 画サイズ:縦1040*横410
渡辺省亭の作品は痛んだ作品が多く、当方では新たな蒐集よりも現在は徐々に改装などの維持補修に努めています。
当方では以前から機会あるごとに渡辺省亭の作品を少しずつ蒐集していたので、嬉しい限りですが、逆にいい作品が入手しづらくなっているのが痛手です。
本日は下記の作品をインターネットオークションで落札したので紹介します。骨董商からの入手はお値段が高くなり難しくなったので、インターネットオークションでの入手となりましたが、以前は数万円で落札できた作品が今では二桁台の落札金額となっています。
本ブログでは数点の「五位鷺」を描いた作品を紹介していますが、「五位鷺」がよく画題になるのはその名の由来に関係するのかもしれません。
*五位鷺の名の由来:『平家物語』(巻第五 朝敵揃)の作中において、醍醐天皇の宣旨に従い捕らえられたため正五位を与えられたという故事が和名の由来になっている。
月下五位鷺図 渡辺省亭筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 誂箱
全体サイズ:縦1900*横580 画サイズ:縦1097*横417
その都度渡辺省亭の画歴は説明していますが、改めて渡辺省亭の画歴を下記に記しておきます。
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渡辺省亭の画歴説明
生い立ち:菊池容斎の門人。本姓は吉川、名は義復(よしまた)、俗称は良昭、幼名は貞吉、後に政吉。通称は良助。省亭は号。一昔前は専門家でも「しょうてい」と読んでいるが、省亭の末裔にあたる人々は「せいてい」と読んでおり、渡欧中の省亭に触れたフランスの文献でも「Sei-Tei」と紹介されていることから、「せいてい」が正しいとされています。なお息子に俳人の渡辺水巴がいます。
*たまに渡辺水巴による渡辺省亭の作品に鑑定箱の作品があります。渡辺水巴は渡辺省亭の作品に関して「いい作品は非常に稀である。」と述べていました。贋作の多さや駄作の多さを物語っているのでしょう。
渡辺水巴による渡辺省亭の作品については下記の記事があります。
**「渡辺省亭(せいてい)−欧米を魅了した花鳥画−」(2021年3月27日〜5月23日、東京芸術大学大学美術館)では、企画準備の段階から、国内には残っていないと思われていた多数の作品が発見された。なかでも驚きは、省亭が死の直前まで筆入れをしていた絶筆「春の野邊(のべ)」の存在が確認されたことだ。
なおこの幻の絶筆作品は小生も観てきたのですが東京会場では公開できていなかったようです。
本展の企画者である古田亮・東京芸術大学大学美術館教授に、吉報がもたらされたのは、5月9日にNHK「日曜美術館」が省亭の特集を放送した翌日。なんと、1919(大正7)年4月2日、数え68歳で没した省亭が死の5日前、あとは仕上げと落款というところまで描きながらも未完になった「春の野邊」の所在が分かったというのだ。番組で絶筆の古い写真が紹介されたことが情報提供のきっかけになった。省亭展は4月25日からの緊急事態宣言に伴う臨時休館で、再開できないまま閉幕を迎えた。肩を落とす関係者に絶筆発見のニュースは大きな喜びとなった。
明治末から大正期の美術界は、文展や院展を中心に大作名作が次々と発表され、まさに展覧会の時代。しかし晩年の省亭は、われ関せずと浅草三筋町の画室にこもり、注文に応じて四季折々の風情や花鳥を描いていた。「春の野邊」は二点描かれている。縦長でタンポポを前景に配した一点は洋室用。レンゲソウが揺れる横長のもう一点は和室用。二点とも写真は『評伝 渡邊省亭 晴柳の影に』(古田あき子さん著)に掲載されている。今回発見されたのは後者の横長の絵だ。
省亭の没後、未完の二点は長男で俳人の渡辺水巴(すいは)のもとに残されたが、二つの家庭を持ち、晩年に道楽を尽くした亡父の負債返済のため、水巴は作品を手放さざるを得なかった。縦長の絵は質入れされ、横長の絵は信州の実業家・神津猛(こうづたけし)(1882〜1946)に譲られた。神津は島崎藤村の支援者として知られ、俳句の師である水巴のことも物心両面で支えていた。その後、百年以上大事に保管されていたことが今回判明した。所蔵者から持ち込まれた作品を真作と判断した古田教授はこう語る。
「落款がないとはいえ省亭の卓抜な筆致が見て取れます。水巴による箱書きや来歴からも絶筆であることは間違いありません。展覧会を開催したかいがありました」
もうひとつの「春の野邊」は、いまどこにあるのだろうか。質入れされた後、関東大震災で奇跡的に焼け残ったことを知った水巴が、1924年に多額の利子を払って受け出したことまでは分かっている。「ゆうべ受け出した亡父の絶筆を柱に掛けた。たちまち二階が春の野辺になって蓮華草(れんげそう)や蒲公英(たんぽぽ)が亡父一流の好い色に咲いている。白く塗られただけで仕上がらなかった二羽の蝶々(ちょうちょ)が、夢というものを象徴しているように寂しい。この一幅は、この蝶々だけが未完成である」
