ものづくりというものは常に新しいものに挑戦していないと、今やっているやりかたさえも陳腐化してくる傾向があります。今の現場の乱れはそこにあるような気がします。
さて、今日は朝一番で岩手県へ・・、昨夜は来年の新入社員の内定式・・、慌しい日が続きます。
本日の作品は「古黄瀬戸」と称したものの、江戸期以降の作である可能性があります。ただ、実にいい・・、実にいいと感じるのですがから、小生の感性もたいしたことはないのかもしれませんね
古黄瀬戸 彫草葉紋花口皿
合箱
最大幅240*高台径110*高さ47
古黄瀬戸という作品は「砂地に油を流したようなしっとりとした照りがあり、高台まですべて釉薬がかけられています。」というのが条件のようです。古黄瀬戸は室町時代から焼かれた黄色の釉調で古来茶人に珍重されました。
一般に、薄く造った素地に木灰釉を薄く施釉し、焼成された陶器です。菖蒲や秋草、大根などの線描、菊や桐の印花などに胆礬(タンパン 緑発色する硫酸銅)や鉄釉のこげ色が好まれます。 そして胆礬が裏まで写った抜け胆礬、写し胆礬と呼ばれるものは珍重されます。釉肌は、柚子肌で一見油揚げを思わせるものを油揚げ手と呼ばれ、明るい光沢のある貫入の入った黄釉で文様がないものをぐい呑手(六角形のぐい呑が茶人に好まれたから)とか、菊皿手(菊花紋、菊型の小皿が多いから)と呼ばれています。
油揚げ手は、向付、鉢などの食器に、ぐい呑手には、皿、向付、鉢、花生、水指、香合など茶道具に多くみられます桃山の黄瀬戸は、俗にグイノミ手・アヤメ手・菊皿手などに分けられています。
近代にその再現に挑戦した陶工も多くいましたが、一部の陶工を除きことごとく失敗しています。人はモノづくりには常に挑戦のですが、なにも新しいことばかりにだけではなく、過去のものにも挑戦しているのです。
********************************************************
補足
中国宋代の「青磁」をまねた瀬戸では「古瀬戸」という灰釉を焼いている。「青磁」は還元焼成だが、瀬戸の灰釉は酸化気味だったために薄淡黄色の透明性の強い釉薬となった。
印花壺や瓶子、天目茶碗、茶入などが二代・加藤藤四郎の「椿窯」で創世されたといい、平安時代末から室町の初期頃まで焼かれていた。
これが室町末期、美濃に伝わって「黄瀬戸」の源流となる。
黄瀬戸には「ぐい呑手」と、その後に茶陶として焼かれた「油揚手」又は「あやめ手」、さらに登窯で大量にやかれた「菊皿手」の三種類があるが、これらは昭和八年に加藤唐九郎著『黄瀬戸』が出版されて以来、唐九郎の分類が定着した感がある。
「ぐい呑手」は当時造られた「六角のぐい呑」の黄瀬戸釉が溶けてツルッとしていたから付けられたもの。肉の厚い素地で、火前に置いて強火があたり、いわゆるビードロ釉となった状態で、黄瀬戸釉が厚いところにはナマコ釉の現れたものが多く、これにはタンパン(胆礬=銅呈色の緑釉)はみられない。
柔らか味のある黄色の光沢の鈍い黄瀬戸の釉肌にタンパンという銅緑色と鉄褐色の斑点が発色していて、高台内には焼成時の台にコゲ目が残っている「油揚手」「アヤメ手」といわれる『黄瀬戸』が、桃山時代の美濃大萱の窯下窯、牟田ヶ洞、中窯、浅間窯で名品が多く焼かれた。鈍い光沢の油揚手は志野と同様、湿気のある穴窯焼成からえられた。
魯山人はしっとりとした肌が美しい油揚手の名品が焼かれた窯下窯を発掘した経験から黄瀬戸は特有の湿気がある穴窯で焼かれていたことを突き止めた。魯山人は自らの窯は湿気の少ない登窯であった。そこで黄瀬戸釉に灰が被らぬように匣鉢に入れた。しかも匣鉢を重ねる時、下のほうの匣鉢に泥状にした土だけをその匣鉢に入れて焼いたのだ。結果的に下の匣鉢から発する水蒸気を利用して艶が抑えられた黄瀬戸を焼成することができた。というように、湿気や序冷が「油揚手」を形成する。