この作品の所在は、現在は分かっていない。省亭の未完の夢を追って、その全貌を明らかにする調査研究は続いている。
さて画歴の続きです。
詳細の生い立ち:代々秋田藩の廻船問屋を務める吉川家に、吉川長兵衛の次男として、江戸神田佐久間町に生まれる。父は、前田夏蔭の門人で和歌を嗜んでいた。8歳の時、父が没し兄に養われています。13歳の時、牛込の質屋に奉公に出るが、絵ばかり描いてそれがなかなか上手かったため、店の主人が親元を説得し、16歳で容斎に弟子入りしています。
容斉の教育:同門に松本楓湖や梶田半古、鈴木華邨、三島蕉窓らがいます。容斎の指導は一風変わっており、そして極めて厳しかったようです。入門してから3年間は絵筆を握らせてもらえず、「書画一同也」という容斎の主義で、容斎直筆の手本でひたすら習字をさせられています。楷書は王羲之、かなは藤原俊成を元にしたものであったという。のちの省亭作品に見られる切れ味の良い筆捌は、この修練によって培われたと言えるのでしょう。
ところが3年経つと、容斎は反対に放任主義を取ります。容斎の指導は粉本は自由に使わせながらも、それを元にした作品制作や師風の墨守を厳しく戒め、弟子たちに自己の画風の探求と確立を強く求めました。弟子時代の逸話として、容斎は省亭を連れて散歩し自宅へ帰ってくると、町で見かけた人物の着物や柄・ひだの様子がどうだったか諮問し、淀みなく答えないと大目玉食らわしたという。後年、省亭は以後見たものを目に焼き付けるようになり、これが写生力を養うのに役立ったと回想しています。こうした厳しい指導の中で、省亭は容斎が得意とした歴史人物画ではなく、柴田是真に私淑し、花鳥画に新機軸を開いていきます。一説に、元々省亭は是真に弟子入りしようとしたが、菊池容斎の方がいいだろうという是真の紹介で、容斎に入門することになったという。こうして容斎のもとで計6年間学んだ後、22歳で画家として自立、同年には父と同門で莫逆の友であった渡辺光枝(良助)が没したため、渡辺家の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継いでいます。
*この作品は注文に応じて筆早く描かれた作品のように思われます。木に止まる脚の描き方がちょっと雑とも思います。家内はこの点を観て「怪しい・・・」と・・・。
図案家として:24歳、明治8年(1875年)美術工芸品輸出業者の松尾儀助に才能を見出され、輸出用陶器などを扱っていた日本最初の貿易会社である起立工商会社に就職。濤川惣助が手掛ける七宝工芸図案を描き、この仕事を通じて西洋人受けする洒脱なセンスが磨いています。明治10年(1877年)の第一回内国勧業博覧会で、起立工商会社のために製作した金髹図案で花紋賞牌(三等賞)を受賞。更に翌年のパリ万国博覧会で、同社から出品した工芸図案が銅牌を獲得。これを機に、起立工商会社の嘱託社員としてパリに派遣されました。これは日本画家としては初めての洋行留学です。メンバーは副社長の若井兼三郎ら7名で、その中には林忠正もいます。省亭はこの時洋装ではなく、「法被股引」姿で欧州へ出かけたとそうです。
印象派との交流:パリ滞在期間は2年強から3年間と正確には不明ですが、この時期省亭は印象派周辺のサークルに参加しています。エドモン・ド・ゴンクールの『日記』によると、1878年10月末から11月末頃に、省亭がエドガー・ドガに鳥の絵をあげたと逸話があります。また、同じくゴンクールの「ある芸術家の家」では、省亭がこの時の万博に出品した絵を、エドゥアール・マネの弟子のイタリア人画家が描法の研究のため購入したと伝えています。他にも印象派のパトロンで出版業者だったシャルパンティエが、1879年4月に創刊した『ラ・ヴィ・モデルヌ』という挿絵入り美術雑誌には、美術協力者の中に山本芳翠と共に省亭も記載され、省亭は彼らとの交流の中で、特にブラックモン風の写実表現を取り込み、和洋を合わせた色彩が豊かで、新鮮、洒脱な作風を切り開いたようです。
帰国後の活躍:明治14年(1881年)第二回勧業博覧会では「過雨秋叢図」で妙技三等賞を受賞。明治17年(1885年)からはフェノロサらが主催した鑑画会に参加、明治19年(1887年)の第二回鑑画会大会に出品した「月夜の杉」で二等褒状。これらの作品は所在不明で、図様すら分っていません。しかし、明治26年(1893年)のシカゴ万博博覧会に出品した代表作「雪中群鶏図」を最後に、殆どの展覧会へ出品しなくなります。その理由として、博覧会・共進会の審査のあり方に不満をもったためと説明されますが、明治37年のセントルイス万国博覧会には出品し、金牌を受賞したとする資料もあります。
挿絵・口絵での省亭:省亭の本分はあくまで肉筆主体の日本画家でしたが、他方で木版画、口絵、挿絵にもその才能を示し、庶民にはその分野で評判が高かった。挿絵の最初は、シェイクスピア『ジュリアス・シーザー』を坪内逍遥が翻訳した『該撒(しいざる)奇談 自由太刀余波鋭鋒(じゆうのたちなごりのきれあじ)』です。明治22年(1889年)刊行の山田美妙の小説『蝴蝶』において裸婦を描いて評判となりますが、後のいわゆる裸体画論争の端緒となっています。翌年に『省亭花鳥画譜』全3巻を刊行、鷺草、桜草、夾竹桃、芍薬、薊などを華麗に描いている。同じ明治23年(1890年)から明治27年(1894年)1月にかけて春陽堂より発行された『美術世界』全25巻では、編集主任として尽力し、『美術世界』は、「現存諸名家の揮毫を乞いて掲載」し「後進に意匠修練の模範」となるべく企画された美術雑誌で、実際に川辺御楯、滝和亭、松本楓湖、三島蕉窓、久保田米僊、菅原白龍、月岡芳年、荒木寛畝、河鍋暁斎、鈴木松年、小林永興、森川曾文、今尾景年、幸野楳嶺、原在泉など流派にとらわれず多くの画家が描いています。末尾の論説は川崎千虎が執筆し、省亭自身は古画の縮模を担当する一方で自作も画家たちの中で最も多く手がけ、最後の第25巻は省亭花鳥画特集となっており、印刷も当代一流の彫師と摺師と協力した美しい多色摺木版で印刷され、明治の美術雑誌の中でも格調高いものとして知られています。
洒脱な画風:渡辺省亭の作品は、対象の正確な描写を即興性高く実現する高い技術、豊かな装飾性、色彩美を特徴とし、さらに西洋風の精緻な表現をバランスよく融合させることによって、現代の眼でみてもなおそのモダンで高い気品を感じることができます。同時代において既に評価が確立している河鍋暁斎や柴田是真の次に注目すべき画家であることに疑いはありません。
印象派への影響:1878年パリ万博に出品した工芸品の図案が受賞し、これを機に現地へ 派遣されます。そこで印象派画家のパトロンのサロンで絵を描くデモンスト レーションを度々行い、その技術は驚愕をもって称賛された。とりわけドガにはその作品を渡したことが確認されており、彼の作品には省亭からの 強い影響を見ることができます。
*この作品の特筆すべきは眼の表現です。実に細かく描かれています。この点が渡辺省亭の真骨頂かな?
七宝の図案家として:その才能を見出され輸出用陶器などを扱っていた起立工商会社に就職。そこで七宝工芸図案を描くとともに、写実的で立体感のある表現や軟らかな表現を生み出すことが可能となる無線七宝という革新的な技法を生み出した濤川惣助を美術面で支えた。現在彼らが手がけた七宝の一部は迎賓館赤坂離宮の壁に30枚はめ込まれている。
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本作品中の落款と印章は下記のとおりです。
*落款と印章の写真はできる限り別々に遺しておきましょう。いろんな比較の時に扱いやすくなります。
渡辺省亭は鷺を描いた作品を多数遺していますが、本作品は月下に描いた作品で佳作と言えるでしょう。「すきっとした明確な作品」よりもやっとした感じの作品のほうが渡辺省亭らしくと思われます。。過度に「すきっとした明確な作品」には贋作を疑う必要がありますね。
そこで他の作品と比較してみましょう。
参考作品との比較
月下五位鷺図
絹本彩色 120×50cm
上記の「月下五位鷺図」は渡辺省亭の代表作のひとつとされている作品ですが、本作品との共通点は多いようです。渡辺省亭は贋作や模倣作品も多々あるようですが、同じ構図の作品を数多く描いたのも事実のようで、そのことが贋作の可能性を高めているのでしょう。
印章も同じような印が複数あり、真贋の判断を難しくしているようです。本作品の白文朱方印「省」・朱文白方印「亭」の累印も他の例が見当たらず、真贋の判断は後学となりますが、当方では作品の出来から真作に相違ないと判断しています。インターネットオークションでの落札で約10万円でしたが、保管箱などはありませんでした。保管箱がなく、当時のままでの入手は渡辺省亭に作品にはたびたびあることで、近年になって再評価されてはいるものの、これまでは知名度という点ではいまだ一流の画家というなっていなかったのでしょう。より洗練された作品として参考作品は落款の書体から判断しても本作品より後になって描かれたように思いますが詳細は解りません。
当方で所蔵する作品において渡辺省亭が鷺を描いた作品では下記の作品が投稿されています。
菖蒲ニ白鷺図 渡辺省亭筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先 合箱二重箱
全体サイズ:縦1880*横530 画サイズ:縦1040*横410
渡辺省亭の作品は痛んだ作品が多く、当方では新たな蒐集よりも現在は徐々に改装などの維持補修に努めています。