古黄瀬戸には銅鑼鉢の形状が多いが銅鑼鉢は輪花とともに中国明代、交趾系の華南三彩に見られる器形。
井上家旧蔵のアヤメ文の輪花銅羅鉢は薄手で肌がジワッとした「油揚手」で窯下窯の名品といわれるもの。光沢の鈍い釉調と刻文のあるアヤメ紋様にタンパンがあるところから「アヤメ手」といっているが、『日本の陶磁第三巻』にはほかに蕪、露草、梅、菜の花、そして花唐草などがある。菊や桜、桐など日本の伝統的紋様は少ない。「大根」(相国寺の所蔵する黄瀬戸銅鑼鉢)は一点のみである。
タンパンとは胆礬という硫酸第二銅を釉に使用しているからで、表面に一面の黄瀬戸釉が掛り鉄褐色と銅緑色のタンパンの斑点が器物を抜けて裏面まで浸透したものを「抜けタンパン」といい茶人は珍重する。このタンパン、火前の強火では揮発してしまうし、光沢もでてくる。
この二種の黄瀬戸にも、利休と織部の好みが分かれる。比較的に淡雅な「ぐい呑手」は利休好みで、利休所持の立鼓花入・建水(銘大脇指)や旅枕掛花入(銘花宴)など古淡を好んでいる。一方、織部は変化の激しい光沢の鈍い「油揚手」を好んだ。
********************************************************
魯山人の何気ない黄瀬戸が高価なのは理由があるのですね。
ものづくりは常に創意工夫にて挑戦していないと、現在のやり方さえ質が落ちてくるものなのです。あらかたなものが標準化され、情報伝達のスピードの早い現代ではとかく創意工夫を忘れがちですね。でも本当に大切なものは標準化などされるものでないと思います。それは魯山人のごとくあらかたが信念と情熱だから・・。いつまで今の社員に伝えきれるのやら・・。
本作品・・、いずれにしても、箱もなく打ち捨てられるように売られていた作品ですが、いかようにしましょう?
さて、今日は朝一番で岩手県へ・・、昨夜は来年の新入社員の内定式・・、慌しい日が続きます。
本日の作品は「古黄瀬戸」と称したものの、江戸期以降の作である可能性があります。ただ、実にいい・・、実にいいと感じるのですがから、小生の感性もたいしたことはないのかもしれませんね
古黄瀬戸 彫草葉紋花口皿
合箱
最大幅240*高台径110*高さ47
古黄瀬戸という作品は「砂地に油を流したようなしっとりとした照りがあり、高台まですべて釉薬がかけられています。」というのが条件のようです。古黄瀬戸は室町時代から焼かれた黄色の釉調で古来茶人に珍重されました。
一般に、薄く造った素地に木灰釉を薄く施釉し、焼成された陶器です。菖蒲や秋草、大根などの線描、菊や桐の印花などに胆礬(タンパン 緑発色する硫酸銅)や鉄釉のこげ色が好まれます。 そして胆礬が裏まで写った抜け胆礬、写し胆礬と呼ばれるものは珍重されます。釉肌は、柚子肌で一見油揚げを思わせるものを油揚げ手と呼ばれ、明るい光沢のある貫入の入った黄釉で文様がないものをぐい呑手(六角形のぐい呑が茶人に好まれたから)とか、菊皿手(菊花紋、菊型の小皿が多いから)と呼ばれています。
油揚げ手は、向付、鉢などの食器に、ぐい呑手には、皿、向付、鉢、花生、水指、香合など茶道具に多くみられます桃山の黄瀬戸は、俗にグイノミ手・アヤメ手・菊皿手などに分けられています。
近代にその再現に挑戦した陶工も多くいましたが、一部の陶工を除きことごとく失敗しています。人はモノづくりには常に挑戦のですが、なにも新しいことばかりにだけではなく、過去のものにも挑戦しているのです。
********************************************************
補足
中国宋代の「青磁」をまねた瀬戸では「古瀬戸」という灰釉を焼いている。「青磁」は還元焼成だが、瀬戸の灰釉は酸化気味だったために薄淡黄色の透明性の強い釉薬となった。
印花壺や瓶子、天目茶碗、茶入などが二代・加藤藤四郎の「椿窯」で創世されたといい、平安時代末から室町の初期頃まで焼かれていた。
これが室町末期、美濃に伝わって「黄瀬戸」の源流となる。
黄瀬戸には「ぐい呑手」と、その後に茶陶として焼かれた「油揚手」又は「あやめ手」、さらに登窯で大量にやかれた「菊皿手」の三種類があるが、これらは昭和八年に加藤唐九郎著『黄瀬戸』が出版されて以来、唐九郎の分類が定着した感がある。
「ぐい呑手」は当時造られた「六角のぐい呑」の黄瀬戸釉が溶けてツルッとしていたから付けられたもの。肉の厚い素地で、火前に置いて強火があたり、いわゆるビードロ釉となった状態で、黄瀬戸釉が厚いところにはナマコ釉の現れたものが多く、これにはタンパン(胆礬=銅呈色の緑釉)はみられない。
柔らか味のある黄色の光沢の鈍い黄瀬戸の釉肌にタンパンという銅緑色と鉄褐色の斑点が発色していて、高台内には焼成時の台にコゲ目が残っている「油揚手」「アヤメ手」といわれる『黄瀬戸』が、桃山時代の美濃大萱の窯下窯、牟田ヶ洞、中窯、浅間窯で名品が多く焼かれた。鈍い光沢の油揚手は志野と同様、湿気のある穴窯焼成からえられた。
魯山人はしっとりとした肌が美しい油揚手の名品が焼かれた窯下窯を発掘した経験から黄瀬戸は特有の湿気がある穴窯で焼かれていたことを突き止めた。魯山人は自らの窯は湿気の少ない登窯であった。そこで黄瀬戸釉に灰が被らぬように匣鉢に入れた。しかも匣鉢を重ねる時、下のほうの匣鉢に泥状にした土だけをその匣鉢に入れて焼いたのだ。結果的に下の匣鉢から発する水蒸気を利用して艶が抑えられた黄瀬戸を焼成することができた。というように、湿気や序冷が「油揚手」を形成する。
古黄瀬戸には銅鑼鉢の形状が多いが銅鑼鉢は輪花とともに中国明代、交趾系の華南三彩に見られる器形。
井上家旧蔵のアヤメ文の輪花銅羅鉢は薄手で肌がジワッとした「油揚手」で窯下窯の名品といわれるもの。光沢の鈍い釉調と刻文のあるアヤメ紋様にタンパンがあるところから「アヤメ手」といっているが、『日本の陶磁第三巻』にはほかに蕪、露草、梅、菜の花、そして花唐草などがある。菊や桜、桐など日本の伝統的紋様は少ない。「大根」(相国寺の所蔵する黄瀬戸銅鑼鉢)は一点のみである。
タンパンとは胆礬という硫酸第二銅を釉に使用しているからで、表面に一面の黄瀬戸釉が掛り鉄褐色と銅緑色のタンパンの斑点が器物を抜けて裏面まで浸透したものを「抜けタンパン」といい茶人は珍重する。このタンパン、火前の強火では揮発してしまうし、光沢もでてくる。
この二種の黄瀬戸にも、利休と織部の好みが分かれる。比較的に淡雅な「ぐい呑手」は利休好みで、利休所持の立鼓花入・建水(銘大脇指)や旅枕掛花入(銘花宴)など古淡を好んでいる。一方、織部は変化の激しい光沢の鈍い「油揚手」を好んだ。
********************************************************
魯山人の何気ない黄瀬戸が高価なのは理由があるのですね。
ものづくりは常に創意工夫にて挑戦していないと、現在のやり方さえ質が落ちてくるものなのです。あらかたなものが標準化され、情報伝達のスピードの早い現代ではとかく創意工夫を忘れがちですね。でも本当に大切なものは標準化などされるものでないと思います。それは魯山人のごとくあらかたが信念と情熱だから・・。いつまで今の社員に伝えきれるのやら・・。
本作品・・、いずれにしても、箱もなく打ち捨てられるように売られていた作品ですが、いかようにしましょう?